酒田
1907(明治40)年4月19日金曜日午後1時半、山形県酒田町に新設された陸羽線の終着駅・酒田駅。
(うわぁ……また、出迎えの人がたくさんいる……)
特別列車の窓から酒田駅のホームを見渡し、私はこっそりため息をついた。
「お出迎えをしているのは、酒田町長以下、酒田町の有力者の方々ですね」
横から東條さんが私に説明する。仙台駅のように、県知事が出迎えの列に加わっていないのは、この特別列車に乗り込んでいるからだ。今朝、宮城県の小牛田駅での陸羽線開通式典に出席した山形県知事は、そのままこの特別列車に乗り込んだ。そして、この列車に連結された食堂車で、私と大隈さん、尾崎さんと一緒に昼食をとっている。
(しかし、本当に公務が立て続けにあるなぁ)
今日はこれから、東北帝国大学の理科大学・工科大学の開学式典に出席する。そして、酒田港と酒田港にあるガソリン精製工場を見学して、酒田町内の料亭で大学関係者や山形県・酒田町の有力者たちとの懇親会に出席する。それが終わればまた列車に乗って、盛岡に向かうのだ。ここまで公務がぎっしり詰まるのは、東京では余りないことである。
(ま、これも大事な仕事だからな。しょうがない)
「じゃ、行きますか。今日の後半戦、突入ですね」
私は白い軍帽をかぶり直すと、ソファーから立ち上がった。
ホームに降り立つと、私は酒田の町長さん以下、酒田町の有力者たちの挨拶を受けた。その中に、酒田で一番の、全国でも50位以内に入る資産家・本間家の当主である光輝さんと、そのお父様の前当主・光美さんがいた。本間家は酒田で代々続く豪農で、戊辰戦争の時には旧幕府軍側に立った庄内藩に多額の献金をした。そして、戊辰戦争の決着がつき、庄内藩が転封されそうになった時には、新政府に多額の献金をして転封を阻止した。その時、光美さんは若いころの大隈さんと渡り合ったそうで、“なかなか手強かった”と大隈さんが昼食の席で語っていた。
今回、東北帝国大学の理科大学と工科大学が酒田町に開学するにあたり、本間家は東北帝国大学に多額の寄付をしてくれたそうだ。揃って黒いフロックコートを身につけた本間さん親子に、私は丁重にお礼を言った。
酒田駅から馬車で東北帝国大学理科大学に移動すると、私は仙台の開学式典と同じように開学を祝う令旨を読み上げた。私の前に並んでいる教職員は、東京と京都の帝国大学から選抜された、新進気鋭の研究者たちだ。そして、彼らに加えて、イギリス人の化学者たちも何人か、教職員として採用されていた。
私が前世で学んで覚えていた事項の中に、ハーバー・ボッシュ法とオストワルト法がある。この2つを組み合わせると、水素と窒素から硝酸が作れる。硝酸は染料や肥料、そして火薬の原料の一つなのだ。この知識はもちろん大山さんに伝えたけれど、反応に必要な高温・高圧の環境が日本の技術では作れないということで、10年以上前、密かにイギリスと提携して研究が始まった。そして、秘密裏に工業生産方法が確立したのが1906年の末のことだ。オストワルト法自体は、“史実”通り1902年にヴィルヘルム・オストワルトさんが発見して発表されたけれど、“史実”より何年も早く、水素と窒素から硝酸が作れるようになった。イギリス人化学者たちは、肥料生産などを研究する一方、爆薬工場も作ることになっている。式典が終わり、彼らと顔を合わせた時、私はニトログリセリン――爆薬だけれど、狭心症の薬にもなる物質を作るように頼んだ。ニトログリセリンの医薬品としての作用は、この時代でも既に知られているのだ。
また、酒田には、フェノール樹脂の生産工場も建てられることになっている。フェノール樹脂は、私がこの時代に生まれる前に発見されていたけれど、工業的に生産する方法は確立されていなかった。そして、産技研が試行錯誤の末、今年の初めにようやく工業的生産に成功したのだ。酒田町は、最先端の技術が集まる工業都市として発展しようとしていた。
「ありがたいことでございます」
酒田港とガソリン精製工場の視察を終えた後、町内の料亭で行われた懇親会の席上、本間家の現当主・光輝さんが私の前にやってきて一礼した。
「戊辰の役以降、船舶の発達もあり、酒田での商取引は減っておりました。13年前にこの地を襲った地震で、大火事でも発生していたら、酒田は完全に衰退していたでしょう。幸いにして、即身仏のお告げのおかげで、皆、火を消して避難をしておりましたから、火事が起こることはありませんでしたが……」
(あ……あの時のことかー!)
