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転生内親王は上医を目指す  作者: 佐藤庵
第33章 1903(明治36)年小暑~1903(明治36)年寒露
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ノーベル賞の行方(2)

 1903(明治36)年10月2日金曜日、午後4時半。

 軍医学校の校長室のドアをノックして中に入ると、森先生は書類を一人で整理しているところだった。

「増宮さま、いかがなさいましたか」

 森先生は、座っていた椅子から慌てて立ち上がった。「実習の方に、何か問題がありましたか?」

「そうではなくて」

 私は後ろ手で校長室の扉を閉めた。

「ノーベル賞のことです」

 そう言うと、「ああ、そちらですか……」と森先生は眉を曇らせた。

「カロリンスカ研究所に、“辞退する”なんて返事してないですよね?」

「ええ、増宮さまが“待て”と仰せになったので、辞退するとは返事をしておりませんが、返事を急がねば、授賞式に間に合わなくなりますし……」

 うつむいて喋る森先生に、

「どうして、辞退しようと思うんですか?」

私は真正面から尋ねてみた。

「それは……今回の受賞理由になった、“ビタミンの発見”は、元々、増宮さまの知識から出たものですから。それは、本来の発見者に対して、失礼に当たるのではないかと思いまして……」

「……その理由は、ウソですね」

 私はきっぱりと言った。「それなら、緒方先生や、村岡先生と島津さんがノーベル賞をもらった時に、森先生はあの人たちに受賞しないように説得していたはずですから」

 昨年の緒方先生の“マラリア原虫の発見とその感染経路の証明”、そして、一昨年の村岡先生と島津さんの“エックス線の発見とエックス線撮影装置の実用化”……両方とも、私の知識から始まった研究だ。

「それに、私の未来の知識をこの世に還元したことでの罪は、私がすべて背負うと決めたんです。だから、先生方は栄誉を黙って受け取って、新たな研究に励んでくださればそれでいいんです。医科分科会にいらっしゃるのに、そのことも分かりませんか?」

 どういうことだろうか。“議論に長けている”と大山さんに評されたこともある森先生が、私の滅茶苦茶な論理に押されてしまっているように見える。それはやはり、森先生の言葉が、嘘だったからだろう。私はそう思った。

「先生は……ノーベル賞を受賞したくないというより、ヨーロッパに、いいえ、ドイツに行きたくないんでしょう?先生がスウェーデンに行ったら、先生が留学時代にお世話になった先生方が、講演をして欲しいと言って先生をドイツに連れて行ってしまうから」

「ま、増宮さま……」

「ドイツには、エリーゼさんがいる。忍で血圧のコホート研究をしているエリーゼ先生のことじゃない。エリーゼ・マリー・カロリーネ・ヴィーゲルトさん……先生が留学時代に恋に落ちて、今でも愛している人」

「どうしてそれを?!」

 森先生は顔を青ざめさせた。

「私に男女交際を申し込んできた人の恋愛遍歴ぐらい、把握させていただきますよ!たとえそれが、お見合いを断る方便であったとしても!私、前世は平民だったけど、今生では一応皇族なんだから、何かの間違いがあったらいけないでしょう?!」

 言い立てているうちに、鼓動が速くなるのが分かった。急に身体も熱くなった。でも、言わないといけない、これだけは……。

「いいですか、これから私が言う言葉は令旨です」

 いつもより早口で一気に言うと、森先生が身体を強張らせた。

「ノーベル賞はもらいなさい。それで、授賞式の帰り、ドイツに寄ってエリーゼさんに会ってきなさい!」

「え、あの……」

「森先生がどうしたいのか、あなたたちがどうするべきなのか、私は答えを持っていません。だけど、森先生はまだいいですよ。愛している人に、会おうと思えば会えるんですから。私は……私はもう、どう頑張ったって、好きな人に会えないんだから!」

「増宮さま……」

「私、森先生がうらやましいです……」

 眼を閉じたらいけない、と直感的に思った。もし、目を閉じてしまったら、私の目の前に、亡くなったフリードリヒ殿下の姿が蘇ってしまうだろう。そうしたら、森先生と話を続けられなくなってしまう。涙が溢れているのは分かったけれど、私は必死に目を開けていた。森先生は、泣いている私を見つめたまま、その場から動けないでいる。

