白梅の枝
※誤字修正しました。(2022年6月18日)
1905(明治38)年3月22日水曜日、午前11時。
「あのー、大兄さま、まだでしょうか……」
先程まで臨時の梨花会が行われていた皇居の会議室。窓辺に置かれた椅子に座らされたままの私は、有栖川宮威仁親王殿下に恐る恐る尋ねた。
「まだです」
カバンぐらいの大きさのあるカメラを覗きながら、威仁親王殿下は即答した。
「増宮さま、そのまま窓の外に目をやって、視線を地面に向けて下さい。そう、それで帯の上端に右手を掛けて……そこです!」
親王殿下が叫んだと同時に、カメラのシャッターが切られた音がした。
「はい、お疲れ様でした。これで終わりにしましょう」
「ふわー……疲れたぁ……」
親王殿下の声が耳に届いた途端、私は椅子の背にもたれかかった。
「もー、笑顔なら慣れてるのに、何でこんな写真を撮られなきゃいけないんですか……」
「よい構図でしたよ。窓の外を、憂いを帯びた表情で覗き込む和服の美女。美しく儚げで、庇護欲をかき立てられます。これなら、皇帝にもご満足いただけるでしょう」
抗議する私に、親王殿下が満足げに答える。その彼の後ろから、
「素晴らしいですな、有栖川宮殿下。今の増宮さまの表情は」
「ああ、笑顔とはまた違った風情。いくらでも和歌が詠めそうだ……」
内閣総理大臣の伊藤さんと枢密院議長の山縣さんが、とても嬉しそうに言った。
勤務の調整をして、3連休をもらった私は、連休初日の昨日から東京に戻った。昨日は春季の皇霊殿祭……大事なご神事で、3年前の夏に行われた内規の改正により、軍籍のある内親王の私も出席しなければならなかったからだ。昨日の夜は久しぶりに青山御殿に戻り、異母弟の輝仁さまとゆっくり話した。今日は朝から臨時の梨花会に出席したのだけれど、なぜか「和服も持って皇居に行くように」という指示もあったので、桃色の無地の着物も帯と一緒に持って行った。こんな指示は初めて受けたので、不思議に思っていると、梨花会が終わった途端、
――それでは増宮さま、和服にお召しかえをお願いします。
と伊藤さんが厳かな声で私に告げた。別室で着替えて会議室に戻ると、カメラを構えた親王殿下がスタンバイしていた、という訳だ。
「本当に、皇帝は何を考えているんですか。軍服の写真をあげたら、今度は私の和服の写真が欲しいって……」
ため息をつきながらツッコミを入れると、
「純粋に、増宮さまを崇拝されているのだと思いますよ。増宮さまを守る騎士と自称しておられますからね」
親王殿下がニヤニヤ笑いながら答えた。
「そんな自称は無視しますけれど、皇帝が日本に有利になることをしてくれているのは分かります。だから、何らかのお礼をして、その有利な行動を続けてもらう、という策略も自然だと思いますけれど……」
ドイツはポーランドのロシアからの独立を密かに支援し、ロシアとの国境地帯で大規模な陸軍の“訓練”を続け、ヨーロッパ方面にいるロシア陸軍を釘付けにしてくれている。その国の皇帝の長男・ヴィルヘルム皇太子が、6月上旬に結婚することになり、結婚式に日本の皇族が招待された。お父様は威仁親王殿下夫妻に出席するように命じ、それを受けて、親王殿下自らが、皇帝に献上する私の写真を撮影していたのである。
「だけど、笑顔の写真じゃなくていいなら、手術の直後に、私が体力を使い果たしてぐったりしている時や、私が難しい顔でカルテを書いている時の写真を撮れば良かったのに」
私が口を尖らせると、
「そういうものではないのですよ。全くもう……軍医少尉になったら、風流の“ふ”の字も思い出さなくていい、と言うわけではないのです」
クスクス笑いながら親王殿下は言った。
「こういう時にも、和歌の一つ詠めるくらいにならなければ、増宮さま」
「私は大兄さまほど器用じゃないんです。自分みたいに、私が何でも出来るって思わないでいただけますか?」
「はいはい、分かりました」
私の反論を軽くいなしながら、親王殿下はカメラを片付ける。そんな親王殿下に、
「そう言えば、大兄さまが日本を出発するのは来月ですっけ?」
私はこう確認した。
「1日には出発致します。もしかしたら、バルチック艦隊とマラッカ海峡あたりですれ違うかもしれません。艦隊が無事ならば、という仮定の下ではありますが」