確か、児玉さんの仕業だ。彼は中央情報院の職員たちを使い、“即身仏が動き出して、地震が起こるから避難するようにお告げを下した”という噂を、山形県と秋田県にばらまき、庄内地震の発生時刻に住民全員を避難させていた。
「しかし、この酒田に理科大学と工科大学が設置され、鉄道も敷設されました。その関連の工事で働くことで、一昨年発生した冷害で苦しんでいた農家の者たちも、生活の糧を得ることが出来、経済的に立ち直れました。聞けば、最初に酒田に理科大学と工科大学を設置するよう仰せになったのは、殿下であらせられるとか……。酒田の住民として、心から御礼申し上げます」
「あ、いや、その……恐縮です」
再び深く頭を下げた光輝さんに、私は慌てて返した。とっさの思い付きで言い始めたことが、この土地の人たちを助けることにつながったらしい。
(なるほど、公共事業をすると、経済効果ってこういう風に波及していくんだな……)
そんなことを考えていると、
「実は、殿下に無理を承知でお伺いしたいのですが」
光輝さんが私の目をじっと見つめた。
「今後、酒田の街が更に発展するには、何をすればよろしいでしょうか。是非、英明とご評判の殿下にご指南いただきたく……」
(それ、内親王に聞くこと?)
思わず目を丸くしそうになった私だけれど、
(いや、待てよ)
と考え直し、慌てて平生の表情を装った。大隈さんと、先代の本間家当主の光美さんが、私をニヤニヤしながら見ているのに気が付いたからだ。
(これ、大山さんが私に出しそうな問題じゃないか。もしかしたら、大隈さんと光美さんがグルになって、光輝さんをけしかけて私に質問させてるのかな?)
ならば、真剣に答えなくてはならない。今日の視察で見せられた酒田町の地図を思い出しながら、私は口を開いた。
「酒田港を改修することでしょうか」
「ほう?」
「今後、理科大学と工科大学で研究が進めば、その研究成果を製品化するための工場が必要になります。そこで作られた製品を輸送するのには、鉄道も使えますけれど、船舶も使う必要が出てきます。船舶は大きくする方が、輸送効率が良くなります。だから、港を拡張して、埋め立て地を作ると同時に岸壁を整備して、最大で1万トンぐらいの船舶が停泊できるようにするんです。けれど、一つ問題があって……」
「何でしょうか?」
尋ね返す光輝さんの声が、若干震えている。それに構わず、私は言葉を続けた。
「酒田港は最上川の河口にあります。ですから、最上川の上流から流れ込む砂で港の水深が浅くなってしまいやすいです。それに、港の周辺で埋め立てを進めれば、最上川の氾濫に弱い、標高の低い土地も生み出すことになります。だから、最上川の氾濫を防ぐ、大規模な改修工事も同時にやらないといけません。そうなると、予算をどこから持ってくればいいのかと思いまして……」
すると、
「うむ、流石は増宮さまなんである!」
光輝さんの後ろで、突然大隈さんが拍手する。光輝さんはギョッとしたように大隈さんの方を振り向くと、
「大隈閣下、私には無理です!“殿下を試すような質問をしろ”、とは……!」
と、抗議の声を上げた。
「大隈閣下は、昔と変わらず手厳しいのう。まさか、内親王殿下にもこの調子とは」
のんびりと光美さんが言うと、
「増宮さまの将来を思えばこそ、吾輩、ビシバシと鍛えるんである!」
大隈さんはこう言い切った。……本当に、梨花会の面々には、油断が全くできない。
「申し訳ございませんでした、殿下」
頭を下げる光輝さんに、
「ああ、私は気にしていませんよ」
私は微笑しながら答えた。
「今回、殿下に酒田にお泊りいただけないのが非常に残念です。また是非、ゆっくりと時間を取って酒田にいらしていただければと思います」
