ヴェーラの苦悩
1903(明治36)年12月13日日曜日、午後1時30分。
「頭が痛くなってきたわ……」
青山御殿の応接間。私と大山さんの前でため息をついたのは、普段は忍で血圧関係の研究をしているヴェーラ・フィグネルだ。去年の5月末以来、約1年半ぶりの再会である。
「ちょっと、落ち着かせてちょうだい……」
そう言って、ヴェーラは手にした湯呑を口に近づけた。湯呑の中身は緑茶だ。当時皇太子だったニコライ陛下を暗殺しようと、彼女が日本にやって来てから12年。すっかり日本での生活に慣れた彼女は、嗜好も日本風に変わっていて、今日もこの部屋に入るなり、
――緑茶を淹れてちょうだい、章子。今日はたっぷりあなたを問い詰めたいから、飲み物が必要なのよ。
と言い放ったのだ。そのくせ、再会までの……というか、去年の9月までに私の身の上に起こったことについて、問われるままに私が話したら、話の内容が理解の範囲を超えてしまったらしく、彼女の口の動きが完全に止まってしまったのだけれど。
「はぁ……な、何とか納得したわ」
緑茶を一口飲んだヴェーラは、湯呑を机に置くとほっと息をついた。「新聞で読んでもよく分からなかったし、三浦先生に聞いても“増宮さまは素晴らしい”って興奮気味に語るだけだし、下僕に聞いてもいまいち要領を得なかったけど、章子自身の話を聞いて、何とか理論だけは納得した。感情が全く納得できてないけれど」
「私もです」
私はため息をついた。内親王1人を外国に嫁がせないために、議会を臨時招集して法律を変える……今まで、世界にこんな事例があったのだろうか。探せばあるのかもしれないけれど、そんな努力はする気も起きない。
すると、
「章子がそう言ってどうするのよ!」
ヴェーラが眉の付け根に皺を寄せながら叫んだ。「当事者でしょ、あなた!」
「いや、そうなんですけど、自分でも、何でこんなに常識をぶっ壊すようなことが起こったんだろうって思ってしまって……」
「私の常識も、今まで散々章子に破壊されて来たけれど、まさか、また跡形もなく破壊されるなんて思ってもみなかったわよ!」
鋭い口調で言いつのるヴェーラを、
「まぁまぁ、ヴェーラ、抑えて抑えて」
私の横から、大山さんが苦笑しながらなだめた。
「また大山サンはそんなことを!」
ヴェーラがきっと大山さんを睨み付けた。「大体、大山サンはいつも章子を甘やかして……」
更に鋭い言葉を発しようとしたヴェーラを、大山さんが一瞬ギロリと睨む。すると、ヴェーラの身体が一瞬震えた。
「……大山サンは怒るととても怖いから、これ以上は言わないでおくわ」
(やっぱり、そうだよなぁ……)
京都でニコライ陛下を襲撃しようとした時、ヴェーラを動けなくしたのは大山さんだ。その時の恐怖が、脳裏に蘇ってしまうのだろう。私は少しだけ、ヴェーラに同情してしまった。
「けど、これで章子、プリンセスで医者でサムライってこと?改めてこう言ってみると、本当に信じられないわね」
両肩をすくめて見せたヴェーラに、
「軍人とサムライは、全部同じではないですけど……まぁ、そうなりますかね」
私はため息をつきながら答えた。
「全く、我が祖国ながら、ロシアは本当におかしな国ね」
ヴェーラはもう一口緑茶を飲むと、私と同じようにため息をついた。「皇帝はサムライに夢中になるわ、新しい太平洋艦隊の長官は、着任早々“朝鮮は3日で征服できる”って言い放つわ……」
「迷惑な人ですよねぇ、そのアレクセーエフって人は」
太平洋艦隊の本拠地であるウラジオストックに先日到着したアレクセーエフが、着任の挨拶でそう言ったというのは、新聞にも掲載されていたし、昨日の梨花会でも話題になっていた。アレクセーエフは早速、ロシアの極東の兵を統括するアムール軍管区の司令官にも朝鮮侵攻を誘う電文を発したという情報も、中央情報院の職員さんが探り出していた。
「その3日で、一体何十万の人が犠牲になるのかしら。本当に勘弁してほしいですよ。戦争なんて、起こらないのが一番なのに」
眉をしかめながら愚痴ると、
