鎮海湾の凶報
※呼称ミスを修正しました。(2021年4月14日)
1904(明治37)年7月9日土曜日午前11時30分、朝鮮半島南岸にある鎮海湾。
「“日進”乗り組みの軍医実習生・章子、診察応援に参りました!」
連絡艇から第一艦隊の旗艦“三笠”に新島さんと乗り込んだ私は、出迎えてくれた“三笠”の軍医中尉に敬礼した。
「応援、ありがとうございます」
“三笠”の軍医中尉が答礼を返してくれる。
「早速ですが、倒れた軍医の方の容態はいかがですか?!」
私は一番に聞きたかったことを、真っ先に出迎えの軍医中尉にぶつけた。
実は今朝、“三笠”から“日進”に、“軍医が2人倒れたので、応援として殿下を本艦に寄越されたし”という通信が入ったのだ。“三笠”には、軍医が今4人いるはずだけれど、そのうちの半分がダウンしたことになる。これは診療能力的に、大幅な戦力低下である。
――12時半の診察開始に間に合うように行く方がよいでしょう。昼食の後に行くのでは間に合いませんから、できれば昼食の前からでも。
“日進”の竹内艦長がそう言ってくれたので、私は迎えに来てくれた“三笠”の連絡艇に、11時過ぎに乗り込んだのだ。もし、“三笠”の軍医さんの容態が深刻なら、私が付き添って病院船に搬送しなければならないかもしれない。いや、秋山大尉と接触する機会が減るから、是非とも私が病院船への搬送に付き添いたい。そう思って、出迎えの軍医中尉に尋ねたのだけれど……。
「大丈夫です。2人とも、容態は落ち着いておりますよ、殿下」
“三笠”の軍医中尉は私にこう答えた。
「本当ですね?!もしかしたら私、そちらの軍医さんたちを病院船に搬送する付き添いをしないといけないと思っていて……」
「ご安心を。2人とも、起立性の低血圧を起こしただけです。大事を取って休んでもらっておりますが、明日には戦線復帰できるでしょう」
(……え?)
「疲れがたまったのかもしれません。先週末、風邪の患者が多かったので、隔離処置に追われておりまして」
「そうだったんですか……」
軍艦の中では、感染性の病気の発生には特に気を遣う。患者さんも治さなければならないし、その患者さんから病気を周りに伝染させないという努力も必要なのだ。風邪の患者が多くなり、緊張を強いられる時間が長くなった結果、軍医さんたちは過労で倒れてしまったのだろう。
「お大事にしてください、と伝えてください」
「ご丁寧に、ありがとうございます」
軍医中尉は一礼すると、「では、昼食の時間になりますので、食堂に参りましょう」と、私の先に立って案内してくれた。
軍医中尉の後ろに付いて上甲板を歩いていると、何百人もの水兵さんが整列している横を通った。水兵さんたちの前に、“三笠”の伊地知彦次郎艦長が立っている。
「えー、本日は診察の応援として、“日進”から増宮殿下がいらっしゃる!」
伊地知艦長が、大きな声を張り上げると、水兵さんたちが騒めく。その上に、
「ただしっ!」
伊地知艦長は、雷のような声を落とした。
「増宮殿下に会いたいがゆえに、仮病を使ったり、わざと負傷したりしないように!発覚した場合は厳罰に処す!本当に体調の悪い者や、本日の再診指示を受けている者だけが、正々堂々と受診を申し出るように!以上だ!」
“日進”では、おなじみになってしまった号令である。近衛師団での実習の最初の頃、私目当ての受診が殺到しかけた。そのため、“日進”での実習開始当初から、このように乗員に厳重に注意するよう、高木医務局長が艦隊に依頼していたのだ。今回も、号令の効果はてきめんで、水兵さんたちのざわめきは一瞬で収まった。これなら、新島さんが水兵さんに注意をする場面もないだろう。
士官用の休憩室に入らせてもらい、軍医中尉と新島さんと一緒に昼食を食べていると、
「軍医中尉、隣の席に座らせてもらってもよいだろうか」
前から、聞き覚えのある声がした。
「これは……」
軍医中尉が立ち上がるのと同時に、私も箸を止めてその場に立ち、敬礼をする。なぜなら、私たちの前に立っているのは、華頂宮家のご当主・華頂宮博恭王殿下だったからだ。
