血圧と酸素と覚悟
1890(明治23)年の10月の、とある土曜日。
「あの、ベルツ先生、一つ聞きたいことがあるんですけれど」
土曜日の午後、恒例になったベルツ先生の講義が始まった時、私は先生に質問した。
「何でしょうか、殿下?」
“内科病論”を広げようとした、ベルツ先生の手が止まった。
「今朝、三浦先生の診察を受けていて、気が付いたことが一つあって」
「三浦君の?」
「はい」
「何か、三浦君の診察に、問題がありましたか?」
「いえ、そういうことじゃありません」
私は首を横に振った。
花御殿に引っ越してから、毎朝、侍医の診察を受けるようになった。花御殿に詰めている侍医は、みんな西洋医学を勉強して医師になった人たちだ。
「診察の手順としては、まず体温と脈拍と呼吸数を測って、それから視診、聴診、触診と進んでいきますよね」
「順番の前後はありますが、大体そんな風に進みますね」
「血圧って……測らないんですか?」
「は……?」
私の質問に、ベルツ先生はきょとんとした。
「血圧です、血圧。Blood pressure。血管にかかる圧力のことです」
「殿下……すみません、英語は得意ではなくて。ひとまず、日本語で書いていただけますか?」
ベルツ先生がすまなそうに言った。
「あ……」
私は口を押えてから、慌てて手元の紙に“血圧”と記して、ベルツ先生に見せた。
「大山さん、これ、ドイツ語で翻訳できますか?」
横にいる大山さんに声を掛けると、彼はベルツ先生にドイツ語で何やら喋った。
「ああ、なるほど、理解できました」
頷いたベルツ先生に、「またやってしまいました、ごめんなさい」と私は謝った。
前世の医療用語には、英語が相当入り込んでいる。大学の授業の課題で外国の書籍や論文を読まされることもあったけれど、それはすべて英文だった。なので、私が医療のことをベルツ先生に話すと、気が付かないうちに英語由来の言葉をしゃべってしまい、彼を混乱させてしまうのだ。そのことに、今月に入ってからようやく気が付いた。
「確か、そういうものも測定できますが、かなり大掛かりな装置でして……」
「大掛かり?一体どうやって測定するのですか?」
「ガラスの箱の中に前腕を入れて、その箱の中に水を満たし、水圧を掛けるのです。そして、手首の動脈の拍動を見ながら測定するのですが……」
ベルツ先生の答えに、私は思わずのけぞった。
「なんで、そんな大掛かりな……」
腕が水で濡れてしまうし、そもそも箱の中に水を満たしていくのが大変だろう。大体、そんな大きなものを、どこに置いておくのだろう。
「もう少し小さいものもありますよ。水を満たしたバックを腕に巻いて、バックに圧力を掛けて、手首の動脈を触れながら血圧を測るのです。しかし……殿下、血圧を測定して、一体どうするのですか?」
「あー……」
私はため息をついた。
ベルツ先生の口ぶりから察するに、どうやらこの時代、血圧が一体何を意味するのかすら、よく分かっていないようだ。
「ええと、血液の圧力が低いとき、……“低血圧”といいますけれど、そうすると血液が臓器に送り届けられなくなる可能性が高いので、発生した状況によっては危険な状態を意味します」
刺されたり、吐血したりして出血している時に、低血圧になっているようなら、間違いなく危険な状況である。
「ただ、血液の圧力が高いとき、“高血圧”というのですけれど、これも、あまりよろしくありません」
「ほう、それはなぜでしょうか?」
「血圧が高いと、血管が軽微な損傷を起こします。そして、損傷を起こした個所から、血管が細くなってしまうのです。血管が細くなってしまうと、その先の臓器に、血液が届かなくなります。臓器が兵糧攻めに遭う……という想像をしてもらえるといいかしら。その兵糧攻めにあった臓器が脳なら、脳卒中になるし、心臓なら、心筋梗塞になるし、腎臓なら、腎機能が低下して、尿毒症になります。まあ、本当はこれだけが原因ではないのですが……」
コレステロールや血糖、喫煙の有無なども関与してくる。
「だから、血圧が高い、ということがわかれば、臓器が兵糧攻めに遭ってしまう危険を察知することができるの……この説明で、なんとなく、分かってもらえたでしょうか?」
「はい、大体は」
ベルツ先生は言った。
「なので、私の時代では、診察の時に血圧を測定することが、ごく普通に行われていました」
「殿下、貴女さまの時代では、どのように測定をしていましたか?」
「ええと……多分、デジタル式なんて、明治時代だと無茶だろうから……実家の診療所にあった、古い血圧計って、確かこんな感じだったと……」
私は鉛筆を持つと、白い紙に水銀柱の血圧計の図を簡単に描いてみた。水銀は、前世では危険だということで、水銀を使った医療器具の回収も始まっていたけれど、しょうがない。だって、前世でも、血圧測定の単位は“水銀柱ミリメートル(mmHg)”なのだから。
