ノーベル賞の行方(1)
1903(明治36)年10月1日木曜日、午後4時。
「よくなってきたではありませんか」
京橋区築地四丁目にある国軍軍医学校。軍事訓練を終え、ヘロヘロになりながら玄関を入る私の横から、新島八重さんが声を掛けた。
「あ、はい……」
ものすごく緊迫した状態で訓練していたので、緊張が解けた今、頭がぼーっとしている。私は反射的に返事をすると、大きく深呼吸をした。
軍医学校での生活も2年目になった。9月からはカリキュラムが変更され、月・水・金曜日は国軍病院での実習、火・木曜日は軍事訓練、土曜日は軍事関係の座学の授業を受けている。
今の軍事訓練の科目は、馬術と射撃訓練だ。現在の国軍の人事システムでは、軍医学校を卒業すると軍医少尉に任命される。少尉以上の階級の人は、万が一、自分が陸上で兵卒を指揮する場合に備え、どの兵科に属していても馬に乗れるようになっておくこと、という規則がある。そして、女性の場合は、“スカート着用の際は横乗りで、ズボン着用の際は跨って馬に乗ること”と定められた。横乗りは昔から大山さんに習っているけれど、自分だけで馬に跨って乗ったことは無い。だから、跨って乗る方は一から教わらなければならないのだ。
射撃の方は、9月から国軍看護学校に入学した新島さんと合同で訓練しているのだけれど……。
――殿下、姿勢が良くありません!
――あー、銃口がぶれている!これでは弾が的に当たりませぬ!
新島さんが、なぜか私を指導する側に回っている。いや、確かに新島さんは戊辰戦争の時、敵をスペンサー銃で狙撃しまくっただけあって、銃の形が変わっても、非常に射撃が上手いのだ。けれど、自分より目上であるはずの教官を押しのけて私を指導するのは、命令系統上、ちょっとよろしくないと思う。教官も新島さんに注意すればいいのに、新島さんの迫力に押されて、全く反論できない。そして私は射撃訓練の度、新島さんの地獄のような特訓を受ける羽目になったのだ。
(でもまぁ、良くなってきたんなら、この地獄も終わる……)
疲れた頭でぼんやり考えていると、
「ここまで出来が良いと、ますます鍛えたくなってしまいます」
迷彩服を着た新島さんが、ニッコリ笑ってこう言った。
(おう……)
軽く眩暈がして、倒れそうになったところを、私は慌てて踏みとどまった。どうやら新島さん、梨花会の面々と同じような思考回路をしているらしい。
「あ、あははは……」
どう返事したらよいか分からず、曖昧に笑っていると、前方に人影があるのに気が付いた。軍医学校の校長の森先生だ。気のせいだろうか、ぼんやりしているように思える。
「校長先生」
とりあえず呼んでみると、
「あ、ああ、増宮さま」
森先生が弾かれたように動いた。
「森先生、どうしました?なんだか、ぼーっとしていたので……」
私は新島さんのそばを離れ、森先生に歩み寄った。森先生の顔は、少し青ざめているようにも思える。
(体調が悪いのかな……)
私が眉をしかめた瞬間、
「実は、先ほど、この電報が届けられまして……」
森先生が手にしている何枚かの紙を私に見せた。電報用紙のようだ。許可をもらって中身を見ると、差出人はスウェーデンのカロリンスカ研究所になっている。
(これ、今日は10月1日だし……まさか?!)
逸る気持ちを抑えながら、文章を確認していく。やはり、予感した通り、電報の内容は、“貴殿にノーベル生理学・医学賞を授与する。ついては12月10日にストックホルムで行われる授賞式に出席されたし”……森先生が、第3回のノーベル生理学・医学賞を受賞したという知らせだった。
「すごいじゃないですか!おめでとうございます、先生!」
一昨年の北里先生・村岡先生・島津さん、そして去年の緒方先生に続き、日本人が3年連続でノーベル賞を受賞するという快挙だ。医科分科会の皆と一緒に、森先生をお祝いしなければならない。
(授賞式前だと、森先生も時間が全然ないだろうから、授賞式が終わって、日本に戻って来てからだな。本当は微行で銀座の西洋料理店に行って、皆に美味しいものを食べてもらいたいけれど、警備の関係があるから、青山御殿で食事会にするしかないかなぁ……)
頭の中でお祝いの計画を立て始めたその時、
「あの……増宮さま」
森先生が私に声を掛けた。
「実は、ノーベル賞は辞退しようかと……」
(え……?)
