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転生内親王は上医を目指す  作者: 佐藤庵
第38章 1904(明治37)年白露~1904(明治37)年霜降
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帰京(1)

 1904(明治37)年9月9日金曜日、午前10時。

「そうだったのか……」

 佐世保と九州の玄関口・門司を結ぶ九州鉄道の列車内。貸し切りにした一等車の中で、大山さんから今回の戦争の開戦に至るまでの事情を聞き終わった私は、深い深いため息をついた。一等車の中には、私と大山さんしかいない。新島さんや、青山御殿から大山さんと一緒にやってきた中央情報院の職員さんたちは、隣の二等車にいた。

「アレクセーエフが、相手の船をろくろく確認もせず、自在丸を“平遠”と決めつけて沈めた。国際的な批判が高まる中、元々朝鮮に対して強硬的な態度を取っていたアレクセーエフは、朝鮮国内の反乱が清軍に抑えられていき、朝鮮におけるロシアの勢力圏が狭まっていくことに焦りを覚えていた。太平洋艦隊を動かして朝鮮に攻め入りたくても、中央の命令がないから太平洋艦隊を動かせない。その時、鎮海湾に私がいるという情報が入って、アレクセーエフは、私にニコライが執着しているのを利用することを思いついた……」

 私は、取ったメモを見ながら、大山さんの話してくれたことをまとめた。本当は、ニコライには“陛下”を付けて呼ばないといけないのかもしれないけれど、そうしようとする気は、とうに私の心から失せていた。

「そういうことになります」

 私の右隣に座った大山さんが、私の右の手の甲に手のひらを重ねる。「鉛筆をしまわせて」と断り、右手に持った鉛筆を筆箱にしまう。太ももの上に右手を置くと、大山さんの手がすぐに私の手を捕まえた。

「そして、アレクセーエフは、“この機会に軍の矛先を日本に変え、増宮を捕まえるために太平洋艦隊を動かし、増宮の身柄を献上したい”とニコライに奏上した。ニコライはまんまとそれに乗っかってしまい、日本に宣戦布告した……」

 私の右手を大山さんが握る力が強くなった。

「誰か、ニコライを止める人はいなかったのかな……って言っても、無理か。今のロシアは立憲君主制じゃないから、皇帝の権限が大きすぎる。皇帝がやれと言えば、その命令に従わざるをえない」

「おっしゃる通りです」

「けど、もし……もし、“史実”のこの時点と同じように、私が存在していなかったら、アレクセーエフが太平洋艦隊を動かす言い訳を見つけられなくて、戦争が起こっていない可能性もあったのかな……」

「梨花さま」

「私がいなければ、東朝鮮湾の海戦も起こらなくて、“初瀬”の425人も、……ううん、“初瀬”だけじゃない、“敷島”の乗員も、日本とロシアの他の軍艦の乗員も、あんなむごたらしい、あんな理不尽な死に方はしなかったのかも……」

「梨花さまっ」

 不意に、私の身体が右に大きく傾いた。大山さんが私を抱き寄せたのだ。

「……大丈夫だ、大山さん」

 背中に掛かる腕の重みとあたたかさと、その両方を感じながら、私は彼に答えた。

「私が、この時代に転生したって分かった直後の、5歳の私のままだったら、私はためらいなく、死を選んでいた」

 こころなしか、大山さんの腕の力が強くなった気がする。それに構わず、私はしゃべり続けた。

「小さいころ、伊香保で兄上の指から採血をする前だったかな。“史実”で伊藤さんを暗殺した犯人の名前が思い出せるかと思って、高い木の枝から飛び降りようとしたら、あなたに止められて、こっぴどく怒られたことがあったけど……。もし、あの時の私が、今回の開戦の理由を知ったら、私はためらいなく、木の枝から飛び降りていた」

