閑話 1904(明治37)年霜降:ロシアの事情
1904(明治37)10月31日月曜日午後9時、ロシア帝国の首都、サンクトペテルブルク。
「で、出発してしまったのか、ロジェストヴェンスキーは」
サンクトペテルブルク郊外にある大臣委員会議長、セルゲイ・ユリエヴィチ・ウィッテの屋敷。その応接間で、屋敷の主人であるウィッテ氏は、訪れた客にこう確認した。
「ああ、リバウに行ってしまった」
憮然とした表情で、客であるウラジーミル・ニコラエヴィッチ・ラムスドルフ外相が答えた。「スエズ運河を通って日本に行くつもりだろうが、無理に決まっている。あそこは中立地帯ということにはなっているが、管理しているのはイギリスだ。我が艦隊が通行しようとすれば、イギリスは絶対に邪魔をする。イギリスは、日本の同盟国だからな」
「そうなると、艦隊は喜望峰を回って、フランスの植民地で補給を受けながら日本に向かうことになるが……フランスは支援をしてくれそうなのか?」
ウィッテ氏の問いに、
「全く支援しない可能性もあるな」
ラムスドルフ外相はため息をつきながら答えた。
「フランスでは、我が国に対する感情が悪化している。やはり、ユダヤ人を極東で強制労働させていることが問題になっているのだ。ロスチャイルド家がバクーの油田の権利を手放し、シベリア鉄道の建設から完全に手を引くという話まで出てきている」
「本当か、それは!そうなると、我が国の経済にも大きな影響が出るぞ……」
ウィッテ氏は低い声で言うと、両腕を組んだ。シベリア鉄道は、ノボニコラエフスクとハバロフスクの間、約3500kmが未開通のままである。全部開通すればロシアの産業発展に多大な寄与をするだろうが、工事が止まったままでは、全く金を生み出さないロシアの重荷になってしまう。
「……つまり、ユダヤ人を手ひどく扱ったツケか」
ウィッテ氏は少し考え込んで、こんな結論を出した。欧州屈指の銀行家であるロスチャイルド家は、ユダヤ人の一族である。プレーヴェ内相が国内の不満を逸らすために行ったユダヤ人迫害政策。その結果がロスチャイルド家の耳に届き、ロシアに対する感情を悪化させたのだろう。
「その通りだ。プレーヴェの奴、すっかり意気消沈して、“内相を辞めたい”などと言っている。昨今の情勢では致し方ないだろうが、同情はできんな」
「私を蹴落として得た内相の座を降りたいとまで言ったか、あの強欲なプレーヴェが。我が国を取り巻く状況は、相当に悪いようだな」
「ああ。フィンランドとポーランドでは、ロシアからの独立を求める反乱が発生している。ドイツとオーストリアとオスマン帝国が、ロシアとの国境付近で、“訓練”と称して大規模な兵力を動かしている。“訓練”している兵は、隙があればこのロシアに“侵攻”する可能性もあるから、油断が全くできない。しかも、オーストリアとイタリアの艦隊が地中海で活発に活動していて、黒海の艦隊が動けない。この八方塞がりの状況を打開する手段は、傷が浅いうちに我が国の負けをさっさと認め、戦争を終わらせることだが……」
「それは、陛下が認めないだろうな」
ウィッテ氏の指摘に、
「ああ」
と短く答えたラムスドルフ外相は、顔に苦悩を浮かべた。
「いっそ……とは思うな」
ラムスドルフ外相が、ようやく重い声でこう言ったのは、主客の間にたっぷり3分の沈黙が流れた後だった。
「私もだ、ウラジーミル」
ウィッテ氏が暗い口調でこう答えたのは、相手が盟友たるラムスドルフ外相ゆえである。他の人間とは、このような話は絶対にできない。例え、“仮定”という前提があったとしても。
「先帝陛下なら、このようなことには絶対にならなかったと思わないか、セルゲイ?」
「ああ、全面的に賛同する。皇太后陛下でも、道を間違えることはない」
「いや、セルゲイよ、もっと適任の方がおられるではないか」
「……ミハイル大公、か」
ウィッテ氏は、その人の名を慎重に口にした。ミハイル・アレクサンドロヴィチ大公。現在25歳の彼は、兄・ニコライ2世の“ツェサレーヴィチ”……皇太子である。サンクトペテルブルクの近く、ガッチナという街で騎兵中隊長として勤務している彼は、飾らない人柄で、部下たちから敬愛されていた。