思いがけない言葉に、頭の中が真っ白になった。
「どうしよう……」
午後7時20分、青山御殿。自分の居間の椅子に腰かけた私は、大きくため息をついた。私の前では黒いフロックコートを着た大山さんが、顔に穏やかな微笑みを湛えている。“大至急、内密に相談したいことがある”と帰宅直後に彼に告げ、夕食後、この部屋に連れ込んだのだ。
「確かに、森先生に研究してもらったビタミンのことは、私の知識をこの時代に還元しようとして始めたことだ」
今日軍医学校であった出来事を一通り話し終えた私は、思うところを我が臣下にぶちまけ始めた。
「けれど、ビタミンAの性質について、ある程度のことは私も知っていたけれど、抽出にリンウォルフラム酸を使うなんて全然知らなかった。ビタミンBの抽出には、私は全然関わってない。ビタミンの抽出過程は、森先生が自力で見つけたに等しいんだ。だから私、森先生には、胸を張ってノーベル賞をもらってきて欲しい」
「ほうほう」
大山さんは、私の話に適度に相槌を打ち、適切に質問を出すことを続けている。暖かくて優しい微笑みが崩れることはない。“どうぞ、お心の内にあるものを、ご遠慮無くお話しください”と、彼は態度で私に伝えてくれている。私は大山さんの望み通り、思うことを洗いざらい彼にぶつけ続けていた。
「もし、森先生が、私の知識を使ったことを気にするんなら、そんなので罪悪感を覚える必要はないんだ。その罪は全部私が背負う。兄上とお父様を守るためなら、私は逆賊とか大悪人って言われても構わない。そう覚悟を決めたんだから。とりあえず、森先生には、“ノーベル賞を辞退すると返事をするのは待ちなさい”と言ったけれど……」
私は、心から信頼する非常に有能で経験豊富な臣下の顔を見た。彼の暖かくて優しい微笑みは変わらない。けれど、その奥にあるものが、いつもと少し違う気がする。慈愛に満ちている、というか、余裕があり過ぎる、というか……。違和感を覚えた私は、
「あの、大山さん?」
彼に呼びかけてみた。
「話、聞いてくれてる……よね?」
「ええ、聞いておりますよ」
大山さんは表情を変えずに、軽く頷いた。
「本当?なんか……ちょっと違う感じがして」
すると、
「ちょっと違う感じ……ですか」
大山さんは、今度は大きく首を縦に振った。
「なるほど。確かに、別の理由を考えておりましたからね」
「別の理由?」
「森先生が、ノーベル賞を辞退すると言った理由ですよ」
大山さんはこう言うと、「お聞きになりたいですか?」と私に問いかけた。
「それはもちろん」
「それでは梨花さま、おそばに寄ってもよろしいでしょうか」
「構わないけれど……」
許可を出すと、大山さんは私の真向かいの席から立ち、私の右隣の椅子へと歩み寄る。そして、椅子をうんと私に寄せると、そのままそこに腰かけた。
「失礼致します」
私の右腕と大山さんの左腕が密着する位置にいる大山さんは、自分の右手で私の右手をそっと取った。
「あの、大山さん?私の手を取って……あなた、一体どうしたの?」
私の質問に、
「準備です」
大山さんはこう答えてほほ笑む。
(なんだ、それ?)