「……返事は?」

「は……?」

「令旨を(うけたまわ)ったという返事は?!」

「え、いや、あの、その……」

 睨み付けてみたけれど、森先生は落ち着かない表情で、目をキョロキョロと動かしているだけだ。

(や、やっぱり、この人……)

「……逃げるんですか?」

「は?」

「好きで一緒に暮らそうと思った女の人を、しかも自分の子供を身ごもった女の人を、日本での出世のために捨てるんですか?“舞姫”の主人公みたいに!」

「あ、……あれをお読みになったのですか?!」

 私が叩きつけるように叫ぶと、森先生が目を見開いた。

「ええ、あなたが手元に本を持ってないって言うから、わざわざ本屋で買って、兄上と一緒に読みました!あのね、私も今の時代に慣れたから、家や親が大事って感覚も分かるようになりましたけど、未来の人間の感覚であれを読むと、主人公がクズ過ぎて殴りたくなるんですよ!好きで同棲して、子供まで身ごもらせた女性なら、日本に連れて帰ってちゃんと結婚すればいいのに!」

「い、いや、その、エリーゼとは、接吻(くちづけ)はしましたが、それ以上のことは……」

 更に言いつのる私に、森先生が慌てて答える。

(くちづ……)

 森先生と金髪の女性が口を吸い合う情景が私の脳裏に浮かび、次の瞬間、それに日本人の少年少女の姿が重なった。

――ねぇ、キスしていい?

(ウソ……っ、これだけで……?!)

 火照り切った身体を、切られるような痛みと辛さが襲う。元々速くなっていた心拍数が更に上がる。私はすぐそばにあった来客用の椅子に、必死の思いで身体を預けた。

(落ち着け、私!これは現世(いま)じゃないんだ!私は兄上の大切な妹で、大山さんの大切な淑女(レディ)なんだから……!)

 自分の身体と心に、必死に言い聞かせていると、

「しまった……!」

森先生が私に駆け寄り、床に片膝をついた。

「申し訳ございません、増宮さま!大山閣下からも、ベルツ先生からも、その単語だけは口にしてはいけないと言われていたのに……!」

「大丈夫です、森先生……」

 大きく、ゆっくりを意識して呼吸をしながら、私は森先生に答えた。「キスの話をしなかったら、性病の話が余りできないじゃないですか」

 忌々しい光景は見えなくなり、まだ少し速い鼓動だけが、嵐のようなフラッシュバックが起こったことを物語っている。フランツ殿下に会った時に起こったフラッシュバックよりは、明らかにダメージは減っていた。だからと言って、毎日フラッシュバックが起こってほしいなどとは、とても言えないけれど。

「ねぇ……」

 私は、そばで片膝をついている男性に話しかけた。

「あなたは、何もしがらみがなかったら、軍医でも、森家の当主でもなかったら、……単なる森林太郎(りんたろう)なら、愛する人に会えたらどうしたいですか?」

 彼は私の顔を、瞬きもせずじっと見つめていた。


 1903(明治36)年10月17日土曜日、午後2時。

「しかし、森君も生真面目ですね」

 青山御殿の私の居間。いつもの医科分科会が始まったとたん、東京女医学校で講師を務めているベルツ先生が呟いた。

「確かに」

 それに答えたのは、東京帝大内科学教授の三浦(みうら)謹之助(きんのすけ)先生だ。

「ノーベル賞の授賞式に出るために、軍医学校の校長を休職するということですか……増宮殿下、何かご存じですか?」

 一昨年ノーベル賞を受賞した、国立医科学研究所・通称“医科研”の所長、北里柴三郎先生が、上座にいる私に質問した。

「多分、先生方と同じ程度の事情しか知らないですよ」

 私は答えるとため息をついた。「スウェーデンに行ったら、諸々の行事を含めると、半年ぐらい日本から離れないといけないからって……」

「それで、“増宮殿下に対して申し訳ないから休職する”ですか」

 ベルツ先生がそう言って苦笑する。「気にしなくてもいいのではないかと思いますがね」

「私もそう、森先生に言ったんです。そうしたら森先生に怒られました。“校長が数ヶ月不在になったことで、増宮さまの軍医としての教育に行き届かない点が出てしまったら、将来苦労されるのは増宮さまです!”って」

