仙台
1907(明治40)年4月17日水曜日午後6時10分、仙台駅。
「うわー、やっぱり来ちゃってるよ、県知事さんと市長さん……」
特別列車の車内からホームを確認した私は、写真で顔を覚えた宮城の県知事さんと仙台の市長さんの姿を発見してため息をついた。
「当たり前でしょう、増宮殿下。ご公務を伴う訪問ですから」
脇から黒いフロックを着た東條さんが私をなだめる。
「分かってますけれどね。どうも、堅苦しいのは苦手で」
私がそう返すと、
「大丈夫です、宮さま!いつも通り、堂々となさっておられれば、県知事や市長など、宮さまの敵ではありません!」
千夏さんが若干物騒な言葉で私を励ました。
「“敵ではありません”って、県知事さんや市長さんと戦う訳じゃないんですよ、千夏さん」
私がため息をついた時、上野から私を乗せてきた特別列車が、目標位置に静かに停車する。私は特別室に設えられたソファーから立ち上がり、ラベンダー色の通常礼装の裾を引きずりながら車両の出入り口へと歩いた。
今日から5日間の日程で、私は東北地方を旅行する。旅行と言っても、ただの旅行ではない。日本で3番目の帝国大学となる東北帝国大学の開学式典と、陸羽線の開通式典への出席という、皇族としての務めを果たすためである。公式行事の他にも、東北帝国大学医科大学、酒田のガソリン工場、盛岡の農地などの視察や、各地の県知事や市長との食事会など、スケジュールはびっしりと埋まっていた。
(作れないことも無いのよね、暇が……)
東條さんから教えられた、今回の旅行の全行程を、私は頭の中で再確認する。結局、2月の時点の行程に、盛岡の桜山神社の参拝が付け加えられただけで、この5日間の予定訪問先は変わらなかった。桜山神社には、現在、盛岡藩の初代・南部信直と、南部家の初代・南部光行が祀られているそうだ。私が前世で訪れた時には、祭神となっていた南部家の藩主がもっと多かった記憶があるけれど、どうやら祭神が増えたのは後年のことであるらしい。
(やっぱり、仙台で経ヶ峰にお参りするのに、盛岡はそれだけっておかしいもの)
大山さんには、もちろん話してはいない。けれど、内国博を微行で訪れた後、大山さんとは何回も顔を合わせているけれど、“止めろ”とは言われなかった。大山さんなら、絶対に私の企みに気付いているはずだから、もしやらない方がいいと思うなら、東京を出発する前に私を止めている。今回、大山さんは院の仕事があって、この公務に同行できないのだから。
(まぁ、本当にやるかどうかは、状況を見て判断しよう。もしかしたら、急な予定変更もあるかもしれないしね)
考えをそこまで進めた時、ちょうど特別列車の乗降口に着いた。ホームには、宮城県知事以下、フロックコートを着た一団が整列していて、私の姿を見ると一斉に最敬礼する。私は軽く頷くと、眼前の光景に集中することにした。
4月18日木曜日午前9時半、仙台市片平丁にある東北帝国大学の大講堂。
「本日、この東北帝国大学の開学式典に臨めることを、非常に嬉しく思います」
整列した東北帝国大学の教職員一同に向かって、軍医少尉の正装を着た私は、大山さんの手直しを受けて完成させた令旨を読み上げていた。東京専門学校の創立20周年記念式典に出席した時には通常礼装を着ていたのに、今日は軍医の正装、しかも下がスカートでなくてズボンを着ているのは、この後の見学の予定を考慮してのものだ。流石に、都市部にある城跡とはいえ、裾を引きずってしまうスカートで色々と見て回るわけにはいかない。
「この東北帝国大学から、わが帝国のみならず、世界を発展させる研究成果が多数生まれることを切に願います」
紙を畳みながら大講堂の中を見回すと、教職員一同、そしてこの式典に私と一緒に参加している文部大臣の大隈さんと逓信大臣の尾崎行雄さんが、私に向かって最敬礼した。逓信大臣の尾崎さんの話は、大隈さんからよく聞くけれど、会うのは初めてだ。大隈さんより少しだけ早く頭を上げた彼と目が合ったので、私は彼に向かってにっこり微笑んでおいた。
式典が終わると、医科大学付属病院に移動して、病院長の案内で附属病院を視察する。その後、宮城県庁に移動して、大隈さんや宮城県知事さんとの昼食会になった。
「うむ、今日の増宮さまも堂々としておられて、大変素晴らしかったんである!」
宮城県庁食堂での昼食会の席上、大隈さんは隣に座った県知事さん相手に、なぜか私のすばらしさを力説していた。そこは宮城県・仙台市の県政や教育について懇談をするところだろう。私は仙台にある第2高等学校での女子学生の様子を聞いてみた。第2高等学校での女性生徒の比率は、全生徒のおよそ2%。昨年9月に、初めての女子卒業者が出たそうだ。
「しかし、彼女は“帝国大学に進学できないのが心残りだ”と言っておりまして……」
仙台市長さんは第2高等学校での女子生徒の現況を報告すると、こう残念そうに付け加えた。
「ああ、女子はまだ帝国大学に進学できませんからね」
私は頷いた。この時代の帝国大学進学は、中学校卒業までが義務教育である私の時代だと、大学院に進学するぐらいの感覚になるだろうか。もちろん、私の時代では、女子は大学にも大学院にも進学可能だ。
「なるほど……。女子の中にも、大学まで教育すれば、世のためになる研究を将来成しえる人材が埋もれている可能性は大ですね」
逓信大臣の尾崎さんは感心したように頷くと、「そうお思いになりませんか、大隈閣下?」と自分の所属する政党の党首に話を振った。