私が眉をしかめると、大山さんは、
「もしかすると、森先生の真意は、“ノーベル賞を受け取りたくない”と言うよりは、“ヨーロッパに行きたくない”という所にあるのではないでしょうか」
と穏やかに語り始めた。
「ヨーロッパに行きたくない?どうして、そんなことを森先生は考えるの?」
「ヨーロッパに行けば、エリーゼ嬢と必ず会うことになるからです」
「エリーゼさんって、森先生がドイツに留学している時に恋に落ちて……」
(森先生が、今でも愛している……)
その先を考えようとした時、身体が少し火照っているのに気が付いた。運動もしていないのに、脈がいつもより速くなっているような……。
と、
「やはり、ですか」
急に、大山さんの左腕が、私の背中に回された。
「以前よりは、少し耐えられるようになってきたように思いますが、恋愛のことは、まだまだ苦手でいらっしゃるようですね」
「そ、そんな急に、恋愛が得意になる訳ないじゃないの……」
“準備”というのは、このことだったのか。私は大山さんに身体を寄せながら、ぼんやりと思った。多分、顔は真っ赤になってしまっているだろう。
「このようなことでは、ご夫君となられる方と、どう会話をなさるのかと、心配になってしまいます」
うつむく私の右手を放すと、大山さんは私の頭をそっと撫でる。
(ふ……夫君なんて、どうやったらできるのよ。恒久殿下と結婚するなんて、まっぴらごめんだし……)
私は大山さんの右肩に顔を埋める。万が一、思いを音声に変えてしまったら、私から臣下への“相談”は、臣下から私への“ご教育”に切り替わってしまう。私はゆっくり大きく呼吸して、乱高下する心を何とか落ち着けた。
「そ、それより、森先生だよ……ノーベル賞の授賞式は、スウェーデンでやるんだよね?」
ようやく口に出せた私の質問に、「もちろんそうです」と大山さんは返答する。
「エリーゼさんがいるのは、ドイツだよ?だから、森先生がヨーロッパに行けば、必ずエリーゼさんと会うとは限らないと思うけれど……」
そう尋ねると、
「梨花さまの知識で、我が国の医学研究の水準もぐんぐんと上がってきておりますが、今の時代、ドイツが世界の医学研究の中心と言っても過言ではありません」
大山さんはこう言った。
「当然、ドイツの医学研究者たちは、自分たちの勉強のために森先生に講演を頼むでしょう。恐らく、森先生がスウェーデンに到着する頃には、ドイツでの講演の依頼が幾つか舞い込んでいると思います。その中には当然、森先生が留学中にお世話になった方々からの講演依頼もあるはず」
「そうなると、森先生も断り切れないね……」
大山さんの右肩に顔を埋めたまま、私は言った。ドイツの医学研究者たちの動きを考えれば、森先生がスウェーデンに行くということは、その時にドイツにも寄るということを意味しているのだ。
「もし、ドイツで森先生とエリーゼ嬢が会ったら、2人はどうなると梨花さまはお考えになりますか?」
「どうなる……」
大山さんの問いに、反射的に頭に思い浮かんだのは……いや、もし本当にそうなったら、一体どうなるんだ?
「いかがなさいました?」
「い、今、“駆け落ち”という不穏な言葉が……」
頭を撫でる大山さんの肩に顔を押し付けながら、私は小さな声で答えた。
(ちょ……そ、それ、ヤバいだろ!)
駆け落ち……となると、森先生は一介の医者として、エリーゼさんとどこかの国で暮らす、ということになるのだろうか。けれど、国際化が進んだ私の時代ならともかく、今の時代で、外国で日本人の医者が生活するというのは……相当目立ってしまう。
「それもあり得ます。しかし、森先生にとって、失うものが多い選択になりますね」
大山さんは私の答えを否定せず、穏やかに付け加える。
「梨花さま、森先生が失うものはなんでしょうか?」
「わ、私、質問されてるの?!」
上ずった声で聞き返すと、大山さんが頷く気配がした。私は彼の肩に顔を押し付けたまま、熱で回転を止めてしまいそうな脳をなだめ、考えを深めていった。
「まず、今日本にいる家族。確か、まだ成人してない息子さんがいたよね?」
「そうですね。その他には?」
「それから……、日本の軍医としての安定した地位と収入。ノーベル賞受賞者としての名声も、捨てることになるのかな」
「森家の当主、戸主としての地位も捨てることになりますね」
大山さんの指摘に、
(ああ、そっか……)
私は軽く頷いた。未来に生きた記憶があるからか、この時代の“家”という概念にはまだ慣れないところがある。
「では、質問を変えましょう。森先生がエリーゼ嬢と駆け落ちをしない場合は、どうなるでしょうか?」
