貴賓室(1)
※章タイトルを変更しました。(2020年9月23日)
1904(明治37)年2月14日日曜日、午前8時。
「なるほどね……」
葉山御用邸の前にある砂浜。散策中の私は、そう言うとため息をついた。
「要するに、下請けの質が悪すぎた、ということか」
「はい」
私の隣には、非常に有能で経験豊富な臣下が歩いている。
8日に臨時の梨花会が開かれたため、昨日の定例の梨花会は中止され、私は軍医学校の授業が終わった後に葉山にやって来た。桂さんと斎藤さんが言っていた“見ていただきたいもの”を、横須賀で見るためだ。葉山と横須賀は、直線距離で10kmも離れていない。警備の都合も考えると、日帰りではなく、13日に葉山に泊まり、14日に横須賀に行って帰京するのがよい、という大山さんの案だったので、私はそれを受け入れることにした。
一方、大山さんは、東京で仕事を終えた後、最終列車で夜遅くに葉山入りした。なので、昨日の夜にゆっくり話を聞くことができず、今日の午前中、朝食を終えて御用邸を出発するまでの間、こうして報告を聞くことにしたのだ。
「朝鮮に派遣されていた清の情報機関員たちは、朝鮮人を配下として使うことが多いようです。問題は、中央情報院と違い、そやつらに情報機関員としての教育がきちんと施されていないこと……特に、ここ1、2年は、その傾向が強かったようです」
大山さんは砂浜を歩きながら、淡々と私に報告してくれる。時折、打ち寄せる波の音に大山さんの声がかき消されそうになり、隣を歩く私は、そのたびに彼に身を寄せて声を聞き取った。
「その、教育が施されていない下請けたちが、適当に仕事をしてたってことかな?それで、元山や朝鮮各地での不穏な動きを掴めなかった、と」
「そういうことになります」
「下請けたちや、清の機関員自体が、ロシアや他の国に取り込まれている可能性は?」
「精査致しましたが、そちらの可能性は否定されました」
「院の方も?」
「はい」
大山さんの答えを聞いて、
「よかったぁ……」
私はほっと息を吐いた。
「梨花さま?」
大山さんが足を止め、怪訝な表情で私を見る。
「清の朝鮮における諜報網に、不備があることが分かったのですよ?それがなぜ、“よかった”となるのですか?」
「諜報網が、敵国に侵食されてないのが分かったからよ」
立ち止まった私は、大山さんをしっかり見ながら答えた。
「諜報網を敵国に利用されて、不正確な情報をつかまされてしまっていたら、それこそ大変なことじゃないの。でも、下請けがダメだっただけなら、まだ態勢は立て直せる」
「しかし、今回の件は、俺にも責任があります。情報には速さも大切ですが、正確さや質も大事。その確認を怠っておりました。ですから……」
「罰を与えてくれ、って言ったら、怒るわよ」
私は大山さんを睨み付けた。
「大事なのは、再発させないことでしょ。もしあなたが、自分が悪いって思うんだったら、再発防止策を冷静に立てて、それを実施して」
「梨花さま、しかし……」
「まさか、まだ“罰してください”なんて言うの?」
少しきつい声で言うと、大山さんがひるんだように、動かそうとした口を閉じた。普段の彼からは、絶対に考えられないことである。
(うーん、これ、形だけでも罰を与えないと、大山さんが止まらないなぁ……。何か、罰にならないような罰を考えないと……あ、そうだ)
「そう言えば、今日はバレンタインね」
私の言葉に、大山さんの眼が見開かれた。
「梨花さま?バレンタインを嫌がられている梨花さまから、バレンタインのことを言い出されるとは、……一体何があったのですか?」
「あったのよ。あなたへの罰を決めないといけないから」
私はわざと悪戯っぽく微笑み、
「今年はバレンタインのプレゼント、あなたからは受け取らないし、私もあなたにはあげない」
大山さんにこう言ってみた。
次の瞬間、大山さんが砂浜に両膝をついた。
