東朝鮮湾海戦(1)
「嫌ですっ!」
1904(明治37)年8月14日日曜日午前4時20分、朝鮮・元山港に向かっている巡洋艦“日進”艦内の医務室。会津兼定さんが打ってくれた軍刀を腰に差し、軍医学生の制服を着た私は、鈴木軍医長に向かって叫んだ。
「納得出来ません、軍医長!」
「そう仰せられましても……」
「どうして私が医務室にいたらいけないんですか!」
困惑している鈴木軍医長を、私は思い切り睨みつけた。
12日夜に鬱陵島を出発した連合艦隊は、東朝鮮湾に入っている。夜明けには、元山港の沖に着くだろう。恐らくその時には、ロシア太平洋艦隊との戦いが始まる。だから見張り以外の総員は、昨日は早めに就寝して、午前3時に起床した。もちろん私もみんなと一緒に起床して、朝食後、持ち場であるはずの医務室に入ったところ、“ここより安全ですから、殿下は司令塔に入っていてください”と鈴木軍医長に言われてしまったのだ。
「私、軍医学生なんですよ!」
納得のいかない私は、鈴木軍医長に抗議を続けた。「軍医学生の戦闘配置は医務室です!それなのに、何で司令塔に入らないといけないんですか!そんなの、おかしいです!」
「と、おっしゃられましても……」
軍医長は、更に困った様子になった。
「殿下は高貴なお方でございます。その御身に万が一のことがあっては……」
「だけど、私は軍医学生ですよ!」
私はもう一度繰り返した。「華頂宮殿下だって、皇族ですけれど、“三笠”で砲塔を指揮して、戦いの最前線にいらっしゃるじゃないですか!それなのに、私が持ち場にいないなんておかしいです!」
こう叫ぶように言うと、軍医長が口を閉ざした。
「誰のお考えから出た命令なんですか?」
「……」
軍医長の額に、汗が光っている。
「軍医長ですか?それとも、別の方ですか?どなたか存じ上げませんが、私は皇族である前に軍医学生、余計な気遣いは無よっ……?!」
急に息が詰まった。後ろから誰かが、私の首を腕で締めたのだ。とっさにそいつに肘打ちを食らわし、更には左の踵を後ろに跳ね上げて蹴りを入れたけれど、相手はビクとも動かない。
と、
「フッ、効きませんね」
新島さんの声が耳元でした。
「おとなしくなさい、殿下。軍籍ある者ならば、上官の命に従わねばならないでしょう」
「そうですけど……、納得がいかないんです!」
首から新島さんの腕は外れたけれど、今度はその腕が私の身体を羽交い締めにしている。拘束から逃れようと、ジタバタ暴れてみたけれど、
「問答無用。さぁ、司令塔に行きましょう」
新島さんはそのまま私の身体を後ろに引きずっていった。
「ああ、いらっしゃいましたか、殿下」
司令塔内に引きずり込まれた私を見て、“日進”の竹内艦長がホッとしたような表情を見せた。
「“いらっしゃいましたか”じゃないです、艦長!」
私は艦長に叫んだ。「私は軍医学生なんです。だから実習がしたいんです!それなのにどうして、医務室にいさせてくれないんですか!」
「お気持ちは非常によく分かるのですが」
竹内艦長は真面目な顔で私を見つめた。「上村司令官からの命令です。“近代的な装甲艦同士の海戦は、我が国にとっては初めてのこと。是非、殿下に司令塔でご覧いただくように。海戦が終わったら負傷者救護の業務を”と」
(あ……)
「本省から、そうするよう、伝達もあったとのことです」
厳かな声で付け加えた艦長に、
「わかりました。ならば命令通りにいたします」
私は真面目な表情を作ってから一礼した。本省からの伝達……ということは、上村司令官だけではなく、梨花会の面々が関わっている命令だということだ。これ以上逆らったら、日本に戻ったら怒られてしまう。
「ところで、今、太平洋艦隊もこのあたりにいるんですよね?」
艦長に尋ねてみると、
「恐らくそのはずです。我々がいるのは、元山港から40kmほど東南東に離れた地点です。元山には清の諜報員がもぐり込んでいますが、まだ彼らから、太平洋艦隊が元山に入ったという連絡がありません。もしかしたら、すぐ近くに太平洋艦隊がいるかもしれません」
こんな答えが返ってきたので、私は司令塔の小さな窓から、暗い海面に目を走らせてみた。もちろん、何も見えない。
「敵の位置次第になるけれど、第1艦隊の駆逐隊と水雷艇隊が、敵の背後に機雷を撒いて、ウラジオストックへの退路を遮るんでしたよね」
昨日、竹内艦長にレクチャーを受けた事項を確認すると、
「その通りです。そして、第1から第4戦隊は、敵戦艦・巡洋艦と砲戦を行います」
艦長が頷いて、先の答えを言ってくれた。
「ただし、夜が明けた時、彼我の位置がどこかということで、作戦計画が変わる可能性もあります。昨日の未明、第3駆逐隊と第5駆逐隊が道中で待ち伏せをしましたが、太平洋艦隊を見つけられず、彼らはそのまま元山に向かっています。彼らの元山への到着予定が午前6時半ですが、彼らが太平洋艦隊を追い抜かしてしまっている可能性もある。ですから、太平洋艦隊の場所は見当が付きません。位置次第で、臨機応変な対応が……」
竹内艦長が更に説明を続けようとした時、
「“三笠”より入電がありました!」
