外相官邸の送別会
1904(明治37)年5月28日土曜日午後6時、麹町区霞が関一丁目の外務大臣官邸。
「大変だったなぁ、ここに決まるまで……」
車寄せに滑り込んだ馬車の中で、私は小さく呟いた。
近衛師団での実習は、今日の午前中で終わった。そして、6月1日から、私は横須賀に停泊中の巡洋艦“日進”に乗り込んで、3か月の実習を行う。その命令が正式に下った後、
――という訳で、梨花会の面々で、増宮さまの送別会を開きたいと存じます。
内閣総理大臣の伊藤さんは、5月14日の梨花会の席上、私に厳かに告げた。
――いや、たかが3か月東京を離れるだけですよ?そんなこと、しなくていいと思います。
私はこう反論したのだけれど、
――ダメでございます!今まで、増宮さまが3か月も東京を離れることはありませんでした!ですから、送別会を開かなければなりません!
伊藤さんは涙ぐみながら私を睨み付け、他の梨花会の面々も、斎藤さんと原さん以外は激しく首を縦に振った。
――もしお聞き入れいただけぬとあれば、医務局長経由で、増宮さまに送別会に出るように命令致します。
――それ、パワハラですか?!脅迫ですか?!
伊藤さんの言葉に即座にツッコミを入れたけれど、こんな命令、高木医務局長だって困惑するに違いない。そう思ったので仕方なく、私は申し出を受け入れることにした。
けれど、その送別会の会場が決まるまでが大騒ぎだった。
この時の流れでは、皇族が参加するパーティーというものは、政府高官や華族の屋敷で開催されることが圧倒的に多い。大人数が入れる宴会場やパーティー会場というものが、私の時代ほど発展していないからだ。だから、送別会も誰かの自宅で開催する……そこまではすんなり決まった。けれど、“誰の自宅でするのか”というのが問題になってしまったのだ。
まず、一番の最有力候補は、自宅でロシアの皇族をもてなしたこともある有栖川宮威仁親王殿下だった。しかし、送別会の開催が決まった時点で、彼は艦隊訓練に参加中だった。東京に戻るのは6月上旬……これでは6月1日に“日進”に乗り込む私の送別会の主催者にはなれない。
そうなると、他のメンバーの自宅で開催することになる。けれど、梨花会の人数の多さが、ハードルを上げることになった。
伊藤さんが梨花会の出席者に順に尋ねたところ、厚生大臣の原さん、国軍大臣の山本さん、大蔵次官の高橋さん、農商務次官の牧野さん、厚生次官の後藤さん、国軍次官の桂さん、参謀本部長の斎藤さん、そして東宮大夫兼東宮武官長の児玉さんは、「自宅でこの人数の客は捌けない」という理由で主催を断った。
――増宮さまだけなら、何とかなるかもしれませんが……。
――他の梨花会の面々も、となると、流石に手狭になってしまいますなぁ。
児玉さんは軽く、桂さんは大仰にため息をついたけれど、政府高官が多数参加するとなると、準備も大変になってしまうのだ。この理由は、意外にも、大きな屋敷を構えている人にも当てはまった。
――庭は広いのですが、母屋は狭いですし……。
枢密院議長の山縣さんは眉をしかめ、
――我が家では厳しいです。増宮さまだけではなく、他の方々の警備役も敷地に入ることを考えると……。
内務大臣の黒田さんも嘆息した。他にも、大蔵大臣の松方さん、文部大臣の西園寺さん、西郷さん、三条さんがこの理由で脱落した。
この時点で残ったのは、総理大臣の伊藤さん、外務大臣の陸奥さん、立憲改進党党首の大隈さん、貴族院の伯爵議員である井上さん、そして青山御殿の別当であり、中央情報院の総裁でもある大山さんの5人だった。この中で一番張り切っていたのは大隈さんで、
――常に大勢の客のいる吾輩の家ならば、賓客の30人や40人、どんと来いなんである!
と自分の胸をポンと叩いた。ところが、
――既に梨花さまは、大隈さんの家に2回も御成になっておられます。不公平になってしまうのではないでしょうか。
と我が臣下に指摘され、あえ無く撃沈されてしまった。
――という訳ですので、梨花さまの送別会は是非俺の家で……。
珍しく大山さんが積極的に申し出た瞬間、
――あの珍妙な館で送別会を開く気か?!