「確かに……その通りですな」

 北里先生も苦笑しながら頷いた。

「ええ、だから、森先生がいない間、私も軍医学校での勉強を頑張ろうと思うんです。と言っても、大半は実習と軍事訓練ですけど」

 私が一同にこう言うと、

「ふふ、森君が戻った時が楽しみですね、殿下」

ベルツ先生がニッコリ笑った。

 ……そして、医学に関する話題を交換し合って、ベルツ先生たちが居間から退出した後。

「さて……森先生の事情、ベルツ先生たちに悟られずに済んだかな?」

 医科分科会の初めから終わりまで、ずっと私の隣で静かに座っていた我が臣下に、私は尋ねた。

「ええ。完璧です」

 黒いフロックコートを着た大山さんは、私に向かってニッコリ笑った。

 実は、場合によっては、森先生は軍医学校の校長職を休職するどころか、予備役に入る。更には、日本の国籍を捨てる可能性も、二度と日本の土を踏まない可能性もあるのだ。

 ノーベル賞受賞の知らせが届いた翌日、

――仰せの通り、エリーゼと会って話をしてきます。

問答の末、森先生は私にこう答えた。

――エリーゼがもし、あの時の不甲斐ない、クズな私を許してくれるのであるならば、今度こそ、たとえすべてを捨ててでも添い遂げたいと……そう思います。

 森先生は目を潤ませながら、しかしハッキリと、私に言ったのだ。

 そして、ここから先は、梨花会の面々の力を借りることになった。

 エリーゼさんがもし日本に帰化しないのであれば、現役の軍医である森先生は、“外国人との婚姻を許さず”という国軍の結婚条例に、エリーゼさんとの結婚を阻まれる。その場合は、森先生は退役することになるのだけれど、退役の手続きをドイツの日本公使館でも進められるように、山本さんと陸奥さんが特別に取り計らってくれることになった。

 問題は、森先生とエリーゼさんが結婚して、2人で日本に住むことを選択する場合だ。エリーゼさんは過去に日本に来て、森先生の親類や友人たちに説得されてドイツに追い返されたことがある。今度も同じことが起こらないとは限らない。そう心配していたら、

――その時は、私が隠居すればいいのです。森家の戸主の地位を長男に譲って、私が森家の戸籍から出ます。

と森先生は私に答えた。

 この時代の“家”と呼ばれるものは、“戸主”と“家族”で成り立っている。“戸主”の地位を退くには、隠居をしなければならない。普通は、60歳以上でないと隠居ができないのだけれど、それ相応の理由があると裁判所で認められれば、60歳にならなくても隠居が出来る。これを“特別隠居”と呼ぶ。

――必要ならば、仮病でも使って、特別隠居をすればいいのです。そうすれば、森家の戸籍から出られます。外国人と結婚した変わり者、母の方でも私を追うことはありますまい。

――それか……私も令旨を出せばいいかしら。“森先生はエリーゼさんと結婚すること”って……。

――ああ、その保証があれば大変ありがたいです。

 私の言葉に森先生は微笑んだ。

 そうして、一昨日の木曜日、私は森先生にお別れの挨拶を済ませた。森先生がドイツで暮らすなら、私と森先生は、もう二度と会えなくなるかもしれない。そう思いながら、私は森先生に深々と頭を下げたのだった。

「“戸主という制度は、いずれは無くなっていく制度かもしれません”って山田さんは言ってたけど……どうするかな、森先生とエリーゼさんは。ビタミンの研究は(はた)先生に引き継いでいたから、研究が進まないということはないけれど、森先生がドイツに住んじゃったら、頭脳流出ってことになるよなぁ……」

 私がため息をつくと、

「何、その時は、森先生に院に入っていただきます」

大山さんは澄ました顔で言った。

「へ?」

「今までも、中央情報院では、各国の情報収集・分析を行っておりましたが、その一環で、欧米の進んだ科学技術の機密情報も探っているのです。もし、森先生がドイツに住むことを選択した場合は、技術情報の取得の部分でお手伝いいただこうかと」

(うわー……)