威仁親王殿下は私にこう答えると、ニヤッと笑う。口唇の間から毒が漏れ出ているような笑顔から、私は慌てて目を逸らした。
バルチック艦隊は、去年の11月初めにバルト海に面した港町・リバウを出港した。そこから南下して地中海に入り、スエズ運河を通ってアジアに入る予定だったけれど、大山さんと児玉さんを中心とする梨花会の面々が、様々な嫌がらせを繰り返した結果、スエズ運河の通行を妨害されたバルチック艦隊は、アフリカ大陸の南端・喜望峰を回ってアジアに入ることになってしまった。もちろん、その程度で梨花会の面々が嫌がらせの手を緩めるはずもなく、彼らは補給もままならない航海を続けているらしい。
「バルチック艦隊は、今はマダガスカル島にいるんでしたっけ。彼ら、影も形もない“日本の潜水艦”に怯えて、睡眠不足になってるそうですね」
「先月など、日本の水雷艇が突撃してきたと誤認して、同士討ちを演じたそうですからね。バルチック艦隊は確実に消耗しています」
私の言葉に、親王殿下は嬉しそうに返す。もちろん彼も、今回の外遊中に、日本への好感度を高め、ロシアの好感度を下げるような数々の手段を取るのだそうだ。
「バルチック艦隊が日本にたどり着く前に音を上げて、降参すればいいですけれど。そうしたら、日本海海戦も起こらないし」
私がそう言うと、
「とは言え、ロジェストヴェンスキーにも、海兵としての矜持があるでしょう。おそらく、石に齧りついてでも日本にたどり着こうと思っているはずです」
親王殿下は苦笑した。第3艦隊の前司令官でもある彼は、艦隊勤務の経験が豊富だ。その親王殿下が言うことだから、恐らく当たっているだろう。
(面倒くさいなぁ……)
私は親王殿下の答えにため息をついた。その矜持とやらで、どのくらいの数の人間が死んでしまうのだろうか。
「とにかく、欧州に向かう途上でバルチック艦隊の情報を掴んだら、私も日本に知らせることにします。私がドイツに着くまでに、事が終わっていることを願っておりますよ」
親王殿下は笑顔で言った。
「そうですね。気を付けて行ってきてくださいね」
私も親王殿下に微笑みを向けた。
午後2時、花御殿。
「節子さま、具合はどう?」
兄に招かれ、花御殿で久しぶりに昼食を御馳走になった私は、兄の案内で、人払いされた節子さまの寝室に入った。節子さまは妊娠4か月になったばかりだ。本当は、昨日の皇霊殿祭にも出席する必要があったのだけれど、節子さまは大事を取って欠席していた。
「つわりも、峠は越えたようです」
真っ白い寝間着に身を包み、長い黒髪を下ろしている節子さまは、布団の上に身を起こすとほほ笑んだ。「食べられるものも、量も、だいぶ増えてきました」
「そうか、それは良かった。お母様も心配してたからさ。いい報告が出来そうだ」
私がニッコリ笑うと、「ありがとうございます、章子お姉さま」と節子さまは軽く頭を下げ、
「でも、うらやましいです。皇后陛下を独り占めできるなんて」
と言った。
「そうね。いいことばかりじゃないけれど」
「和歌の修業のことか」
私の苦笑まじりの答えに、兄がニヤニヤ笑いながら言った。「大山大将と山縣議長に、してやられたな」
「でもさぁ、“殺気で黙らせる”と“お母様に説得してもらう”っていう選択肢を並べられたら、“お母様に説得してもらう”って方を選ぶしかないでしょ?」
本当は、第3の選択肢を作ってしまうのが正解だったのだろうけれど、そんなものを無理やりひねり出しても、大山さんが小指の先で軽く粉砕しただろう。どちらにしろ、あの時の私に、選択の余地は残されていなかったのだ。
「ねぇ兄上、山縣さんの課題の和歌を兄上に代作してもらってたのって、そんなにバレやすかったのかな?」
節子さまの枕元に腰を下ろした兄に尋ねると、
「バレるに決まっているだろう」
兄が呆れたような声で返した。
「俺とお前の歌風は違う。いくら俺が、お前の歌風に似せて和歌を詠んでも、どこか不自然さが残る。露見するのは当然だ」
「そうかぁ。兄上の言語センスは天才的だから、絶対に大丈夫だと思ってたんだけど」
私がため息をつくと、
「そうなのか?」
兄は不思議そうな表情をした。
「俺がそこまで言語に長けているとは思えないのだが……」
「いや、長けてるってば!」
狐につままれたような顔の兄に、私は全力でツッコミを入れた。
