乃木さんの教え
1907(明治40)年1月5日土曜日午後2時半、赤坂御料地にある皇孫御殿の一室。
「増宮殿下が私に用とは……しかも、人払いをして、とは、一体何事でありましょうか?」
“軍籍を持つ内親王”として、皇居で正午から開かれた新年宴会に出席した私は、自宅の青山御殿に戻らず、皇孫御殿に寄り、兄夫婦の子供たちの輔導主任である乃木希典歩兵中将と面会していた。私の姿を見るなり、“梨花叔母さま”と抱き付いてきた迪宮さまたちは、遠くの部屋で大山さんと遊んでもらっている。
「実は、乃木閣下に教えを乞いたいことがありまして」
軍医少尉の真っ白な正装を着ている私は、会津兼定さんが打った軍刀を脇に置き、カーキ色の軍装をまとった乃木さんに一礼した。
「大山閣下にではなく、私に、ですか」
「はい」
私は乃木さんに頷いた。何となく、大山さんには聞かれたくなかったのだ。それに、こういうことは、大山さんより乃木さんの方が詳しい気がする。
「実は……」
話を始めようとしたその時、乃木さんが突然動いた。私と同じように脇に置いてあった軍刀を、両手でガシッと掴むやいなや抜き放つ。
(は?!)
とっさに私も軍刀を持ち、柄を右手で握る。次の瞬間、乃木さんの軍刀は、天井の板に深々と突き刺さった。
「逃れましたか……」
乃木さんはそう言いながら、突き刺さった軍刀を天井から抜く。
「あ、あの、乃木閣下?今、一体何を……」
「天井裏に鼠がおりましたので」
乃木さんは軍刀を鞘に静かに納め、正座し直して私に頭を下げた。
「鼠……?」
(今、ペストは発生していないから、鼠の買い上げはやっていないけどなぁ……)
そう思って首を傾げていたら、
「敵意はありませんでしたから、恐らく増宮殿下を陰で護衛している者でしょう。この部屋を探っておりましたので追い払いました。人払いを、と仰せでしたし」
乃木さんは平然とした態度を崩さず、こう言った。
「は、はぁ?!」
(そっちの鼠?!)
私は思わず、口をあんぐりと開けてしまった。天井裏に潜んでいたのは大山さんだろうか。いや、大山さんの気配は、この周辺には全く無いから、天井裏に潜んでいたのは院の職員だろう。けれど、皇孫御殿は、青山御殿と同じ赤坂御料地の中にあり、警備は行き届いている。
(大山さん……盗み聞きは良くないよ)
私が急に“乃木さんと話したい”と言い出したから、何があったのかと心配になったのだろう。だから、院の職員に、私と乃木さんが何を話すか探らせようとしたのだと思うけれど……。乃木さんが追い払ってくれて本当に助かった。
「ありがとうございました、乃木閣下。その人たちにも、聞かれたくない話なんです。私の恥をさらすことになってしまいますから」
一礼すると、乃木さんは不思議そうな顔をした。けれど、それに構わず私は話を始めた。
「実は、先日、些細なことで心が動揺してしまい、何もできなくなってしまったのです。これは、お父様の長女として、軍人として、恥ずべきことだと思います」
昨日、おしゃべりをしている有栖川宮栽仁王殿下と、私の妹・允子さまが話しているのを見ただけで、私はひどく動揺してしまった。もし、こんな何気ないことに仕事中に動揺してしまったら、仕事が全くできなくなってしまう。
「乃木閣下、自分の心を動揺させないようにするには、……何事にも動じない強い心を手に入れるには、どのようにすればよろしいのでしょうか?」
そう尋ねて、じっと乃木さんを見つめると、
「そうですな……」
乃木さんは正座をし直し、私を見つめ返した。
「増宮殿下は医の道を志し、天皇陛下のご命令により、内親王でありながら軍に身を置かれている方でございます。ならば、古の武士と同じように心身を鍛錬すべきかと愚考いたします」
「武士と同じように……ですか」
オウム返しのように問い返すと、「はい」と乃木さんは頷く。
「武士は文武両道を修めることにより、胆力・気力・人格を練ったものでございます。増宮殿下の場合、文の道とは、すなわち医の道に通じましょう。従って、怠りなく軍務に励み、医の道の研鑽をなさること、これは絶対に必要かと」
「なるほど」
「そして、武の道とは、剣道でありましょう」
乃木さんはそう言うと、「増宮殿下、最近、剣の鍛錬はなさっておられますか?」と私に尋ねた。
「……お恥ずかしい話ですが、練習する時間が減っております」
当直勤務もあるから、身体は適度に休めなければいけない。それから、東京帝国大学の非常勤勤務に輝仁さまの勉強の監督に、舞踏のレッスン、和歌の課題もこなさなければならない。春の東北行きに当たって、もう一度、戊辰の役のことについては勉強し直さないといけない。私のやらなければならないことは、結構多いのだ。
(でも、これを言い訳にしちゃいけない。どんなことにも動揺しなくなるようにするためには、栽仁殿下のことにも動揺しない強い心を手に入れるためには、軍人の端くれとして、文武の道を修めないと……)
「乃木閣下、ありがとうございました。私、当直勤務でない日は、今より30分早く起きて、その時間を剣道の稽古に使うことにします」
私が居住まいを正して乃木さんに頭を下げると、
「では、私も増宮殿下の朝稽古にお付き合いいたしましょう」
乃木さんは私が思ってもみなかった申し出をしてくれた。
「よろしいのですか?」
「いつも5時半には起床して、竹刀を振っています。橘少佐ほどの技量は持ち合わせておりませんが、全力で増宮殿下のお相手を致しましょう」
古武士のような風格を漂わせる乃木さんは、微笑しながら私に頷く。そう言えば、乃木さんはたまに兄の剣道の相手を務めることがあるそうだけれど、兄相手でも手加減なしに打ちかかってくる……兄が以前、こんな話を私にしてくれた。だから、相手が私になっても、乃木さんは容赦なく私に竹刀を打ち込むだろう。
「それでは、明日からよろしくお願いします、乃木閣下」
もう一度姿勢を正すと、私は乃木さんに深く一礼した。