すると、
「おお、確かにその通りなんである!」
大隈さんが深く頷く。
「我が東京専門学校でも、女子の卒業生を続々と輩出しておるが、卒業生の中には、更に勉学に励みたいという志を持ちながら、制度の壁に阻まれている者もいるんである!これは何とか、吾輩が文部大臣である間に制度の壁をなくすよう、議論を重ねていきたいところであるんである!」
大隈さんの言葉は、いかにも文部大臣らしいものになった。これなら、県知事さんも市長さんも、大隈さんの言動に戸惑わないだろう。それからは、女子高等教育や県政について非常にまともな議論が繰り広げられ、昼食会の予定の時間は無事に過ぎ去ったのだった。
食堂から退出する時に、
「あの、尾崎さん、大隈さんっていつもあんな感じなんですか?」
とこっそり尋ねたところ、尾崎さんは一瞬顔を引きつらせ、黙って首を縦に振った。どうやら、大隈さんは、いつもあんな風に、話が変な方向に行きかけてしまうようだ。私は思わず尾崎さんに、「いつも大隈さんがご迷惑をおかけして申し訳ありません……」と謝ってしまったのだった。
午後2時。
「この建物が、仙台藩祖の廟でございます」
知事さんが指し示したのは、豪華絢爛な桃山建築の建物だ。瑞鳳殿と呼ばれる、初代仙台藩主、戦国武将としても有名な伊達政宗の廟である。前世で見たことがあるけれど、太平洋戦争の時に空襲で焼けてしまっていたので、私が見たのは戦後に再建されたものだ。
「豪壮な桃山建築ですね。間近に見ることが出来て嬉しいです」
“史実”で失われてしまった歴史的建造物を見ることができるのは、過去に転生したからこそ味わえる幸せだ。この瑞鳳殿もそうだけれど、仙台にある他の歴史的な建造物も、いや、日本の他の地域にある歴史的な建造物も、未来まで残していきたい。私は政宗公のご冥福を祈りつつ、その思いを新たにした。
そして、
「こちらが、戊辰の役の弔魂碑でございます」
瑞鳳殿のそば、知事さんが示したのは大きな碑だ。私が前世で見た時と変わらないその碑は、戊辰の役と函館戦争で犠牲になった仙台の人たちの霊を慰めるために建立された。私の後ろをついてきていた千夏さんが、花束を私に渡す。それを受け取って左右の花立てに入れると、私は一歩下がって深く頭を下げた。
「……ありがとうございました、殿下」
仙台市長さんが、祈り終えて頭を上げた私に最敬礼した。
「逆賊とされた我々に対しこのご温情、感謝のしようもありません」
(ん?)
「ということは……市長さんは、この仙台のご出身ですか」
市長さんの言葉に引っかかって、こう尋ねてみると、
「はい。戊辰の役が起こったころ、私はまだ元服しておりませんでしたが」
市長さんは再び頭を下げた。そういえば、今の時代の市長は、有権者による選挙で選ばれるものではなく、市会が推薦して、内務大臣が任命するものだ。だから、その地方自治体にゆかりのある人を市会が推薦してもおかしくないのだ。
「市長さん。私、戊辰の戦以来、この国で流れた血は、お父様を大切に思っていてくれた人たちのものだと思っています」
これだけは伝えなくてはいけない。私は市長さんに向かって、しっかりした声で言った。
「けれど、悲しいことに、意見が違ってしまって、敵と味方の区別がついてしまっただけ。だから、敵味方の区別なく戦死した方を弔うのは、私の義務だと思っています」
「ありがたい……実にありがたいことでございます。戦死した者も、刑死した者も、泉下できっと殿下のお言葉を喜んでいることでしょう」
市長さんは肩を震わせながら私に答える。
と、
「殿下、“戊辰の役以来”とおっしゃいましたが、それには、西南の役も含まれるのでしょうか」
仙台市長さんの横から、知事さんが真剣な表情で私に尋ねた。
「はい、それはもちろんです」
私が答えると、
「実は、このすぐ近くに、西南戦争で西郷軍に属しており、戦後、国事犯としてこの地に収容され、釈放前に亡くなった者たちの墓がございます。そちらにも御成りいただければ……と思うのですが……」
「しかし、ご予定が……」
私の後ろで東條さんが叫んだけれど、
「東條さん、仙台城址見学の時間が無くなっても構いません。そちらのお墓にもお参りします」
私は振り向いて、キッパリと言った。
「よろしいのですか、宮さま?仙台城址のご見学、楽しみになさっていたではないですか」
「いいんですよ、千夏さん。趣味より、皇族としての務めを果たすことの方が優先です。仙台城には、また時間があるときに来ればいいんですから」
これは心からそう思う。もちろん、前世では見られなかった江戸時代からの建物が見られないのは辛い。けれど、このお墓参りは、今生の私にとって、お城の遺構を見るよりも大事なことなのだ。
(いつか、時間を取って、ゆっくり仙台に来られたら、その時に仙台城址は見ればいいや。それまで、仙台が戦火に巻き込まれないように、理不尽な死がこれ以上発生しないように、私も頑張らないとね)
「知事閣下、まずは残りの伊達家墓所の案内をお願いします。それから、西南戦争で亡くなった方のご冥福を祈りたいと思います」
居並ぶ一同を見渡しながら、ニッコリ笑ってこう言うと、知事さん以下、私に付いてきている人たちが一斉に頭を下げたのだった。
※盛岡の桜山神社に、第3代藩主の利直、第11代利敬が合祀されたのは1912(大正元)年です。