「それは……確かに、重い罰です」
大山さんは両膝に加えて両手まで砂浜につき、うなだれている。横から見ると完璧な“orz”……私の時代で言う“失意体前屈”のポーズになってしまっていた。
「ちょ……!な、なんで大ダメージを食らってるのよ、大山さんは!」
私は慌てて大山さんの側に屈みこんだ。
「落ち着きなさい!こんな主君にバレンタインのプレゼントをあげられないくらいで、そんなに激しく落ち込んでどうするのよ!大体、私はバレンタインにプレゼントを贈る習慣なんて、滅びて欲しいと思ってるんだから!好きな人がこの世にいない私には、バレンタインなんて行事、苦行でしかない……」
すると、
「こんな主君?」
うなだれていた大山さんの頭が上がった。
「聞き捨てなりませんね」
私の右の手首に、急に力がかかる。大山さんが掴んだのだ。
「大分薄くなってきたとはいえ、時折顔を出します。ご自身を傷つける悪い癖が」
上体を起こした大山さんが、穏やかで優しい視線で私を捉える。
「俺が取り除きたいと努力しても、しつこく残ってしまっております。やはり、前世から引きずっておられるからでしょうか」
(や、やばい、これ、逃げないと……)
立ち上がろうとしたけれど、右腕が大山さんの手から離れない。一生懸命右腕を振っているうちに、大山さんが私の身体を抱き締めてしまった。
「しかし、次第に薄くはなってきているのです。ですからここであきらめず、ご教育を続けるのが肝心……」
(うにゃあああああ!)
大切な臣下に罰を与えた代償は、あまりに大きかった。それから御用邸を出発するまで、寄せては返す波の音をBGMにして、大山さんの“ご教育”が続けられてしまい、馬車に乗り込むときには、私の頬は真っ赤に染まってしまっていたのだった。
午前11時、横須賀港。
「どうなさいましたか、増宮さま?!」
出迎えてくれた伊藤さんが、馬車から降りた私の顔を見て目を見開いた。
「お顔色が真っ赤です。もしや、風邪でお熱が……」
「あー、大丈夫です、伊藤さん。体温は、平熱です、はい……」
伊藤さんに答えた私の声に、
「ええ、少しご教育をさせていただいただけですよ」
私の隣に立つ大山さんの声が重なる。もちろん、彼の手は私の右手に優しく添えられていた。
「ははぁ、なるほど」
伊藤さんの隣にいる陸奥さんがニヤリと笑い、
「なるほど、それならば仕方が無い」
伊藤さんも私と大山さんを見比べながら頷く。陸奥さんの隣に軍服を着て立っている斎藤さんは、私たちの様子を見ながら、「どうも、増宮殿下が大山閣下をご寵愛されるのには、いつまで経っても慣れないな」と呟いていた。
その斎藤さんの隣に、久しぶりに見る人物が立っていた。濃紺のフロックコートを、きっちりと着こんだこの人は……。
「牧野さん、お久しぶりです。6、7年ぶりですか」
「はい、さようです。お久しぶりでございます、増宮殿下」
農商務次官・牧野伸顕さんは、そう言うと私に最敬礼した。私がまだ花御殿に住んでいた頃、彼が東宮亮を務めていた時以来の再会だ。あれから彼はイタリアに公使として赴任し、伊藤さんが組閣すると農商務次官に転任していた。
「ご立派になられました。軍医学校に入られると聞いた時には驚きましたが」
牧野さんがこう言うと、
「……本当に驚いたのかね?」
不機嫌そうに問いかける人がいた。陸奥さんだ。
「先ほどの様子を見ていると、どうもそうとは思えないのだけれどね、君」
「驚きましたよ、陸奥閣下」
牧野さんは陸奥さんに身体を向けて抗議した。「それに、先ほどの話も驚きました。増宮殿下が、未来に生きておられたという記憶をお持ちで、更には伊藤閣下も斎藤閣下も同様の記憶をお持ちだとは」
「……私の前世のこと、牧野さんに喋ったのね」
大山さんに小声で確認すると、
「成長してきましたし、ちょうどよい機会だと思いましたので、梨花会の皆と決めました」