 つまり、森先生を産業スパイのようなものに仕立て上げる、ということなのだろうか。どうやら、事態がどう転んでも、日本の医療や産業の発展には問題はないらしい。

 と、

「しかし、“私はもう、どう頑張ったって、好きな人に会うことはできない。森先生がうらやましい”……ですか」

突然、大山さんはこんなことを言った。

「なっ?!」

 私は目を丸くした。それはまさしく、あの時、森先生に叩きつけた言葉だ。

「ご自分のお気持ちに素直なお言葉で、大変によろしいと思います」

 微笑み続ける我が臣下に、

「聞いてたの、あなた?!私と森先生の会話を……」

私は慌てて問い質した。「聞いてたなら、助けに来てくれれば良かったのに!私、慣れない話をしてたし、おまけにフラッシュバックが起こったし、大変だったんだよ?!」

「それでも、ご自身の力で立ち直られたではないですか。それに、あのような時に助けに入るのはご夫君と、昔から相場が決まっております」

「夫君って、あなた……」

 私はうつむいた。「恒久殿下が相手なんてまっぴらごめんだし、それに、私と結婚してくれる変な人がいたとしても、その人とフリードリヒ殿下のことを比べちゃうよ……」

「そのようなこともあるでしょうし、ある時、ふと比べなくなることもあります」

 大山さんは優しい声で私に語り掛ける。「簡単なのは、フリードリヒ殿下を超えるお方に、梨花さまのご夫君になっていただくことですが」

「フリードリヒ殿下を超える……」

 私は慌てて首を左右に振った。

(そんな人って、いるのかな……)

 見た目のカッコよさは求めない。ただ、優しくて、頼れる人ならいいなと思うけれど……。

「ところで梨花さま」

 突然、大山さんが私の手を取った。

「先ほど、ご夫君について、“私と結婚してくれる”……どんな方とおっしゃいましたか?」

「私と結婚してくれる変な人、って言ったけれど……」

 すると、

「よろしくありませんね」

大山さんの目が鋭くなった。

「へ?」

「ご結婚のお相手を“変な”などと蔑まれるのは、ご自身を不必要に卑下なさっていることの現れ。つまり、ご自身を傷付けられていることになります。(おい)は悲しゅうございます」

「い、いや、ちょっと待ってよ、大山さん!」

 私は慌てて叫んだ。「冷静に考えなさいよ!日本で初めての女性軍人になろうとしてて、お城巡りが趣味で医者の仕事が好きで……見た目は確かにいいかもしれないけど、私、男性がドン引きする要素しか持ってないじゃないの!」

「仕事もご趣味も、広い心で受け止めればよいだけでございます。仕事やご趣味を妨げるような相手と一緒になるのは、互いにとって不幸なだけですから。……どうやら、梨花さまにはご教育が必要なようです」

「そ、それはやめて……」

 振りほどこうとした手はガッチリと掴まれ、次の瞬間、身体もしっかりと我が臣下に抱き締められてしまう。私は完全に逃げられなくなってしまった。

「梨花さま。美しくてお優しい梨花さまなら、(おい)の言葉を聞いて下さいますよね?」

 むず痒いけれど、どこか優しく甘美な囁きが、私の耳に流し込まれる。

(Nooooooo!)

 こうして夕食の時間まで、私は大山さんに“自分を大切にするためのご教育”をたっぷりとされてしまい、

(ふみ)姉上、大丈夫?!顔が真っ赤だよ!」

夕食の席で、弟の輝仁(てるひと)さまにめちゃくちゃ心配されてしまったのだった。


 そして、1903(明治36)年10月20日火曜日。

 ロシアの首都・サンクトペテルブルクで諜報活動を行っていた中央情報院の職員から、日本に急報がもたらされた。


「ロシア太平洋艦隊の司令長官に、エヴゲーニイ・イヴァーノヴィチ・アレクセーエフが任命される」

 

 思えばこれが、極東に巻き起こった嵐の前触れだった――。

※この時代の家制度と戸主、そして隠居については非常に大雑把に説明しています。間違っているところもあるかもしれません。ご了承ください。


※なお、念のためお断りしておきますが、森先生とエリーゼさんの進展度合いについては、お話の都合上設定したものです。

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