「いけません!」

 大山さんが私を抱き締める力が強くなったのが、今度ははっきりと分かった。ハッキリとし過ぎていて、身体が滅茶苦茶痛い。

「大山さん、痛い、痛いから……腕の力を緩めて」

 私が抗議すると、大山さんは「あっ……」と妙な声を出し、腕の力を緩めてくれた。それを確認して、私はまた大きなため息をついた。

「ちゃんと前提を踏まえてよ、大山さん。“小さいころの私のままだったら”って言ったでしょ。今は、その時の私じゃないの」

 大山さんの右肩にくっついてしまった顔を上げ、私はしっかり大山さんの眼を見た。彼の表情には、全く余裕が無かった。

「私は、持っている力と知識の全てを使って、兄上の主治医として、兄上を襲い来る苦難から全力で守りたいと思っている。それに、私は、兄上の大切な妹で、あなたの大切な淑女(レディ)でもある。私が死を選んでしまったら、兄上とあなたが悲しむって分かってる。だから死ねないし、死にたくない」

 大山さんは、私の目を食い入るように見つめていた。

「……信じてくれないかな、私のことを」

 私がこうお願いすると、

「信じたいのはやまやまでございますが……恐れながら、梨花さまはご自身を傷つける悪い癖がおありですから、その癖が梨花さまを必要以上に傷つけてしまうのではないかと、(おい)はとても不安でございます」

大山さんは真剣な表情で返した。

「そっか……」

 私は微笑した。未熟な故に、臣下から信用されない主君である。ここまで心配されてしまうとは思ってもいなかった。

「どうやったら、あなたの不安は解消されるのかな?」

 尋ねてみると、

「梨花さまが、一つのモノの見方に固執せず、様々な視点から物事を捉えられるようになれば」

我が臣下はそう言った。

「女性一人の身柄をさらうために皇帝が戦争を起こすなど、言語道断でございます。たとえその女性が梨花さまでなくても、です。梨花さまをさらうために艦隊を動かしたい、という理由をひねり出したアレクセーエフも同罪です。人間として、犯してはならない罪を犯している……そうお思いになりませんか?」

「確かにそうだ」

 私は大山さんの問いに頷いた。「それに、アレクセーエフは私がいなかったら、別の理由をひねり出して、元山に太平洋艦隊を動かしていただろうね。あいつは、何とかして朝鮮に攻め入りたかったんだから。もしかしたら、理由がなくても攻め入ったかもしれない」

「その通りです」

 大山さんの声が、少しだけ明るくなる。

「それに、梨花さまがいらっしゃらなければ、“史実”と同じように、日清戦争が起こっておりました。伊藤さんや原、そして斎藤さんによると、日清戦争での戦死者は、日本だけでも1万人以上……。それを考えれば、梨花さまは既に大勢の命を救っておられます」

「日露の戦いも含めて、戦死者をゼロに……限りなくゼロにしたいんだけどね」

 私は顔に苦笑いを浮かべた。「日本と清での戦争を回避するための策を立てて実行したのは梨花会の皆だけれど、私が“史実”の知識を伝えなければそれはなかった。でも……戦争での死者は出てしまった」

 身体にかかる力がまた強くなった。息をするのが、少し苦しい。

「だから大山さん、力を緩めてちょうだい」

「お断り申し上げます」

「もう……」

 私は大山さんの腕の中で少しだけ身体を動かして、苦しくないように身体の位置を調整した。

「日清戦争で出るはずだった死者は、大勢救えたかもしれない。けれど、今回の戦争で、私の身柄の確保が開戦の理由に使われて、戦死者が出たのは事実だ。だから、私は今回の戦争で出た死者のことを一生背負って、その冥福を、敵味方問わず祈り続ける。戊辰の役以来の戦死者と一緒に……」