「お久しぶりでございます」
彼と会うのは、元日に皇居ですれ違った時以来だ。丁重にご挨拶をすると、
「章子どの、宮中ではないのですから、もっとお楽になさってもよろしいのですよ」
博恭王殿下は長い顔に微笑を浮かべた。
「いえ、私はまだ実習生の身です。殿下の方が、軍人として、私より遥かに先輩ですから……」
「そんなに年齢も違わないのに、こう恐縮されては、かえって戸惑ってしまいますね」
そう言って私に苦笑を向ける博恭王殿下は、私より8つか9つ年上なのだけれど、私を怖がらない稀有な男性皇族だ。近衛師団の師団長である伏見宮貞愛親王殿下のご長男である彼は、皇室典範が制定される数年前に、華頂宮家を相続した。長男なのに伏見宮家の跡継ぎになれなかったのは、彼の母親が貞愛親王殿下の正妻・利子女王殿下ではないからだ。皇族という身分に甘えることなく自らを研鑽する彼は、軍人としても優秀だという評判も高かった。
「しかし、章子どのの軍服姿……非常に凛々しくて、眩しさを覚えるほどだ。女性は優雅でなくてはならない、と言う者もおりますが、そんな者にこの章子どのの姿を見せてやりたい」
「恐れ入ります」
褒められてはいるようなので、頭を下げておく。ただ、ここまで激賞されてしまうと、この人は本当に私のことを褒めているのか、疑問に思ってしまうのも事実だ。……もちろん、大山さんの“ご教育”の成果が出ていないからと言う訳では、断じてない。
「今、殿下はこの“三笠”のどの部署の配属ですか?」
話題を変える必要性を感じて、こう話を振ってみると、
「砲塔を一つ、指揮しております」
博恭王殿下は頷いた。
「“三笠”は第一艦隊の旗艦だから、すごいことですよね」
「そんなことはありません。私は、海兵少佐としての務めを果たそうとしているだけですよ。医術開業試験に自力で合格して、国軍に飛び込んでこられた章子どのの方が、私よりもよほど優秀です」
(くおっ!)
私は頭を抱えたくなった。この人は、どこまでも私を褒めようとする。ただ、大山さんが私を褒める時と、根本にある何かが違うような気がする。それが何なのか、考えようとした時、
「失礼ながら、殿下がた」
ちらっと懐中時計を見た軍医中尉さんが、私たち2人に呼びかけた。
「もうすぐ診察の時間になってしまいます。増宮殿下、お支度をお願いします」
「いけない、もうそんな時間ですか!では殿下、失礼致します」
軍医中尉の言葉を逃さず、私は博恭王殿下にさっと一礼すると、食器を片付けて廊下に出た。私の後ろから、新島さんと軍医中尉も続く。
「あの方は?」
新島さんが私に小声で尋ねた。
「華頂宮殿下です。お正月に宮中で会って以来ですね。こんな風に軍艦で顔を合わせるなんて、数年前には思ってもいませんでしたけれど」
そう答えると、
「増宮殿下、気を付けて下さい」
新島さんは更に声を潜めた。
「はい?」
「何か、よからぬものを感じます」
「はぁ」
新島さんの言っていることが、よく分からない。
(確かに、私のことをほめ過ぎだとは思うけれど……)
そう思った瞬間、医務室に到着する。私は診察に向けて頭を切り替えた。
“三笠”の診察のお手伝いは、無事に終了した。伊地知艦長の訓示が効いたのか、私目当ての患者が現れることもなかった。
「挨拶にいらした時には、艦内をじっくり見られていないでしょうから、艦内を改めてご案内いたしましょう」
診察が終わると、軍医中尉がこう申し出てくれた。“日進”に戻らなくていいのか気になったけれど、“日進”に問い合わせてもらったら、“夕食に間に合えばよい”という回答が得られたので、私は軍医中尉の言葉に甘えることにした。
巡洋艦の“日進”より、戦艦“三笠”はもちろん大きい。だから、“日進”よりも各種の設備は充実していた。
その一つが冷凍庫である。これは、敷島型戦艦――第一艦隊に所属している“敷島”・“朝日”・“初瀬”・“三笠”の4隻のことだけれど、その戦艦の標準の装備だった。“日進”には冷凍庫が無いので、とてもうらやましい。
――“史実”では“三笠”にしか付いておりませんでしたが、設計の時に強く主張して入れさせました。これがあるのと無いのとでは、食事の献立の種類が全く違ってきますからね。