光輝さんが、恐縮しながらこんなことを言う。今回の東北での公務は、仕事が余り休めないこともあって、夜行列車を使っての強行軍をして、日程を短縮しなければならない。だから、大隈さんと尾崎さんは酒田に泊まるけれど、私は酒田には泊まらず、これから夜行列車に乗るのだ。
「そのころには、酒田には工場がたくさん出来て、港も広くなって、大きな船がたくさん発着していますかね?」
光輝さんに尋ねると、
「きっとそうなっていると思います。それを実現できるように、私たちも帝国大学の方々と一緒に、力を尽くします」
彼は笑って頷いた。将来、……どのくらい先のことかは分からないけれど、きっと、光輝さんの言う通り、酒田は発展するだろう。私はそう感じた。
午後10時30分。
「えーと、“今回の一件は、全て私の一存でしたことです”、と……」
午後10時に酒田駅を発車した特別夜行列車は、夜の闇の中を盛岡駅に向かっている。その特別列車に連結されている寝台車の個室で、私は机に向かっていた。この個室には十分な幅のあるベッドが置かれ、机と椅子、そして洗面所も設置されている。休息はしっかり取れそうだった。
「“罪は、東條さんではなくて私にあります。もし、東條さんが罪をかぶろうとするならば、その罪は東條さんの代わりに私がかぶります”……ここまで書けば、辞職するなんて言わないわよね?」
私は便せんに、ペンとインクで文章を書いている。この紙が、彼に渡される前に破り捨てられる運命に終わればいい。けれど、もし彼に渡されてしまったら、最大限、効力を発揮してもらわなければならない。
「“事が済めば、必ず将官倶楽部に戻ります“。よし、こんなものかな」
文章を書き終わると、便せんを畳んで封筒に入れる。それから、軍服の内ポケットに入れてある財布を取り出して、中身を確認する。軍服の他のポケットも確認して、必要なものは全て入っていることを確かめた。
「本当は、お花も用意したいけれど、悠長に花屋さんに寄ったら、時間が無くなるから、無しで勘弁してもらおうか。ああ、でも、仙台の時みたいに急に予定が変わらないかな……」
小さな声で呟いていると、個室の扉がノックされた。慌てて、普段和歌を作るときに使っている雑記帳を取り出し、その下に封筒を隠す。「どうぞ」と声を掛けると、千夏さんが入ってきた。
「宮さま、そろそろお休みのご刻限……あら、珍しいですね。宮さまが自分から、和歌を作ろうとなさるなんて」
机の上を見て微笑する千夏さんに、
「寝台車に乗ったのは初めてだから、何かいい歌が出来るかなと思って試してみました」
私は落ち着いて答えた。「でも、全然ダメですね。環境を変えたからと言って、急に和歌が出来る訳ではないようです」
「山縣閣下がおっしゃるように、やはり日ごろから少しでも歌を詠むことが大事だと思いますよ、宮さま」
千夏さんは言った。どうやら、雑記帳の下には気が付いていないようだ。
「さぁ、明日も早いですから、もうお休みになってください、宮さま」
「わかりました。着替えて寝ますね。おやすみなさい、千夏さん」
「お休みなさいませ、宮さま」
千夏さんは一礼すると、個室から出ていった。扉が閉まったのを確認すると、私は雑記帳の下から封筒を取り出して、軍服のポケットにしまった。ベッドの上に置いてある寝巻に着替えると、軍服をハンガーに掛けて用心深く吊るす。
(盛岡での予定が変わって、この封筒、使わないで済みますように……)
立ったまま、目を閉じてこう願うと、私は部屋の灯りを消した。
※ニトログリセリンは第三改定日本薬局方(1906年)から収載されました。