「数か月の勉強で、英語が通訳なしで喋れるようになるって時点で相当なもんよ。それに、漢文を読むのは滅茶苦茶速いし、漢詩だってすぐ作っちゃうし……」
「そうか?」
なおも首を傾げる兄を、
「そうですよ、嘉仁さま」
優しくたしなめたのは節子さまだ。
「三島先生の漢文の講義に、一緒に出席させていただいたら、三島先生が教えていらっしゃらないところまでお読みになって……私も女学校時代、漢文はそれなりに良い成績を取っていましたけれど、嘉仁さまがお読みになる速さには、とてもついて行けません」
「あ、そうか……それは済まなかったな、節子」
困惑するように節子さまに答えた兄が、急に廊下の方に視線を向けた。
「おや、誰か来たな。母上の後ろに、3、4人ほどついてきて……」
「迪宮さまたちかな?」
「そうだな。雍仁と乃木中将の気配もする。節子の見舞いに来てくれたのだろう」
「ああ、毎日来てくれてるって言ってたね」
兄と話していると、
「失礼致します」
障子の向こうから、兄の実母・早蕨さんの声がした。
「乃木さまが、迪宮さまと淳宮さまと希宮さまをお連れになって、妃殿下のお見舞いに参られましたが、いかがいたしましょうか」
「会います。通してください」
しっかりした声で節子さまが命じる。早蕨さんの気配が遠ざかり、代わりに賑やかな足音が廊下に響く。そして、
「お母様!」
障子が開いて、水兵服を着た迪宮さまが姿を現した。この4月末で4歳になる迪宮さまは、およそひと月前に会った時よりも、また少し背が伸びたようだ。
「あ、お父様と梨花おば様もいらっしゃる!」
「私は章子だよ、迪宮さま。久しぶりだね、元気にしてたかな?」
いつものように、名前に訂正を入れてから質問すると、
「はい、元気にしておりました。雍仁も珠子も元気です」
迪宮さまはハキハキと答えを返してくれた。迪宮さまの後ろからお揃いの水兵服を着た淳宮さまが顔を覗かせ、更にその後ろには、希宮さまを抱っこした輔導主任の乃木歩兵中将が立っている。3兄妹全員で、節子さまのお見舞いに来てくれたようだ。
「よーし、裕仁も雍仁も、お父様の所においで」
兄が嬉しそうな顔で手招きすると、迪宮さまも淳宮さまも「はい!」と答えて、半ば駆けるようにしながら、胡坐をかいた兄の膝の上に座る。2人とも、兄と節子さまが大好きなのだ。
「珠子は……章子が抱くか?」
「じゃあ、兄上のお言葉に甘えて、抱っこさせてもらおうかな。乃木さん、よろしいですか?」
私は立ち上がると、乃木さんから希宮さまを受け取った。私の腕に移った瞬間、希宮さまは泣き声を上げたけれど、私が一生懸命あやすと、すぐに泣き止んだ。
「早いな、珠子が泣き止むのが」
「本当ですね。伊藤さまや山縣さまが抱っこすると、全然泣き止みませんものね」
兄と節子さまが私を見ながら言葉を交わす。
「へぇ、伊藤さんたち、皇孫御殿に来るんだ」
「総理大臣だけではない。章子がよく会う面々は、しょっちゅう皇孫御殿に来ている。章子に会えぬ心の痛みを、珠子で癒しているのだそうだ」
私の言葉に、兄が苦笑しながら説明をしてくれる。「いつも約束の時間より長く皇孫御殿にいようとするので、乃木中将に追い出されているよ」
「……どこからツッコミを入れていいのか、分からなくなってきたよ」
私は腕の中の希宮さまを覗き込んだ。希宮さまは、迪宮さまと淳宮さまに負けず劣らず可愛い笑顔を私に向けてくれている。伊藤さんたちがこの笑顔に惹かれるのも分かるけれど……。
(約束の時間以上に皇孫御殿に居座るのはなぁ……)
「乃木閣下、希宮さまのこと、伊藤さんたちから守ってくださいね」
軽く頭を下げながら乃木さんにこう言うと、彼は「はっ」と短く返答した。
と、
「ねぇ、梨花おば様」
兄の膝の上に座っている迪宮さまが、私を見上げた。
「贈った梅の花、いかがでしたか?」
「ああ、とっても綺麗だったよ、迪宮さま」
私は迪宮さまに笑顔で返した。先週の火曜日、迪宮さまは私に、梅の枝を何本か贈ってくれたのだ。どの枝にも、可憐な白い梅の花がいくつも咲いていた。ほんわりした暖かい香りが、診療で疲れた私の心を癒してくれたのを覚えている。
「ほう、裕仁、そんなことをしていたのか」
意外そうな表情で、兄が迪宮さまを見る。
「そうなの。だからお返しの贈り物を、私も今日、迪宮さまに持ってきたのよ」