いつか、参謀本部長の斎藤さんがこう言っていた。冷凍技術は私の時代に比べたらまだまだ進んではいないけれど、冷凍庫のおかげで、食事に使える食材は増える。栄養バランスも取りやすくなるし、献立の種類が増えるので、食事に飽きにくくなる。いつかは全艦艇に、冷凍庫、そして冷蔵庫も装備して欲しいところである。
(でも、斎藤さんの頑張りって、冷凍庫だけじゃないからな……はぁ、“俺が出来たことは、殿下がなさったことよりも小さいこと”って、出会ったばかりのころに言ってたけど、戦艦の設計や艦隊運動の方法も、斎藤さんのおかげで進歩してるよなぁ……)
そんなことを思っていると、
「増宮殿下」
私たちの前方に、第一艦隊の参謀長・島村大佐の姿があった。
「こちらにいらっしゃいましたか」
「はい、艦内を見学させてもらっています」
島村大佐にこう答えると、
「恐れ入りますが、司令官公室においでいただけますか」
彼は私に言った。
「はぁ……了解です」
東郷司令官が、一軍医実習生に何の用事があるのだろう。不思議に思ったけれど、島村大佐に従って、司令官公室に向かう。扉の手前で、「新島どのはこちらでお待ちを」と島村大佐が言ったことを考えると、内密な話なのだろうか。私は帽子を取り、司令官公室に入った。
室内には、東郷司令官の他、思わぬ人物が何人かいた。第二艦隊司令官の上村少将、第二艦隊参謀長の加藤大佐、そして第一艦隊参謀の秋山大尉だ。
「やっとお会いできました」
秋山大尉が、感激の眼差しを私に向ける。「“日進”で載炭をしている間に“三笠”においでになると聞いたので、楽しみにしていたのです。ところが今朝、第二艦隊に行って、状況を把握して来いと命令されてしまって」
(そういうことだったのか……)
道理で、秋山大尉の姿を見かけなかったわけだ。しかし、今の彼のセリフから考えると、私の今回の“三笠”への派遣は、竹内艦長あたりが、私に載炭をさせまいと気を遣って仕組んだものだったようだ。恐らく、“三笠”の軍医が倒れたというのも、仮病だろう。
「あの、……どなたが仕組んだかは分かりませんけれど、載炭作業に関して、余計な気遣いは無用です。載炭は義務ですから、私もやります」
少しキツめの口調で言うと、島村大佐と加藤大佐が恐縮したように頭を下げる。どうやら、私の“三笠”への応援の件は、この2人も一枚噛んでいたようだ。
「殿下ならそうおっしゃると思っておったが……しかし、本題はそこではないのです、殿下」
上村少将が難しい顔をする。「この電文を読んでいただきたいのですが」
上村少将が渡した何枚かの紙に、私は目を通し始めた。東京の国軍省からの緊急電報だ。“本月4日午前4時ごろ、隠岐島の北550kmの海上で、ロシアの巡洋艦が日本の客船に砲撃を加え撃沈した”……そう書かれていた。
「は……?!」
私は顔をしかめた。「これ、客船って……もちろん、武装なんてしてないですよね?!」
「はい」
島村大佐の顔が暗くなった。「引き続いて第2報が届いております。撃沈されたのは敦賀の商船会社の所有する汽船で、霧の中、敦賀からウラジオストックに向かう途中だったそうです。たまたま、事件の1時間ほど後に、小樽に向かう船が現場海域を通りかかり、生存者を救出しました。生存者は小樽の病院に収容されて手当を受けており、今、国軍省と外務省の担当者が、事情聴取のため小樽に急行しているということです」
「生存者がいるんですね……ということは、ロシア側も、生存者を救出してくれてるんですかね?」
すると、
「いや」
上村少将が首を横に振った。
「ロシア側は、生存者を救出しようともせず、現場を立ち去ったということじゃ」
「はぁ?!」
私は思わず叫んでしまった。「ちょっと待ってください!じゃあ、ロシア側は、非武装の客船を、戦争状態でもないのに攻撃して沈没させて、生存者も救出しなかったってことですか?!」
「おっしゃる通りです」
加藤大佐の言葉は静かだったけれど、声が少し震えていた。
(許せないっ……!)