「なるほど、バッグに空気を入れて、腕を締め付けるのですね……これなら、今までの血圧計を応用すれば、作成できるかもしれません。“コロトコフ音”でしたか?カフを締め付けた時に、血液の乱流によって音が発生する、というのも初めて聞きましたが、この仕組みを使えば、血圧も正確に測定することができるでしょう。三浦君と一緒に、試作品を作ってみましょう。特許を取る方がいいかもしれません」
「は、はあ……」
興奮しているベルツ先生に、私は、あいまいに頷いた。
(特許、か……)
気持ちが、少し重くなる。
「それから殿下、血圧と同じように、未来では診察の際に測定しているもので、今は測定していないものはあるでしょうか?」
こう尋ねたベルツ先生は、やや前のめりになっていた。
「あとは……経皮的な酸素飽和度?」
前世の臨床現場では、“サチュレーション”とも“サット”とも呼ぶけれど……多分、これ英語が由来だろうな。
「ヘモグロビン全体のうちの、酸素と結びついているヘモグロビンの割合を表すのだけれど……」
「ほう、それが測定可能なのですか」
(ヘモグロビンは分かるんだ……)
「はい、確か……クリップみたいな機械を指に挟んで、赤い光を通して、瞬時に解析していたと思うので、多分今の技術だと無理だと思いますが……あ」
ふと、思いついたことがあって、私は手を打った。
「ベルツ先生、酸素の生産ってできますか?」
「酸素ですか?確か、塩素酸カリウムを加熱すると、得られると聞いたことがありますが……」
(あれ?過酸化水素に二酸化マンガンを加えて……じゃないのか)
「それって、どのくらいの量ができるんですか?」
私が尋ねると、「実験室で扱うぐらいの量だったかと……」とベルツ先生は答えてくれた。
「うーん、大量に欲しいんですよね」
「大量?一体どのくらいですか?」
「えーと、最大、1分間に10リットルの酸素が送り込めるぐらい?」
「殿下……その酸素を、一体どうするのですか?」
「吸入するの。急性や、慢性の呼吸不全の時に。吸いすぎるとそれで肺を損傷することもあるけれど、適量なら大丈夫です」
私の言葉を聞いた、ベルツ先生が目を丸くしている。酸素吸入って、この時代、一般的じゃないのかな?
「だけど、どうやったらいいのかな?水を電気分解するなんて悠長だし……空気を超低温にして、液体にして分離するしかないのかな?」
「あ、液体酸素ですか。フランスで分離に成功したという話を聞いたことがあります」
「本当に?!」
私は立ち上がった。酸素の沸点って、マイナス200度よりは下だったと思うけれど……明治時代、そのレベルの低温って作れるのか?!
「ああ、確か健次郎どのが、そんなことを言っていた気が……」
横にいる大山さんが頷いた。
「あの、大山さん、健次郎さんってどなたですか?」
「捨松の……妻の兄です」
「ああ、物理学教授の」
(そう言えば……)
大山さんの奥さん……山川捨松さんって、明治初年にアメリカに派遣された女子留学生の一人なのだった。そのお兄さん、ということは、やっぱり彼も留学したことがあるのだろうか。
「空気から酸素を液体化して、分離できれば、酸素がたくさん作れる気はしますけれど……」
「健次郎どのに、話してみましょうか」
一つ頷く大山さんに、「ぜひお願いします」とベルツ先生が嬉しそうに頭を下げた。
(んー……いいのかな、これって……)
私の気持ちは、ますます重くなった。
血圧測定のことも、酸素を吸入することも、ベルツ先生の反応から考えると、この時代では、まだその真の価値が発見されていないようだ。
大体、血圧測定の時に、動脈をカフで締め付けて生じる血管の音――“コロトコフ音”というのは、絶対に日本語ではない。
「おや、殿下、どうなさいました?」
私の顔色を見たのだろう、ベルツ先生が心配そうに尋ねた。
「あ、あの……こうやって色々話して、いいのかな、と思って……」
「と言いますと?」
「医療を、未来のものに近づけたいと思って話したことですけれど……多分、その私の知識は、“史実”では、他の誰かが発見したものだと思うのです。だから、アイデアを盗んでしまうような形になってしまうから、特許まで発生してしまうとなると、果たして、これでいいのかしら、と思ってしまって……」
すると、
「今更ですか?」
大山さんが静かに言った。
「え?」
大山さんの方を振り向くと、彼は背筋を伸ばし、じっと私を見据えていた。
「増宮さま……お心を決めなされ」
「……っ!」
息が詰まりそうになった。
大山さんの鋭い眼光が、真正面から私を貫いている。
まるで、鋭い刀の切っ先が、喉元に突き付けられたような……そんな感覚に襲われて、私は全く、身動きができなくなった。
――あなたには、覚悟がお有りか。