井上さんが抗議の声を上げた。
――珍妙とは失礼な。あれはドイツの古城を模したもので……。
反論する大山さんの横で、
――確かに、あの外観はビックリしたわね。
私はため息交じりに呟いた。最初に見た時は、私の時代のテーマパークに迷い込んでしまったのかと一瞬思ってしまったのだ。
すると、
――ん?
と伊藤さんが右の眉を跳ね上げた。
――外観を御存じ、ということは、増宮さま、まさか大山さんの家に御成になったことが……。
――あ、はい、微行で何度か……。
ウソをついても、すぐにばれてしまうだろう。私が伊藤さんに正直に答えた途端、
――それならばダメなのである!不公平になるんである!
大隈さんが大山さんにすかさず反撃を入れ、大山さんの自宅での開催も無しになった。
――ふっ、なら、俺の出番だな。俺の手料理を、久々に増宮さまに……。
――却下です。毒見役が何人必要だと思っているのですか。
得意げに立ち上がった井上さんに、西園寺さんが引きつった表情で宣告した。
――増宮さまの毒見役は、東條くんでいいとして……。
大隈さんに受けたダメージから素早く立ち直り、悪戯っぽい笑みを見せる我が臣下に、
――井上さんの料理、そんなに言うほどマズいかな?
私は首を傾げながら言った。
――そうだ!みんな、奇抜なモノを料理して出すと、ゲテモノ扱いするけどなぁ……。増宮さまがいらっしゃるんだから、そんな奇妙奇天烈なモン、出さないに決まってるだろう!
(要するに、井上さんの料理って、珍しい材料を使っちゃうとヤバくなるってことか……)
怒鳴る井上さんの言葉に、私はようやく納得していたのだけれど……。
それはさておき、大隈さん・大山さん・井上さんの自宅での開催はなくなり、残る会場候補は、伊藤さんが住む総理大臣官邸と、陸奥さんが住む外務大臣官邸の2か所になった。どちらも、要人を多数招いての食事会や舞踏会が開かれるので、送別会の会場としての広さは申し分ない。その場では結論が出ず、終了時刻になったので、いったん5月の梨花会はお開きになった。
状況が動いたのは、5月21日の土曜日、送別会の開催まで1週間に迫った日のことだった。
――どこから嗅ぎつけたのか、巳代治が増宮さまの送別会のことを知ってしまいました。“伊藤さんが主催なさるのなら、まさか憲法を共に作った私を呼ばないということはないでしょうね?”と迫られて……。
陸奥さんと原さんがやって来る時間に現れた伊藤さんは、私や陸奥さんたちの前で悔しそうに報告した。
――それはそれは、大変なことです。
大山さんがのんびりと答える前で、
――巳代治は梨花会の人間ではない。増宮さまの秘密を明かすわけにはいきません。まことに残念ですが、送別会は陸奥君の官邸での開催をお願いしようと……。
伊藤さんが陸奥さんに頭を下げ、陸奥さんは承知した旨の返事をした。
――やれやれ、危ないところでした。ありがとうございました、大山殿。
伊藤さんが立ち去ると、陸奥さんが優雅にため息をつき、大山さんに一礼した。
――伊藤殿は、殿下を口説いたことがあるとのこと。今回の送別会の席上、殿下を口説く可能性もありますからね。
――ええ、その点では、外務大臣官邸の方が安全です。
ほくそ笑む陸奥さんと大山さんに、
――伊藤さんが口説きたいなら、口説かせればよいではないですか。この奥手な小娘には、ちょうどいい薬になりますよ。
原さんが呆れながら言う。
――しかし原君、それで総理大臣の評判に傷が付いたら、我が国の威信に関わるだろう?
陸奥さんが原さんを軽くたしなめる横で、
(要するに、自分のところで送別会を開きたいから、大山さんを抱き込んだって訳?)