両方の拳をぎゅっと握りしめた。世の中にこんなひどいことが……こんな無惨な殺戮行為があっていいものだろうか。医者の端くれとして、絶対に許せるものではない。身体中を怒りが駆け巡って、全身の血が逆巻いて熱くなった。
と、
――いけませんよ、淑女が怒りを露わにしては。
不意に、大山さんの声が、記憶の底から蘇った。
(あ、そっか……)
「主は怒りを以て師を興すべからず、将は慍りを以て戦いを致すべからず……」
思い出した文章を、口に出してみる。君主は一時の怒りにとらわれて、戦争を起こすべきではない。将軍も、一時の憤激に任せて戦いを始めてはいけない。数年前、児玉さんと一緒に読んだ“孫子”の一節だ。戦争は、一時の感情で起こしたり、動かしたりしていいものでは絶対にないのだ。
「なるほど、“孫子”ですか。確かにその一節、今の我々にピッタリですな」
島村大佐が苦笑する。
「この事件、増宮殿下は予見されていましたか?」
「秋山大尉、私にそんな力はありません!」
私は秋山大尉を睨み付けた。「もしこの事件、予見出来ていたら、艦隊の総力を挙げてその客船を守ってくれって、伊藤さん、じゃない、伊藤閣下に進言していましたし、何とかして外交的にロシア艦隊の動きを止めてくれって、陸奥閣下にお願いしていました!」
人が理不尽に命を落とすことが、私は何より大嫌いだ。もし私に予知能力があるならば、それをフルに使って、人が理不尽に死んでいくのを徹底的に阻止する。そんな力など持っていないから、せめて、手の届く命だけでも救おうと思っているのに……。
「申し訳ありません、増宮殿下!」
秋山大尉が勢いよく頭を下げた。「どうか、私を罰してください!畏れ多くも、殿下を泣かせるという大罪を……!」
「秋山大尉……こちらこそ申し訳ありません。私も修業不足でした」
自分の頬を触ってみると、確かに少し濡れている。やはり、感情が高ぶってしまったようだ。こういう時こそ、冷静にならなければならない。
「あの……、東郷閣下は、なぜ私をこの部屋に呼ばれたのでしょうか?」
気持ちを落ち着かせることも兼ねて、私は東郷司令官に質問をぶつけてみた。いずれは、この客船撃沈事件も、海兵たちの知る所になり、自然に私の耳に入る。それなのに、なぜ、軍医実習生に過ぎない私に、この情報を先に知らせたのだろうか。
すると、
「本省から、この艦隊に日本への帰還が命じられていないからです」
東郷司令官はこう答えた。
「え……?」
話の意味が取れない。戸惑った私に、
「実は、中央情報院から、ウラジオストックの艦隊が、“4日の明け方に、敵対した清の軍艦を撃沈した”と言い立て、戦争準備に入っているという情報が入りまして」
横から島村大佐が補足してくれる。
「それは……」
“敵対した清の軍艦”。それは、霧の中でロシア巡洋艦に撃沈されてしまった、日本の客船のことではないだろうか。
(ロシア側は、相手が清の船だと思っていたの?)