「梨花さま……」

 大山さんの腕の力が、また少し強くなる。列車が乗換駅に到着するまで、大山さんは私の身体を離してくれなかった。


 1904(明治37)年9月13日火曜日、午後4時。

「はぁ、久しぶりの東京だ」

 新橋停車場のプラットホーム。軍医学校の制服を着た私は、列車からプラットホームに降り立つと、斜め上をぼんやり見ながらふうっと息を吐いた。佐世保から鉄道を使って、のんびりした移動を続けていた。佐世保に着いた日には佐世保の将官倶楽部に宿を取り、その後、長府、広島、大阪、沼津と宿泊した。今朝沼津の御用邸を出発し、普通列車に乗って、ようやく東京に戻ってきたわけだ。毎度のことながら、この時代の時間的距離の長さにはイライラしてしまう。

 と、慣れ親しんだ気配が、私の感覚に引っかかった。

(え……?)

 次の瞬間、

「梨花っ!」

急に飛び掛かるようにして抱きつかれ、ぼーっとしていた私はよろけた。

「あ、兄上?!」

「梨花……よかった……」

 濃紺のフロックコートを着た兄は、私の身体を力任せに抱き締めたまま、涙を流している。余りに腕に力が入り過ぎていて、息が出来ない。

「兄上、痛いから、腕の力抜いてよ!あと、名前!」

 兄が1人で新橋駅にいるわけがない。お付きの侍従さんがいるはずだ。それに、私だって、私の前世のことを知らない職員さんたちを連れている。だからこう言ったのだけれど、

「そんなこと、気にしていられるかっ!」

兄の腕の力が緩む気配はなかった。

「お前が……愛しい妹が、戦火を潜り抜けて無事に帰って来たのだぞ?!」

「だから痛いってば、苦しいってば、骨が折れちゃうってば……」

 うれしい。兄と再会できたこと自体は、とてもうれしいのだけれど、身体が苦しい。兄の腕を抜け出ようともがいていると、

「兄上、ずるい!」

これまた聞きなれた、かわいらしい声がした。

「俺にも(ふみ)姉上、ぎゅーっとさせてよ!」

 視線だけを動かすと、学習院の制服を着た異母弟の輝仁(てるひと)さまが、兄のそばに立っているのが分かった。恐らく、授業が終わった後、新橋駅に急行してくれたのだろう。

「お、そうだな」

 突然、身体の拘束が外されたので、私はまたよろけてしまう。バランスを崩したところに、輝仁さまがギュッと抱きついた。

(ふみ)姉上っ……(ふみ)姉上っ!」

「よしよし……ただいま、輝仁さま。帰って来たよ」

 輝仁さまは私の左肩に顔を埋め、声を放って泣いている。何とか体勢を立て直した私は、彼の背中に左手を回し、右手で頭を優しく撫でた。

(あれ?輝仁さま、ちょっと身長が伸びたかな?)

 そう言えば、彼とは3か月以上離れていたのだ。成長盛りの男の子、そんなに目を離していたら身体つきも変わってしまうのも当たり前か……と思っていると、

「皇太子殿下も満宮(みつのみや)さまも、増宮さまにお会いできて喜んでいらっしゃるのは分かりますが、ここでぐずぐずしてしまうと、増宮さまの参内の刻限に間に合わなくなってしまいますよ」

私に続いて列車を降りた大山さんが、兄と輝仁さまにこう声を掛けたので、2人とも慌てて私から離れた。

 青山御殿から迎えに来た馬車に乗って宮城(きゅうじょう)まで行くのかと思っていたら、

「こちらだ」

私の右手を握った兄が、自分が乗ってきた馬車に私を連れて行こうとする。大山さんの方を振り向くと、彼が微笑して頷いたので、私は兄に導かれるまま花御殿から来た馬車に乗り、兄の隣に座った。私の真向かいに大山さんが続いて乗り込むと、馬車の扉が閉められる。兄の侍従さんは、輝仁さまと一緒に、青山御殿から来た馬車に乗り込んだようだ。どうやら兄は、気の置けないもの同士で話したいらしい。それも、一刻も早く。