私は心の中で、陸奥さんにツッコミを入れていたのだけれど……。
そんなことを思い返しながら、大山さんのエスコートで馬車を降りる。私が今着ているのは、青の中礼服だ。布地のところどころに、キラキラ光るビーズが縫い付けられている。ティアラもネックレスも付け、更にイヤリングや長い手袋もしているので、窮屈なことこの上ない。
「御成いただき恐縮です、殿下」
外務大臣官邸の玄関には陸奥さんがいて、私の姿を見ると一礼した。
「今日の殿下も本当にお美しい」
「お褒めにあずかり、ありがとうございます」
淑女らしく、を念頭に置きながら一礼すると、陸奥さんが微笑した。
「軍医学校の制服の凛々しさとは打って変わって、可憐で美しく、庇護欲を掻き立てる……世界各国の要人たちが殿下に夢中になるのも当然」
「黙っていれば、の話でしょう」
私はムスッとした。「守られるばかりなのは、私の性に合いません。許されるなら、実力をつけたうえで、お父様と兄上を助けたいんですから」
「承知しておりますとも。だからこそ、僕も原君も、殿下を鍛えているのではないですか」
(いたぶって遊んでる、の間違いの気がするけど……)
そう思った瞬間、陸奥さんの瞳の奥に妖しい光が揺らめく。私は慌てて感想をかき消して、顔に微笑を浮かべた。
「……まぁ、よいでしょう」
陸奥さんは私を一瞥すると、再び微笑した。既に瞳の奥の怪しい光は消えていたけれど、これは後で、お仕置きとして厳しい質問が飛んできそうだ。一応、覚悟はしておくことにした。
「さて、皆さまお待ちかねです。ご案内いたしましょう、殿下」
陸奥さんの言葉に、私は大山さんの方を向いて、軽く頷いた。大山さんも私に頷き返し、私は彼のエスコートに従って、絹でできた靴に包まれた脚を動かした。
夕食会は、ハプニングも無く、優雅に進められていった。流石、賓客をもてなすことも多い外務大臣官邸である。料理の盛り付けや味も申し分なく、給仕たちの動きも完璧だった。もちろん、これは陸奥さんはじめ、歴代の外務大臣たちの教育の賜物だろう。
料理を一通り堪能した後は、別室に移ってお茶をすることになっていた。客が全員移動し終わると人払いがされる。最初は当たり障りのない話をしていたけれど、次第に話題は極東情勢のことに移っていった。
「元山の反乱軍は活動を拡大する気配がないって、先々週の梨花会では言っていましたけど、その後はどうなっていますか?」
「やはり動きはありませぬ」
私の質問に答えたのは我が臣下だった。「義和君もロシア領内を移動して、元山に入りましたが……かなり困難な道のりだったようで」
シベリア鉄道の西側は、相変わらずノボニコラエフスクより東では工事が進んでいない。ノボニコラエフスクはシベリア鉄道の東側の先端・ハバロフスクから、直線距離で3500kmほど離れた場所にあり、その3500kmの間は、馬か河川交通を駆使して移動するしかない。義和君は軟禁されていたフランスからロシアに入り、雪解けを待ってシベリアを横断し、ウラジオストックからロシアの駆逐艦に乗って元山に入ったそうだけれど……。
「シベリアの横断に1か月半ほどかかったようですな」
すると、大山さんの言葉を聞いた斎藤さんがふうっ、と息を吐いた。
「危ない、危ない。シベリア鉄道が“史実”のように全線開通していたら、モスクワからウラジオストックまで2週間余りで移動できてしまう。シベリア鉄道が全線開通していないのは、我が国と清軍にとっては本当に幸いなことです」
「その通りだな、斎藤。ヨーロッパにいる50万の兵力が、2週間余りで極東に投入されてしまったら……それを考えると恐ろしい」
「しかも、鉄道があれば、物資の補給も比較的容易に出来る。……鉄道を破壊するという攻撃手段はあるがな」
児玉さんと桂さんが口々に言う。それだけ、シベリア鉄道の全線開通はインパクトがある事項なのだ。
「シベリア鉄道の工事を進めるという動きが出ていないか、心配なところではありますが、そちらはどうなのですか?」
山田さんが眉をしかめながら問いかけると、
「フランスが、建設から撤退する構えを見せておりましてな。工事も止まったままです」
松方さんが珍しく、ニヤリと笑った。
「ほう、それは朗報ですが……いかなる訳で?」