伝令さんが司令塔に飛び込んできた。
「“我、8000m北に燈火の列を認む。注意せよ”とのことです!」
竹内艦長は眉を跳ね上げると、そのまま机の上に置いた海図に目を落とす。
「“三笠”は今、先頭におりますから……」
「大体、私たちより4000から5000mくらい、西にいるっていうことですよね」
私も机の側に立って、海図を覗き込んだ。第1艦隊の旗艦である“三笠”は、第1艦隊の作る単縦陣の先頭に立っている。その後ろに、第1戦隊の“朝日”“富士”“八島”“敷島”“初瀬”が順番に並んでいて、更にその後ろには、第2戦隊が縦一列で続いている。私が乗っている“日進”は、第2戦隊が作っている単縦陣の後ろから2番目にいた。ちなみに、私たちの南側、約1kmの所には、第3戦隊と第4戦隊が、同じように単縦陣を作り、元山に向かって航行している。
「その北側に敵がいる……」
「まだ敵と決まったわけではありません、殿下。慎重に見極めなければ、我々が自在丸事件の二の舞を演じてしまうことになります」
「そうですね」
私は軽くため息をついた。これで、逸って発砲してしまい、その相手は第3国の無関係な船だった……などという事態になれば、大変なことになる。これだけの規模の戦争、恐らく外債を発行して資金調達しなければならないけれど、もし日本が道理の通らない変な事件を起こしてしまえば、外債の人気が下がり、買い手がつかない事態になってしまう。
(今頃、高橋さんあたりが、外債の売り込みに出発してるのかな……。外債を買ってくれる人たちが出てくるといいんだけど)
そんなことを考えていると、再び伝令さんが司令塔に走り込んだ。
「申し上げます!“三笠”より更に入電です!“先ほどの燈火は敵戦艦と思われる。距離7500m”!」
(やっぱり!)
司令塔に、一気に緊張が走る。竹内艦長さえも顔を強張らせる中、
「来ましたか」
軍刀の柄に手を掛け、1人平然としていたのは新島さんだった。
「この程度のこと、鶴ヶ城での戦いに比べれば何ということはない」
落ち着いた声でそんなことを言う新島さんの後ろから、
「見張り所より報告!右舷前方に燈火を認める!距離10000m!」
という参謀さんの叫び声が聞こえた。更には、再び走ってきた伝令さんが、
「“出雲”より入電!“敵見ゆ、戦闘配置につけ”!」
と大声で告げる。
「分かった。全員に伝えろ。戦闘配置につけ!」
竹内艦長がそう命じたので、私も医務室に向かおうと踵を返したけれど、
「殿下はここです」
新島さんに首根っこを掴まれてしまい、仕方なく司令塔の中にとどまった。
だんだんと夜が明け始めて、司令塔の小さな窓からでも、外の様子がうかがい知れるようになってきた。進行方向右側前方、北西の方角に、船影が見える。大きな船のものだと分かるけれど、その3本煙突の船影は、私の見慣れた連合艦隊の軍艦のものではない。その後ろ、私たちに近い方には、固まって航行する何隻かの小さな船が見える。
「一番手前の大きな船は、“レトヴィザン”でしょう。手前の小さな船は、敵の駆逐艦・水雷艇でしょうな」
双眼鏡を覗き込みながら報告する参謀さんに、
「すると、その北側に、巡洋艦部隊があるということになる」
竹内艦長も海図から目を上げて答えた。「“レトヴィザン”と本艦との距離は?」
「10000m、いや、9800mほどでしょうか」
「主砲の射程圏内だな」
顔を強張らせたまま、竹内艦長が頷いた。「前の主砲で“レトヴィザン”を狙え。右舷の副砲は敵の駆逐艦狙いだ。機雷を敷設する我が駆逐隊の援護をするぞ」
その艦長の声に、「“出雲”より入電!“第1艦隊に続き、敵の進路を扼すべし”!」という、伝令さんの大声が重なった。
(いよいよか……)
私は軍刀の柄に右手を軽く掛け、大きく深呼吸をした。
ロシアの艦隊の向かう先は、元山港だ。そこにロシアの艦隊を無傷で入れてしまったら、この海戦、日本の負けである。
「1駆、2駆、4駆、敵の後ろに回り込み始めました!」
(それで、徹底的に、太平洋艦隊を叩き潰さないといけない……)
参謀さんからの報告を聞きながら、私はもう一度、昨日の艦長からのレクチャーの内容を思い出す。
日本海での制海権を確保するためには、連合艦隊は、太平洋艦隊を元山港に入れないだけではなく、ここで壊滅させなければいけないのだ。少なくとも、今ここにいる戦艦5隻、巡洋艦7隻、そして元山港に停泊中の巡洋艦2隻を行動不能にしなければ、日本と清の制海権は危うくなってしまう。だから、奴らの退路である北側の海に機雷を撒く。そして、逃げ出した敵は機雷原に追い込み、機雷に引っ掛けて行動不能にするのだ。
(でも……軍艦は沈めるけど、人は出来るだけ助けなきゃ。甘いって分かってるけど、私、医者だもの)
午前5時25分、前方でドオン、と大きな音がした。
「“三笠”が撃ち方を始めました!」
参謀さんの報告の声が、司令塔にひときわ大きく響く。
「よし、撃ち方はじめ!」
竹内艦長の声も負けじと大きくなり、午前5時29分、“日進”艦首の20.3cm連装砲も発砲を開始した。