「よかった」
とヴェーラが言った。
「はい?」
「やっぱり章子、サムライになっても戦争は嫌いなのね。少し安心したわ」
「……軍人がみんな、戦争が好きとは限らないですよ。ひとくくりにして見ないでください」
私はムスッとした。「まず戦争が起こらないように努力することが大事です。起こってしまったらしょうがないから、戦争には勝って、私の手の届く限り、できるだけ多くの人を、敵も味方も関係なく助けて帰って来ようって、私、軍医学生になる時に決めました」
「章子らしいわ。そうじゃなかったら殴ってた」
「よかったです。私がヴェーラにボコボコにされちゃったら、大山さんがどうするか分からないですから。いや、“ご修業ですから”なんて言って、黙って見てるかもしれないですけれど」
私がこう言うと、
「その場の状況によりますね」
と大山さんは真面目に返答する。口元は笑っているけれど、目が笑っていない。危険を感じた私は話題を切り替えることにして、
「そう言えば、ウリヤノフさんは元気ですか?」
ヴェーラの言う“下僕”……ウラジーミル・イリイチ・ウリヤノフ、“史実”では“レーニン”と呼ばれる人の近況を尋ねてみた。
「一応ね。最近、仕事が増えているみたいだけど」
私の質問に、仏頂面に戻ったヴェーラが答えた。
「仕事?」
「日本の軍人に、ロシア語の個人教授を頼まれることが増えたって言ってたわ」
答えると、ヴェーラはまた緑茶を一口飲む。「おかげで、臨床試験の結果の解析が進まないわ。全く、下僕を骸骨にするまでこき使っていいのは私だけなのに」
(これって、ウリヤノフさんに対する、一種の愛情表現なのかな……)
戸惑う私の前で、
「これじゃあ、三浦先生のノーベル賞が遠のくわ。森先生に続いての受賞を期待してるんだけど」
ヴェーラはまたため息をついた。「よからぬ話も聞くし、私、どうしたらいいのかしら」
「よからぬ話?」
私が聞き返すと、ヴェーラは眉をしかめた。最初に出会った頃より、ヴェーラの表情は大分豊かになっている。
「……シベリアに流刑にされるユダヤ人の数が増えてるって。そして、流刑にされたユダヤ人が、シベリアで強制労働させられてるそうよ。3日間食事を与えないとか、仕事が進まなければ見せしめに処刑してるとか」
(その話か……)
昨日の梨花会でも報告されていた。シベリア……特に、アムール軍管区の本拠地、清とロシアの国境を流れるアムール川沿いにあるブラゴベシチェンスクという街の近辺で、ユダヤ人が強制労働させられている。強制労働の目的は、ブラゴベシチェンスクの街の要塞化だ。過酷な労働と待遇に耐えかねたユダヤ人たちは次々に脱走し、オホーツク海や日本海沿岸に逃れ出て船便で日本に逃亡したり、アムール川を夜陰に紛れて渡河し、清に逃げ込んでいたりしていた。
日本にも、ユダヤ人がシベリアで酷い扱いをされているという話は伝わっている。日本海沿岸に、シベリアから逃げ出してきたユダヤ人の乗った密航船が漂着することが増えてきたからだ。ただし、日本の新聞や雑誌で報道される場合は、ユダヤ人たちがシベリアのどこで強制労働させられていたかはぼかされている。もちろん、中央情報院の手によるものだ。
「脱走して捕まったユダヤ人は、全裸で柱にくくりつけられて、ロシア兵たちにナイフで切り刻まれ……事切れたら、そのまま戸外に死体がさらされるなんて、ひどい、ひどすぎるわ」
ヴェーラがそう言ってうつむいた。握りしめた手が、小刻みに震えている。
「許せない。こんなに理不尽に人が殺されるなんて。ねぇ章子、どうやったら、私は奴らを止められるの?やっぱり、私、……あの時ニコライを殺した方がよかったの?」
「……少なくとも、直接行動じゃ止まらないですよ」
私は言葉を選びながら話し始めた。「確かに、無名の個人が国家に一番影響を及ぼせる方法は、政府の中枢にいる人物を殺すことです。でも、ニコライ陛下やプレーヴェさんを暗殺しても、状況は何も変わらないどころか、かえって悪くなると思います。今の彼らだと、報復措置としてロシア国内のユダヤ人を皆殺しにしかねない。そんなことになってもいいんですか?」