「話し合った末に、結婚しない、一緒には暮らさない、っていう選択を取ることもあり得るよね……」
「ええ、2人とも、色々な経験を重ねているはずです。熟慮した末に別離を選ぶという可能性も十分にあります」
大山さんが私の頭を優しく撫でながら言った。
「森先生のお母さんや親族が、エリーゼさんとの結婚に反対する可能性も高いもんね……」
「押し切って結婚することは可能でしょうが、もし2人が日本で結婚して暮らすことを選んだ場合、エリーゼ嬢が日本に帰化するか、森先生が国軍から身を引くか、どちらかをしなければなりません」
「森先生が、軍医学校の校長先生じゃなくなる可能性もあるということね。それに、爵位も受けられないかも……」
私は大山さんの示した答えに、必死についていく。今まで、ノーベル賞を受賞した日本人には、爵位が授けられている。去年ノーベル賞を受賞した東京帝大の緒方先生も、授賞式を終えて日本に帰国した後、男爵に列せられた。ただ、森先生がもし、エリーゼさんと結婚することを選ぶなら、大衆の好奇の視線にさらされるだろう。かつて来日したエリーゼさんが、森先生の親戚や友人たちに追い返されたことなどを蒸し返されて、エリーゼさんとの結婚がスキャンダル扱いされ、爵位が授けられない可能性もある。
「2人が結婚するなら、ドイツで暮らすのが一番安全そうだけれど……。ああ、その場合は、森先生が国軍をやめるのは絶対だし、第一、日本の医学研究を担える人材が減ることになる。日本で暮らすにしても、エリーゼさんと森先生の家族との関係はどうなるんだとか、色々考えることが……。ああ、これ、進むのも地獄、退くのも地獄だ……」
脳みそを何とか動かしながら、口を動かしていると、大山さんが私の頭をあやすようにそっと叩いた。
「まぁ、そのあたりは、どうとでもなります」
「そ、……そうなの?」
「ええ、俺も、しがらみを壊しながら結婚しましたから」
(そういえば、そうか……)
昔、伊藤さんから聞いた、大山さんと捨松さんの馴れ初めを思い出した。大山さんは捨松さんに一目ぼれをして、すぐさま捨松さんの兄・山川浩さんに、捨松さんとの結婚の許可を求めた。山川浩さんは、戊辰戦争で若松城が攻撃を受けた時、籠城側の一員として新政府軍と戦っている。当然、“薩摩の者に可愛い妹をやれるかぁ!”と彼は即座に縁談を蹴った。そこに山川さんの上司だった西郷さんが説得を重ね、何とか結婚にこぎつけたのだそうだ。
「ってことは、あとは森先生とエリーゼさんの気持ち次第、ってことか……」
「そうなりますね」
大山さんは、私の頭をなで続けている。その手のひらの暖かさを感じていると、あちこち跳ねて駆け回っていた心が、あるべき場所に戻っていった。
「もし、森先生に何のしがらみも無いなら、愛している人に会えたら、どうするんだろう……」
大山さんの右肩に顔を埋めたまま、私は疑問に思ったことを呟いた。
森先生のドイツでの留学中にあった出来事、そしてその時の森先生の心情は、森先生がかつて出版した『水沫集』に収められた小説、『舞姫』に記されているのだろう。それは、その本を読んだ私と兄が、以前抱いた感想だった。
(だけどさぁ、今なら多少は理解するけど、主人公の男……)
あの時の思いが頭に甦った時、
「では、明日にでも、梨花さまが森先生に直接お聞きになってはいかがですか?」
思いもよらないことを、我が臣下は口にした。
「はぁ?!あなた、正気?!そんなことしたら、話の展開によっては、私、思考停止して動けなくなっちゃうわよ!」
少しだけ肩から顔を上げて抗議すると、
「これも、新時代の淑女になるための、御修業の一貫でございます」
大山さんはニッコリ笑った。
「ノーベル賞の授賞式に出席するのなら、余り猶予がございません。早く森先生の真意を問い質すべきでしょう」
「で、でも、明日は病院実習があるから、森先生に会う時間は無いよ……?」
とっさに逃げを打つと、
「おや、梨花さまは国軍の一員であらせられますのに、与えられた任務からお逃げになりますか」
我が臣下は挑発するように言った。
「そ、そんなつもり、ないけど……」
「時間などいくらでも作れますのに、言い訳をなさるとは……淑女らしからぬお振舞いです」
(くっ……)
確かに、彼の言う通り。どうやら、私の逃げ道は完全に塞がれてしまったようだ。
「……分かったわよ。聞けばいいんでしょ、聞けば」
ため息をつきながら答えると、
「ええ、分かっておられるではないですか」
大山さんが私の頭をそっと撫でる。
「もう……大山さんの馬鹿……」
私はまた熱くなってしまった顔を、大山さんの肩に押し付けた。