「思っていたよりも元気そうで安心した」

 馬車が宮城に向かって動き始めると、兄が私の右手を握りながら言った。

「ああ、それはね」

 私は兄の方に身体を向けた。「土曜日に、広島城を見学できたから。あそこ、“史実”では原爆で破壊されちゃったから、私の時代には江戸時代からの建物が残っていなかったの。でも、今なら、天守閣も江戸時代からのが残ってるしね」

 最高の記憶を反芻しようとした時、

「相変わらずだな、お前は」

兄が苦笑した。「心配していたのだ。お前が開戦の真の理由を知って、己を極限まで傷つけてしまわないか。本当は、俺がお前を佐世保に迎えに行って、お前が自分を傷つけるのを防ぎたかったのだが、梨花会の皆に止められてな」

「当たり前でございます。皇太子殿下のお気持ちは重々承知いたしておりますが、皇太子殿下が佐世保に行啓されれば、道中の警備が大変になります」

 私たちの前に座っている大山さんが、真面目な表情で兄の言葉に付け加えると、

「卿らも大概だったではないか。原大臣と斎藤参謀本部長と牧野次官以外の梨花会の皆が、“佐世保に迎えに行く”と主張して譲らず、長時間議論を繰り広げ……」

兄がすかさず大山さんに反撃した。

(またかよ……)

「結局、話し合いで結論が出ず、お父様(おもうさま)が裁定して、大山大将が迎えに行くと決まったが……」

「気持ちはありがたいけどさ、……そこ、終戦工作に向けて話し合うべきところじゃないの?」

 私は深いため息をついた。「戦争は終わらせ時が肝心。早ければ早いほどいいって、児玉さんも斎藤さんも言っていたけど、東朝鮮湾の海戦で、ロシア太平洋艦隊の主力を戦闘不能に追いやれた今こそ、講和条約を結ぶチャンスよ」

「ご心配なく、そこは手抜かりなく進めております」

 大山さんはそう答えて、ニヤリと笑った。

「戦争が長引けば、過日のように、梨花さまを守らんがためと言いながら、皇太子殿下が伊藤さんに出征の許可を求めかねませんから。陛下が皇太子殿下の頬をお打ちになりましたから、何とか止まりましたが……」

「は……?!」

 私は驚きで目を見開いた。「あ、兄上、そんなことを?!」

「当たり前だろう!」

 そう怒鳴った兄は、私の両肩を掴んだ。

「お前の前世のことを知った時、俺はこの愛しい妹を全力で受け止めて、この手で守り抜くと誓ったのだ。その妹の身に危難が迫っているのに、どうして俺が安閑としていられよう?」

 私の目を覗き込んだ兄の瞳には、あの時と同じような……御料牧場で、兄と2人で馬に相乗りした時と同じような、まっすぐで頼もしくて、そして優しい光が揺れていた。

「ありがとう、兄上」

 私は微笑した。「誓いを守ろうとしてくれて。……これからは、仕事では無い限り、なるべく兄上の側にいる。それで、上医になって、兄上の主治医になって、兄上を全力で守る」

「そうしてくれ」

 兄は私の左肩を掴んだ手を放すと、制帽の上から私の頭を撫でた。

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― 新着の感想 ―
[一言] 更新お疲れ様です。 高橋さんも他の梨花会の面々に毒されましたか、ではなく主人公の美貌の前に冷静でいられなくなりましたか。
[良い点] 更新お疲れ様です。 [一言] 正式な軍人と見習い軍人という立場の違いはあっても、実戦経験としては章子が上となりました。 特に現場の将兵は「同じ釜の飯を食った仲間」でもある章子には 「陛下や…
[一言] 更新お疲れ様です。 どっちもどっちの『兄妹愛』^^ 開戦の『真実』を知っても折れる事の無かった増宮の成長と、見守る臣下にジンと来ました!! さて講和交渉の内容や如何に? 次回も楽しみに…
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