「!」
ヴェーラが身体を強張らせた。
「そ、そんなことがあり得るの?!」
「あり得ますよ。大量虐殺事件なんて、日本でも世界でも、歴史を紐解けば必ず出てきます。人間なんて、理性を失えば単なる獣なんですから」
私の頭には、もちろん、“史実”の第2次世界大戦の時に発生してしまったホロコーストのことがある。今の時の流れで、ナチスと同じような思想が出てくる可能性もあるし、出てこない可能性もあるけれど、人間が理性を失えば、どんな方向に暴走するか分からない。その方向が“虐殺”になることは十分に有り得るのだ。
「ヴェーラが人を殺して死ぬのも私は嫌ですし、その結果として、無数の人が死ぬのも嫌です」
ヴェーラの鋭い眼光にひるまないよう、自分を励ましながら私は言った。「だから、他の方法でロシアの態度を変えさせる。例えば、外国からの圧力とか。そういう理性的な方法でやらないと……」
「……スペインとイタリアの雑誌で、ロシアでのユダヤ人の虐待問題が取り上げられておりますね」
私の言葉に、大山さんが横から付け加えた。
「大山さん……?」
私は、大山さんを少しだけ見た。
そうやってヨーロッパ諸国の世論に火をつけ、イギリスやフランスにも波及させる。そして、ヨーロッパの様々な国から“ユダヤ人を虐待するな”と外交ルートでロシアに圧力を掛けさせ、ロシア国内でのユダヤ人の強制労働をやめさせる……その策が、昨日の梨花会でも説明されていたけれど。
(それ、ヴェーラに喋っていい話?ていうか、喋っていい話だとしても、“なんで大山さんがこんなことまで”ってヴェーラに怪しまれるんじゃないかな?)
心配していると、
「そう……大山サンが手を回してくれたのかしら?」
ヴェーラが静かに尋ねた。表情に滲み出ていた怒りの色は消え、いつもの仏頂面に戻っている。
「ええ。他のヨーロッパ諸国に飛び火させる準備も出来ています。今はベルギーの国王陛下の家来たちの、コンゴの領地での非人道的な振舞いも問題になっておりますゆえ、その流れで、ヨーロッパ諸国はロシアを非難するでしょう」
「いつもながら素早い手回しだけれど……章子は知ってるの?大山サンのことも含めて」
「俺のご主君ですから、全てのことを御存じですよ。俺がここの別館で何をしているかも」
すると、ヴェーラが大きく息を吐いた。
「そう。ありがとう、大山サン。けれど……私はこの国で、安穏と暮らしていていいのかしら」
「いつかは、ヴェーラがロシアで必要とされる日がくるでしょう」
再びうつむいたヴェーラに、大山さんが穏やかな声を掛ける。「しかし、それは今ではありません。今あなたがロシアに戻れば、すぐに官憲に捕まり、何もできないままに処刑されてしまいます。……時が必要です。それまでは俺たちを信じて、待っていてください」
「……わかったわ、大山サン」
ヴェーラが顔を上げた。「待つわ、私。けど、なるべく人は傷つけないようにしてちょうだい」
大山さんが頷いたのを見ると、ヴェーラは立ち上がった。
「そろそろ、汽車の時間があるから帰るわ。……章子、大山サンの足を引っ張っちゃダメよ」
「わかってます」
そう答えた私を一瞥すると、ヴェーラは応接間から去っていった。
「ヴェーラは大山さんが院に関わっていることを、知ってるのね」
ヴェーラを玄関まで送った大山さんが応接間に戻ってきた後、私は大山さんに確認した。
「はい、それは」
大山さんは頷くと、応接間の扉を閉める。
「ユダヤ人の強制労働の件に絡んで、ブラゴベシチェンスクの要塞化工事のこととか、これからあなたが仕掛けていくこととかが出てきそうだったから、どうしたらいいんだろうって思って対応を迷ったの」
扉が閉まったのを確認すると、私は言った。「ヴェーラにどこまで話していいのか分からなくなって」
「先ほどのご対応で正解かと思います」
大山さんは言った。「敵か味方か分からない者に対しては、事情を深く語らないことが鉄則ですから」