と、彼も私に囁き返す。そんな私たちの前で、
「ですが、小説にもそういう話があるだろうと思い直しまして」
と、牧野さんは陸奥さんに反論し続けていた。
「増宮殿下は直宮であらせられるのに、なぜ医師を目指そうとなさったのか、そして、東宮亮を務めていた時に垣間見させていただいた増宮殿下の御振る舞い……諸々のことに得心が行ったのです」
(確かにねぇ……)
私は心の中で苦笑した。私の考え方は、この時代のものからはかけ離れていることが多い。数年前の牧野さんにとっては、不思議なことだらけだっただろう。今は柔軟に対応できるようになってきているようだけれど……。
「つまらない」
牧野さんに相対していた陸奥さんが眉をしかめた。「もっと驚いてくれなければ、面白くないじゃないか。僕は小次郎を一日中抱っこして、休日出勤で疲れた心を癒したいのだ。それを我慢して、今日はこちらにやってきたというのに……」
(休日出勤って、ああ……)
4日前の10日、朝鮮義勇軍と名乗る連中に占拠された朝鮮の元山港に、ロシアは巡洋艦“ノーウィック”と“ワリャーグ”を派遣した。派遣の名目は“元山に居住するロシア国民を保護するため”……この時代にありがちな理由である。それを知った陸奥さんは、早くも翌日の11日に、ロシア公使に“巡洋艦の派遣は、朝鮮の侵攻を目的としており、朝鮮の主権と極東地域の平和を脅かす”と厳重に抗議した。11日は紀元節で祝日だったことを考えると、異例の素早い対応だった。恐らく、陸奥さんの言う“休日出勤”は、ロシア公使への抗議のことを言っているのだろう。
(兄上の読み通りに進んだよな、元山のこと……朝鮮駐留の清軍は軍を編成できないし、この先どうなるか……)
考えを巡らそうとした時、こちらに近づいてくる軍服の一団がいるのに気が付いた。岸壁に停泊している軍艦の方から歩いてきたその人たちは、私から5mほどのところで立ち止まると、一斉に私に向かって敬礼する。
「“日進”の艦長の竹内平太郎と申します」
「章子と言います」
先頭に立っている男性に、私は答礼を返した。
「本日はおいでいただき、ありがとうございました」
「いえ。……で、“日進”の中に、私に見てもらいたいものがあると聞いたのですけれど」
「さようでございます」
竹内艦長は私に一礼した。「持って行けるものでしたら、青山御殿に持参したのですが……」
「いいですよ、気にしないでください。では、早速見せていただいてよろしいでしょうか」
「はっ」
竹内艦長の案内で、私たちはイタリアから回航されてきたばかりの“日進”に乗り込んだ。船の中に入って廊下を歩き、艦長はある扉の前で立ち止まる。
「ここが例の部屋かね?」
伊藤さんの質問に、「ええ……」と斎藤さんが苦虫を噛み潰したような表情で答える。
「どうぞ、殿下」
竹内艦長がその部屋の扉を開け、私を中に招き入れた。
赤い絨毯が敷かれた10畳ほどの広さの部屋の奥には、高さが1mほどある木製のベッドが置かれている。ベッドの下は3段の引き出しが付いた収納スペースになっていて、ベッドというより、背の低いタンスに寝る場所が乗っていると表現する方がいいかもしれない。
ベッドのそばの壁には、西洋画が飾ってあった。左側の黒い服を着た男が天から雷を降らせ、それに炎をまとった剣を振りかざした戦士が対峙している。キリスト教の天使と悪魔の戦いを表現したものなのか、それとも別の神話に題材を取った絵なのか、私には分からなかった。
絵の横には、木製の机が置かれている。机の引き出しの取っ手の根元には、全て菊紋が施され、その上には白い封筒と一冊の本が乗っていた。
「あの、竹内艦長」
私は艦長の方を振り向いた。「それで、私に見て欲しいものというのは、一体……」
「この部屋です」
「へ?」
首を傾げた私に、竹内艦長はもう一度、「この部屋です」と繰り返した。