「ご本人がどう考えておられるか、だが……何か知っているか、セルゲイ?」
「そうだな……極東にいる陸軍は、今回の開戦理由を知って呆れかえり、全く動いていない。ただし、欧州の陸軍には、開戦の事情が伝わっておらん。東朝鮮湾の海戦の結果を信じない者もいる」
「では、ミハイル大公もその仲間だろうか」
眉をしかめたラムスドルフ外相に、
「会って確かめてみるしかないだろうな」
ウィッテ氏はそう提案した。
「会えるのか?」
ラムスドルフ外相が驚きを見せた。大臣という身分にあるとはいえ、皇族に簡単に会えるわけではない。顔見知りならすぐに面会が叶うが、全く伝手が無い皇族だと、会う約束をするのに煩雑な手続きが必要なことも多い。まして、今回のように秘密裏に会いたい場合だと、その手続きをしている過程で、面会しようとしていることが外に漏れてしまう危険もあるのだ。
すると、
「極東方面の情報を色々教えてくれるシャム人の知り合いがいてね。彼は妙に顔が広い。ひょっとしたら、ミハイル大公に伝手があるかもしれない」
ウィッテ氏は、ラムスドルフ外相が思いもよらぬことを言い始めた。
「シャム人か……そいつは信用できるのか?」
「ああ。その手の連絡を、何度かやってもらったこともある。全て失敗なくこなしているよ」
盟友の言葉に、ラムスドルフ外相はしばし考え込んでいたが、やがて、
「では、そのシャム人に頼むか」
そう言って頷いた。
「分かった。では、手はずが整ったら連絡する」
「頼んだぞ、セルゲイ」
ラムスドルフ外相は、椅子から立ち上がり、応接間を後にした。彼がウィッテ氏の屋敷に滞在していた時間は、わずか20分ほどだった。しかし、その20分ほどの間に、ロシア帝国の未来は、確かに動いたのだった。
1904(明治37)年11月5日土曜日、午後3時。
バルト海に面したロシア帝国の港町・リバウでは、ちょっとしたお祭り騒ぎが起こっていた。リバウの軍港に集結していたロシア帝国のバルチック艦隊が、今日極東に向かって出航するという知らせが入ったからである。
「極東って言うと、清との戦いに投入されるのか」
「いや、清には海軍はいないから、日本の艦隊と戦うらしい」
「日本って、医学が滅茶苦茶進んでて、すげぇ美人なお姫様がいる国か。海軍なんてあるのかね」
「あるんだとよ。太平洋艦隊がその艦隊に、ヘマをして負けちまったから、わざわざここの艦隊が出張ることになったらしい」
ロシア帝国の国土は広大だ。戦争をしていると知ってはいるけれど、バルト海沿岸の住民にとっては、同じ国の中とは言え、何千kmも離れた戦線で起こっていることなど、どこか明るい夢物語にしか聞こえない。素朴な明るさでもって、リバウの住人達は、“我らが艦隊に栄光を”と言いながら、艦隊の出航をタネにして酒を飲み、歌い踊り、騒いでいた。
だが、そのリバウの町の中でただ一人、事の重大さを認識した人間がいた。その初老の男は、町の人々の話を耳にすると、駆け足で港に向かう。港内を望める位置まで走った彼は、そこで呆然と立ち尽くした。彼の眼に映ったのは、リバウの港を次々と出航していくバルチック艦隊の軍艦の姿だった。
「マカロフさん、どうしたんだい?」
港で働く男の1人が、海に眼を向けたまま動かない初老の男に声を掛けた。
「あれは……バルチック艦隊が出港したのか?」
マカロフと呼ばれた初老の男の問いに、
「ああ、何でも、わざわざ極東ってところに行くんだとさ。マカロフさん、元は水兵だったから、軍艦のことが気になるんかい?」
声を掛けた男は親切に答え、更にこう尋ねた。
「まぁ、な……」
マカロフ氏は呟くように答えると、「わしは家に帰るよ」と言って、港から去っていった。
そして、
「今日は、ロシア帝国の終わりの始まりの日だ」
マカロフ氏……3年前に現役を退き、現在リバウの町で、かつての自分の職位を周囲に隠しながら悠々自適の生活を送っているステパン・オーシポヴィチ・マカロフ海軍中将は、その日の日記の冒頭にこう記した――。
※実際にはミハイル大公には“ツェサレーヴィチ”の称号は与えられていないようなのですが……拙作の世界線ではまだ皇帝が独身なのでこうさせていただきました。ご了承ください。