いや、清の船でも清の船でなくても、どちらでもよかったのかもしれない。彼らとしては、朝鮮を攻め取るため、朝鮮を実質的に支配している清を攻撃できる何らかの大義名分が欲しかったのだ。撃沈したのが日本の、しかも非武装の客船だったということで、対外的な大義名分は崩れ去ってしまったけれど……。
「更に、……これは朝鮮の官憲からの情報ですが、蔚山の沖で、朝鮮の漁船が消息を絶った、と」
「!」
加藤大佐の言葉に、私は目を見張った。蔚山沖……この鎮海湾から、100km離れているかどうか。そんなところまで、ロシアの軍艦が進出しているというのか。
「ロシアの軍艦が、この辺まで出張ってきている可能性があるということですか?」
「ええ。……ですから、この局面しかないのですよ、増宮殿下」
島村大佐が力強く言った。「殿下に無事に日本にお帰りいただくためには、ここで一度、全艦隊で佐世保に引き返すしかないと」
「ちょっと待ってください!」
私は声を荒げてしまった。「なぜ、そんなことをしなければならないのですか?!おかしいでしょう!艦隊が佐世保に後退したら、日本海の制海権が完全にロシアのものになってしまいますよ!」
「しかし万が一、殿下だけをお返しすれば、お乗りになった船がロシア側に攻撃され、抵抗できないまま撃沈されてしまう可能性もあります!蔚山からこの鎮海湾は近い。殿下のご安全のためには、全艦隊でお守りして、佐世保に戻るしかありません。殿下は直宮、しかも国軍初の女性軍人、……もし万が一のことがあれば、国内外への影響が大きすぎます!」
「けれど……もしそうやって艦隊が佐世保に戻ってしまえば、ロシア艦隊から離れすぎてしまいます。鎮海湾に日本の艦隊がいることで圧迫を受けていた元山の反乱軍も、勢いを取り戻してしまうかもしれません。戦局全体を見れば、私のために艦隊が佐世保に戻るのは下策ですよ!」
「おっしゃる通りではあるのですが……」
私の叫ぶような言葉に、加藤大佐が眉をしかめる。その彼に向かって、
「加藤参謀長、お気遣いいただけるのは大変ありがたいのですけれど」
と私は言った。
「私は軍籍を持つ身です。戦争に巻き込まれる覚悟はしています。それに私、東京を出る時に、伊藤さん……じゃなかった、伊藤閣下に言ったんです。“万が一戦争になっても、私は戦場から逃げ出すような真似はしたくない。軍医学生として、私以外の人の命を出来る限り救って、絶対に生きて帰る。だから、総理としての決断は、どうか間違えないようにお願いします”と」
「!」
部屋の中にいる全員の視線が、私に集まった。
「それでですか!」
秋山大尉が小さく叫ぶ。「それで納得がいきました。この局面、本省でも戦争の可能性を考慮していなければおかしい。それなのに、増宮殿下をお呼び戻しにならないのはなぜか……よく分からなかったのですが、そのお言葉で納得しました」
「だな」
上村少将が力強く頷く。「伊藤閣下は、殿下の輔導主任を長年務めてこられた。その伊藤閣下が、手塩にかけて育ててこられた殿下を、日本に呼び戻さないのはいかなる訳かといぶかしんでいましたが……いや、流石じゃ。権兵衛の目は確かじゃな」
と、
「お覚悟、しかと承りました」
東郷司令官が静かに言った。
「ならば我々も憂いなく、本省の命令に従い、来るべき戦に備えることができます。殿下、お辛い目に遭わせてしまうかもしれませんが、“日進”で実習を続行してください」
「かしこまりました、閣下」
私は東郷司令官に敬礼した。
「ところで……一応、外交交渉で問題が解決する可能性もあるんですよね?」
「はい」
島村大佐が答えた。「だからこそ、小樽に外務省の職員も派遣されたのでしょう。それに、ロシア側の中枢は、恐らく戦争回避に動くと思います。仲裁が成立し、客船の船主と亡くなった者や負傷者たちに、ロシア側から補償がなされれば、朝鮮半島の緊張も緩和されますから、我々も大手を振って日本に帰れます」
「問題はアレクセーエフですね……」
“暴走するかもしれない”と、送別会の時に山縣さんが心配していた、ロシア太平洋艦隊の総司令官の名前を私が挙げると、
「その通りです。奴が、一度振り上げた拳を素直に下ろすとは思えません。十分に警戒が必要かと」
加藤大佐がこう返す。彼の眉の間の皺は、深くなっていた。
外交での解決、となると、スペインやオランダなど、第3国に仲裁をお願いするのだろうか。それでだめなら、オランダのハーグにある仲裁裁判所での話し合いに持っていくということになるだろう。
(陸奥さんとロシアのラムスドルフ外相で、問題を平和的に解決してくれればいいけれど、そう上手く行くかなぁ……)
なんだか、ものすごく嫌な予感がする。そして、私のその予感は、最悪の形で的中してしまうのだった。
※華頂宮博恭王殿下は、この時期実際には伏見宮に復籍していますが、拙作ではそれが起こっていない設定です。