私はそう言うと、腕の中の希宮さまを乃木さんに預け、持ってきたカバンの中から小さな木の箱を取り出す。箱の中には、綿が敷き詰めてあり、その上に、1、2cmほどの大きさの、薄いピンク色をした二枚貝が5組置かれている。
「これはね、桜貝って言うんだ。綺麗でしょ」
箱を迪宮さまに差し出すと、迪宮さまも、隣に座った淳宮さまも、箱の中を興味深そうに見つめた。
「迪宮さまから梅の花を貰った次の日、お仕事がお休みだったから、葉山の海岸で、君たちのおばば様と一緒に拾ったんだよ」
「すごい、きれい!」
淳宮さまが、興奮気味に言う。「触ってもいい?」
「いいけど、そっと触るんだよ。壊れやすいからね」
私の注意を聞いた淳宮さまは、慎重に箱の中の貝に手を伸ばし、摘まんで持ち上げる。迪宮さまも同じように桜貝を持ち上げて、自分の手のひらの上にそっと置いた。
「とてもきれいです、梨花おば様。本当にありがとうございました。大切にします」
笑顔でお礼を言ってくれた迪宮さまに、
「ところで、どうして私に梅の花を贈ってくれたの?誕生日でもないのに」
私は梅の花を貰った当初から疑問に思っていたことをぶつけた。
すると、
「この日だって聞きましたから」
……迪宮さまは、よく分からないことを言った。
「?」
首を軽く傾げた私に、
「男の人が、女の人に贈り物をする日。3月の14日だって、梨花おば様がお父様におっしゃってたから」
迪宮さまは、とんでもない答えを返してきた。
「?!」
私は目を見開いた。確かにそうだ。先週の火曜日、3月14日はホワイトデーだ。……ただし、私の時代では、である。この時代ではそんな習慣は確立されていないし、そんな習慣を作ろうとする動きがあったら私が阻止する。いや、それはともかくとして、私も、ホワイトデーのことは、限られた人間にしか伝えていないのだ。大山さんと、そして、兄と。
(まさか……迪宮さま、去年私が兄上に話したこと、聞いてたの?!)
「これは、やられたなぁ……」
兄が苦笑した。「裕仁を侮っていたようだ」
「あ、兄上」
私は慌てて兄のそばに寄り、小声で尋ねた。
「あの時、迪宮さまの気配ってあったの?」
「ああ」
兄はそう答えると、クスッと笑った。「しかし、あの時裕仁は、3歳にもなっていなかった。だから、話の内容を聞かれても、何のことか分からないだろうと思って、放っておいたのだが」
「分かっちゃってるじゃない……どうしよう、もし、私の前世のことまで分かってたら……」
「流石にそれはないと思うが、それより、裕仁がホワイトデーの話を他の者にしていないか、確かめる方がいいのではないか?この場で言っただけなら、口止めすれば広まらないだろうし」
思わず顔をひきつらせた私に、兄は実に的確な助言をしてくれた。確かに、それは絶対に確かめておかなければならない。話を知っているのが迪宮さまと乃木さんだけなら、まだ口止めが使える。
「あの、迪宮さま?」
私は顔を笑顔に戻すと、優しい声で可愛い甥っ子に尋ねた。
「3月14日がホワイトデーっていう話、誰かにしたかな?」
すると、
「えっとね、昨日、伊藤の爺と山縣の爺に教えました。おば様がおっしゃってたって言ったら、2人ともビックリしてたけど……」
……迪宮さまの口から、考えられる限り最悪な答えが発せられ、私はその場に崩れ落ちた。
「どうしたの、梨花おば様?」
無邪気に尋ねる迪宮さまに、
「わ、私は章子だよ……な、何でもない、うん……」
力無く答えると、兄と節子さまが同時に吹き出した。
「どうやら、あきらめた方がよさそうだな」
「そうですよ、お姉さま。男性が女性に贈り物をする日……素敵じゃないですか」
口々に言う兄と節子さまに、
「ぜ、全然素敵じゃないってば!」
私は猛然と反論した。「バレンタインにも贈り物をされるから、お返しに金平糖を渡してるのに、ホワイトデーに贈り物をされたら、またお返しを考えなきゃいけないじゃない。面倒だよ!」
「お前がそう言っても、来年からは、バレンタインにも、ホワイトデーにも、贈り物がお前の所に届けられるぞ。諦めろ」
「ええ、伊藤さまなら、お姉さまがどう言っても、めげずに贈り物をなさるでしょうから。素直にお返しを考える方がいいと思います」
(そんなぁ……)
兄夫婦の言葉に、私はがっくりと頭を垂れる。
その肩を、兄が慰めるようにポンと叩いた――。