「元山へのロシア巡洋艦の派遣が、欧米各国で問題になっておりましてね」
山田さんの問いに、陸奥さんが会心の笑みをこぼす。「我が国に引き続いて朝鮮・清・イギリスが、そしてオーストリア・ドイツ・イタリア・アメリカ・スペイン・ポルトガルが抗議した……ここまでが先々週にお話ししたことだったと思います。その後、フランス以外のほぼすべての欧米各国が、ロシアに同様の抗議を入れました」
(うわぁ……)
頭を抱えたいのを、私は必死に我慢した。ヨーロッパの世論を、ほとんど反ロシアで固めてしまうとは……背後で梨花会が、特に中央情報院が暗躍しているのは間違いない。いつもバカバカしい争いを繰り広げている彼らだけれど、やることはきっちりやっていた。
「ここまで抗議が広がれば、ロシアと同盟を結んでいるフランスも流石に及び腰になります。ロシアのプレーヴェも朝鮮侵攻への意欲が失せているようで、極東に駐留させている軍隊と艦隊に、行動を自重するよう強く求めています」
陸奥さんの言葉を受けた大山さんが、そう付け加えて微笑する。
「だから、元山での反乱軍の動きも止まっている訳ね。……その間に、朝鮮に駐留している清軍が巻き返せるかしら」
「徐々に巻き返しつつありますな。朝鮮各地での不穏な動きを、一つずつ封じています」
こう報告してくれるのは、国軍大臣の山本さんだ。「清の朝鮮国内での諜報網の再構築が功を奏しているようです。流石は袁世凱、欲は深いですが、間違いを正す力はあるようです」
「ということは……国際世論の力でロシアの援護が止まっている隙に、朝鮮駐留の清軍が立ち直って、元山の反乱軍を討伐できるということでしょうか、山本さん」
そう尋ねると、「恐らくは」と山本さんは頷いて、
「ですから、俺と伊藤閣下は、増宮さまの“日進”での実習を許可したのです」
と力強く断言した。
「増宮殿下の“日進”での実習中に、朝鮮駐留の清軍は朝鮮各地の騒乱を抑え、元山に大規模な討伐軍を派遣できるでしょう。そうすれば、ロシアの巡洋艦も元山から撤退せざるを得ません。元山の反乱軍は討伐され、極東に平和が訪れる、という訳です」
自信たっぷりに頷く桂さんに、児玉さんと斎藤さんが保証するように同時に頷く。
「太平洋艦隊のアレクセーエフが暴走しないかが、唯一の懸念だが……」
今まで黙っていた山縣さんが、眉根に皺を寄せながら言った。
「それでも、マカロフ中将よりはマシです」
“史実”の記憶を持っている斎藤さんが、身体を山縣さんの方に向けた。「あの提督がウラジオストックに出張って来れば、暴走することはないでしょうが、戦争になった場合、我が軍も大きな犠牲を払うことになります」
マカロフ中将……“史実”で“名提督”と謳われた人だ。“史実”の日露戦争では、一時期ロシア太平洋艦隊の司令長官を務めていたけれど、乗っていた戦艦が機雷に触れて爆発し、戦艦もろとも亡くなった。今の時の流れでは、ロシア海軍内の権力争いに負け、3年前に自ら海軍を退いた後は、悠々自適の隠居生活をしているそうだ。
「“史実”で恐れられた名将を、戦の場から遠ざける……中央情報院の手際のよいのには、毎度恐れ入りますな」
「金子さんや明石君、福島君などが頑張ってくれているおかげですよ、了介どん。彼らの存在あるからこそ、我々が存分に計略を立てられるというもの……」
黒田さんに大山さんが微笑を向ける。その微笑には何とも言えない凄みが漂っていた。
「いずれにしろ、増宮さまの実習中の御身の安全は、全力で確保させていただきます」
伊藤さんが立ち上がって私に最敬礼する。
「ありがとうございます、伊藤さん」
私はゆっくり、椅子から立ち上がった。
「お心遣い、受け取らせていただきます。……でも、万が一戦争になっても、私は戦場から逃げ出すような真似はしたくありません」
「増宮さま……」
「軍医学生として、私以外の人の命を出来る限り救って、絶対生きて帰ります。だから、総理としての決断は、どうか間違えないようにお願いします」
「……しかと、承りました。増宮さまの仰せの通りに」
伊藤さんが私に再び深く頭を下げる。こう言ったことを、私は後々、梨花会の面々に激賞されることになるのだけれど、この時はまだ、それを知る由もなかった。




