閑話 1905(明治38)年小満:1905年の政変
※人名ミスを訂正しました。(2020年12月31日)
1905(明治38)年6月1日木曜日午前10時、ロシアの首都・サンクトペテルブルクにあるアレクサンドロフスキー宮殿。
「馬鹿な……そんな馬鹿な……!」
執務室で、ロシアの皇帝・ニコライ2世は、ウラジオストックからの至急電報を手にしていた。その電報には、5月27日の午後、ウラジオストックに向かっていたロジェストヴェンスキー司令長官率いるバルチック艦隊が、日本と清の艦隊に総攻撃を受け、所属艦船の殆どを喪失したという、不吉極まりない報告が書かれていた。ウラジオストックに無事に到着できたのは、巡洋艦“ウラジーミル・モノマフ”と2隻の駆逐艦のみ……。この電報が皇帝に届けられたのは昨日の夜だが、彼は未だにそこに記載されている内容を信じることができなかった。
「戦艦が8隻もいたのだぞ?日本が持っている戦艦は6隻……いや、2隻沈めたから、今は4隻しかいないはずだ。それなのに、なぜこのような結果になったのだ?!」
虚ろな目で呟いていた皇帝の空いた右の拳が、突然、執務用の机の上面に叩きつけられる。彼の眦は、急に吊り上がった。
「ロジェストヴェンスキーは何をしていた!」
皇帝の口から漏れたのは、“必ずやウラジオストックに入港し、日本艦隊を蹴散らしてご覧に入れる”と豪語した臣下に向かっての罵倒だった。
「妄言を皇帝に吐くとはいい度胸だ!もし生きてこの国に帰って来たら、即刻軍法会議にかけて死刑にしてやる!」
苛立ちを隠さずに執務室内を歩き回る皇帝の進路を、来客用の椅子が妨げる。皇帝はそれを、力任せに蹴り飛ばした。
「こうなったら、オスマン帝国を何としてでも屈服させて、黒海艦隊を地中海に出させる!私自ら、黒海艦隊に乗り込んで、日本艦隊を撃破して可愛い姫を……」
と、執務室のドアをノックする音がして、
「陛下、皇太后陛下がいらっしゃいました」
廊下から、侍従が呼びかける声がした。
(今は会いたくないのだが……)
その思いを音声に変える前に、ドアは外から開かれてしまった。そこに立っていたのは、皇帝の実母で、先帝・アレクサンドル3世の皇后であったマリヤ・フョードロヴナ皇太后だった。デンマーク王家からロシアに嫁いできた彼女は、魅力的な人柄で上流階級や国民から尊敬を勝ち得る一方、ロマノフ家に嫁いだ直後からロシア語を学び、それを身につけたという努力家でもあった。彼女の後ろには、皇帝の生存しているただ一人の弟、ミハイル・アレクサンドロヴィチ大公がいる。そして、プレーヴェ内相やラムスドルフ外相、ウィッテ大臣委員会議長など、閣僚全員が顔を揃えていた。
「一体、どうしたのですか」
余りの人数の多さに、皇帝が皇太后に問いかけると、
「“一体どうした”などとは、ずいぶんとのんびりしたことを言うのですね」
マリヤ皇太后は、平生と異なる厳しい視線を息子に投げた。
「まさか、バルチック艦隊が、日本海の底に消えたことも知らぬと言うのではないでしょうね?」
「何と言えばいいのか分かりませんが……とにかく、知ってはおります。善後策をどうするか考えているところでして」
「ふん、それにしては、随分とひどい考え方ですこと。椅子も机も滅茶苦茶で……黒海の艦隊を動かすなどという夢物語まで語って……」
「夢物語ではありません。私は事態を打開するために、実現可能な方法を……」
いつもの明るさが全く感じられない皮肉めいた口調で話す母親に向かって、皇帝は必死に弁解を試みようとする。そんな皇帝に、マリヤ皇太后はつかつかと歩み寄ると、
「愚か者!」
皇帝の左頬を、音高く右手で打った。
「お前が極東の魔女に誑かされたせいで、何千人のロシアの将兵が命を落としたと思っているのですか!それなのに、お前は民のことを考えず、未だに女一人の身柄に執着して……!」
「ママ……」