「けど……国際的な批判を浴びたとして、ブラゴベシチェンスクの工事、止まるかしら」
「止まらない可能性も大ですが……そこを要塞化したとしても、持久戦になれば、清軍の方が有利でしょう」
ブラゴベシチェンスクとアムール川を挟んだ対岸、1kmほど離れたところに、黒河という清の町がある。そこは清の近代化された陸軍によって要塞化されており、設置されている砲はブラゴベシチェンスクを射程に入れられる。しかも、ブラゴベシチェンスクへの物資運搬は、細々とした陸路か、アムール川を使った水運に頼らざるを得ないのに対し、黒河はハルビンから鉄道が通じているため、物資運搬が容易なのだ。
「満州の状況が、“史実”のこの時期とはまるで変わっているから、話がややこしくなっちゃうけれど……満州がロシアの勢力下じゃなくて、清の勢力下にあるっていうのは本当に大きいわね。東清鉄道だって、この時の流れでは影も形もないし」
「すべては、日清戦争と義和団事件が起こらなかったからです。そして、西太后が亡くなっていることも大きい。清に財政的な余裕が生まれた結果、国防や産業奨励に回せる資金が増えました。今や、清は張り子の虎ではなく、名実ともに“眠れる獅子”になりました」
大山さんがニヤリと笑う。昨日の梨花会でも清の状況は話題になっていたけれど、黒河から伸びた鉄道は、ハルビン、奉天、天津を経て北京に通じている。この鉄道により、満州方面の補給は万全の状態になっている。これも、“史実”の日清戦争と義和団事件で課せられた、国家予算の何倍にもなる多額の賠償金を支払わずに済み、西太后という壮大な無駄遣いをしてしまう人間が消えたことで、清に財政的な余裕が生まれたからできたことである。
「ただ、シベリア鉄道のウラジオストックからハバロフスクまでの区間は、完成してしまいそうなんだっけ」
「ええ、恐らく来年の春には」
松方さんと高橋さんが、シベリア鉄道の工事に資金を提供しているフランスを操って工事方法を変えさせ、シベリア鉄道の建設を遅延させる作戦を始めてから数年が経過している。工事が遅れているといっても、時が経てば少しずつ、鉄道の総延長は伸びていくのだ。
「けど、戦争が始まったら、清にとっては格好の攻撃目標よね、その鉄道。……なんで清との国境沿いに何百kmも線路を敷いちゃうのかしら。しかも、国境から3kmも離れてない場所に。“攻撃して、どうぞウラジオストックの補給を断ってください”って言ってるようなものよ」
「ええ、とてもよい攻撃目標ですね。梨花さまも、よく手が見えるようになりました」
「あなたたちには、まだまだ敵わないよ。小さいころに感じた、何かが繋がっている感覚が、やっと分かってきた気はするけれど……私は戦争や政治の手順を考えるより、傷病者の手当や、軍隊の補給のことを考えたいからね」
移り変わる時代の中、事象の表面は変わっていく。けれど、事象の本質は変わっていない。表面を取り違えないように注意さえすれば、何を考えるにしても真実が見え、次に指すべき手が分かる。そのことがようやく分かってきた。ただ、考えているうちに本来の目的を見失うことは多いし、状況にそぐわない手を考えてしまうこともある。梨花会の皆のように、頭の中の盤で鮮やかな手を指せるようになるには、まだまだ修業が必要だ。
と、
「それでは、梨花さまに、清とロシアが戦闘状態に陥った場合の戦闘経過について、予測を立てていただきましょうか」
我が臣下はそう言って、微笑を私に向けた。
「褒めてくれるんじゃないのか……」
「とんでもない、とてもよくお出来になっていると思いますよ。ただ俺は、出来ている生徒を見ると、ますます鍛えたくなってしまう性質でして」
「知ってた」
軽くため息をつくと、頭の上に大山さんの手のひらが優しく置かれた。
「では、答案の作成と参りましょうか。この大山もお手伝いいたしますゆえ」
「本当に、容赦がないわね……」
苦笑を顔に浮かべると、大山さんが頭をそっと撫でてくれた。