大山さんの瞳は、私にそう問うているかのようだった。
(覚悟、ね……)
このまま、私の知識で医療が発展すれば、今の時代の多くの人を、助けることができるだろう。
天皇と皇太子殿下の役にも、少しは立つと思う。
けれど、医療が発展した未来では、前世で起こっていたような問題が、“史実”より早く起こってしまう可能性もある。
人口の高齢化、医療費の増加、多剤耐性菌の出現、疾病構造の変化、医療関係者の過酷な労働環境などなど……経済の発展や、交通手段の進歩など、医療の発展とは関係ないことも影響してくるけれど……。
「しょうがない……」
私は、いったん目を閉じた。「できることは、やります。それが、爺に教わったことだから」
「殿下……」
ベルツ先生の声が、遠くで聞こえるような気がする。
「やったことで、後世、大悪人と言われるかもしれないけれど……今の時点で必要なことで、私ができることは、やるだけやってみます。それで起こってくる問題も、可能な限り解決するように努力する」
私は目を開いた。大山さんが、微かに頷いた。それと同時に、身体の呪縛が解けて、急に全身から力が抜けた。
「はあ……」
椅子の背もたれに身体を預けた私に、「大丈夫でしたか?!」とベルツ先生が駆け寄った。
「はあ……大山さんが怖い」
「それは間違いないでしょう。私もいささか、剣を嗜んでおりますが、大山どのの殺気……伊香保で肝を冷やしましたよ」
「何をおっしゃる、先生。殺気など、増宮さまに向けられる訳がございません」
平生の、穏やかな微笑をたたえる大山さんに、
(いや、殺気じゃないけど、それに近かった気がする……)
私は心の中で突っ込んだ。口に出して、言えるはずもない。
(それにしても、なんで大山さんは、花御殿の武官長になったんだろう……?)
前陸軍大臣で、“史実”では元老の一人だ。確か、“史実”の日露戦争で、現地の軍の総司令官だった気がする。そして、ドイツ語だけではなく、英語もフランス語も話せ、天皇に“我が師に等しい”とまで言われている。そんな有能な人物が、なぜ花御殿の武官長になっているのだろう。
(絶対、大山さんを怒らせないようにしよう……)
私は密かに誓った。
ベルツ先生が三浦先生と協力して、前世のような、水銀柱の血圧計を作り上げたのは、11月の末の頃だった。
「前世だと、マジックテープで空気袋を止めていたけれど、さすがにそこまでは無理でしたか」
「ええ、その“マジックテープ”というものが、よくわからなかったので、革のベルトで空気袋を止めることにしました」
花御殿の私の居間で、ベルツ先生は、血圧計の試作品を嬉しそうに眺めた。
「三浦君と、互いに血圧を測ってみましたが、本当に、血液の乱流音が聞こえるのですね。早速、三浦君が論文を書くと言っていました。酸素の製造の方も、試作を始めてみる、と山川教授が話していました。もしかしたら、空気を冷却する以外にも、別の方法があるかもしれないということでして、櫻井教授とも話してみると言っていましたが……」
「そうですか……。いずれ、水銀柱以外の方法で、圧力を測定できるようにしなければいけないけれど……」
私は、ベルツ先生が試作した血圧計を触ってみた。前世では、“昔ながらの”という形容詞が付きそうな血圧計だ。けれど、この機械で血圧測定をし、証拠を積み重ねていけば、高すぎる血圧が身体に悪いことが証明されていくのだ。
「ベルツ先生、私も血圧計、使ってみていいですか?」
私が空気袋を手に取った時、廊下で数人が歩く足音がした。
「失礼いたします、増宮さま」
居間の障子が開けられ、そこに立っていたのは、大山さんと……西郷さん、黒田さん、山縣さんだった。
「ええと、みんな揃って、どうしたんですか?今日は、これからベルツ先生の講義を受けるのですが……」
私が言うと、
「それと知って、お願いに参上致しました」
黒田さんが一礼した。
「お願い?私に?」
「はい……」
黒田さんは一つ頷くと、真剣な表情で私を見た。
「脚気を……脚気の件を何とかしていただきたく!」
(はにゃ?)
黒田さんの言葉に、私は首を傾げた。
リヴァロッチが、現在のような血圧計を考案したのが1896年。そしてコロトコフ音の発見が1905年です。
章子さまの血圧と、それに関連する病気についての説明は、超大雑把です。本当は病気自体も色々あるし、メカニズムも複雑なのですが、そこまで説明していると話が終わらないのでご容赦を。
酸素の液体化に成功したのは1877年。ベルツ先生が言っている方法は、“化学理論之実験証明”(ラムセー、1892)から引っ張ってきましたが、爆発の危険もあるので、迂闊に真似しちゃダメ、絶対!……ただ、この方法が、明治期の化学の本には“酸素の製法”として載っています。
そして、お待たせしました!……と言っていいのかなあ?