幼いころから、母親に愛されては来たけれど、こんなに激しく叱られた記憶や、ましてや平手で打たれた記憶はない。突然の出来事に戸惑う皇帝に、
「お前に母親と呼ばれる筋合いはありません!」
マリヤ皇太后は言い放った。
「……!」
「民のことを考えない皇帝など、私の子にはいません!」
呆然とその場に立ち尽くすニコライに、
「兄さん……僕は悲しいよ」
弟のミハイル大公が語りかけた。
「兄さんが、増宮殿下と結婚したいという理由だけで、この戦争を起こしたなんて……そんな理由で、僕は戦いたくない。もちろん、帝国の全将兵もだ」
「ミハイル……」
「ゲオルギー兄さんが6年前に亡くなってから、僕は兄さんのたった一人の弟のつもりだった。だから、もし兄さんに、結婚を考えるような大事な人が現れたら、僕にも相談してくれるだろうと思っていた。……どうして、増宮殿下と結婚しようと思った時に、僕に相談してくれなかったんだ、兄さん。そうしたら、兄さんが道を踏み外すのを止められたのに……」
ミハイル大公の悲しげな声に、
「出ていきなさい、ニコライ!」
マリヤ皇太后の絶叫が重なった。
「王冠を置いて、この国から出ていきなさい!さもなければ……この国のために、私がお前を殺します!」
騎兵でもあるミハイル大公は、この場にも軍装でやって来ていた。その腰に下げた軍刀を皇太后は力任せに奪い、慣れない手つきでそれを抜いた。今まで自分を認めてくれていたはずの母親に、今まで自分が拠り所としていた母親に、生まれて初めて本気の殺意を向けられたニコライの表情は青ざめ、がっくりと両膝をついた。
「お前の住み家は、デンマークに用意してやりました。私に殺されたくなければ、さっさとこの国から立ち去りなさい!」
マリヤ皇太后は、鬼のような形相で、ニコライに軍刀の震える切っ先を向け続けた。呆然と母親を見続けるニコライに、近づいていく人物がいた。内務大臣のヴャチェスラフ・コンスタンチノヴィチ・プレーヴェだ。彼はニコライのそばまでやって来ると、深く頭を下げ、そして言った。
「殿下……お供いたします」
ニコライは両眼を瞠ると、力なく頭を垂れた。お気に入りの内相が、自分を“陛下”と呼ばなかった。そのことで、ニコライは、もはや自分の居場所はここにないことを悟った。このロマノフ家にも、このロシア帝国にも。
「頑張れよ、ミハイル……」
帝位を継ぐであろう弟に、最後の言葉を掛けると、立ち上がったニコライは、静かに部屋から立ち去った。彼の後ろに付き添う内相のプレーヴェは、皇帝の執務室の扉までやって来ると、
「口頭で申し訳ありませんが、公職の一切を退かせていただきます。お許しいただきますように、陛下」
そう言って、ミハイルに向かって一礼した。
「わかりました。息災で」
ミハイルが頷くと、プレーヴェはもう一度頭を下げ、ミハイルのものになった執務室から去っていった。
1905(明治38)年6月1日。
ロシア帝国の皇帝・ニコライ2世は、後に“1905年の政変”と呼ばれることになる無血クーデターにより帝位を追われ、代わって弟のミハイル大公がミハイル2世として皇帝に即位した。ニコライはマリヤ皇太后が以前から所有していたデンマークの城館に移り、そこで余生を過ごした。そして、ミハイル2世、プレーヴェに代わって内務大臣に就任したセルゲイ・ユリエヴィチ・ウィッテなどの指導の下、ロシアは憲法を制定し、立憲君主制の国として生まれ変わることになるのだが、1905年6月のこの時点で、ロシアという国がまずやるべきことは、日本・清との間で起こってしまった極東戦争を一刻でも早く終わらせることだった。
しかしこの時、無血クーデターの発生に、とあるシャム人が……シャム人の貿易商に変装していた日本の中央情報院の職員・明石元二郎が深く関わっていたことを、クーデターの当事者たちは全く察知出来ていなかったのである。




