火薬庫の事情
※文中、初めての試みですがマウス書きの地図を入れました。作者の持つ技術ではこれが限界でした……。お見苦しいですがご勘弁ください。
1903(明治36)年9月12日土曜日、午後1時30分。
少し遅めの昼食を終え、大山さんと一緒に食堂でお茶を飲んでいると、「失礼致します」と若い男性の緊張した声が聞こえた。
「ああ、東條さん」
食堂は広く、私の座っている場所から入り口までは、15m以上離れている。千夏さんだったら、遠慮なく食堂に入り、私に手が届く距離までやってきてくれるのに、入り口の扉を開けた東條英機さんは、食堂の中には足を踏み入れようとせず、強張った顔を私に向けた。
「ま、増宮殿下、に、日曜日は、その……応急処置をしていただいた上に、俺を帝大病院まで運んでいただいて、ありがとうございました」
最敬礼した東條さんに、
「どういたしまして」
(やっと普通に話してくれたよ……)
私はホッとしながら答えた。
あの時、落とし穴に落ちてしまった東條さんは、なかなか地面に上がって来なかった。落とし穴の深さは60㎝程度だったのに、である。
――ちょうどよかった。千夏、あの男を捕まえて来ます!
意気揚々と落とし穴の方に走っていった千夏さんが、
――宮さま!こちらにおいでいただけますか?!
切羽詰まった声で叫んだので、私が落とし穴まで走っていくと、穴の中では、上半身を起こした東條さんが、左の足首を押さえて顔をしかめていた。
――東條さん、左足をひねったの?!
尋ねると、東條さんは顔を引きつらせて、壊れた人形のように首をガクガクと縦に振った。
――千夏さん、東條さんを穴から上げてください。捻挫か……もしかしたら、骨折してるかもしれません。
――はいです!
……そこからは大騒ぎだった。私から逃げ出そうとする東條さんを千夏さんが押さえつける、駆けつけてきた大山さんたちに帝大病院への連絡をお願いする、大至急準備してもらった包帯や副木、氷嚢などを使って、私が東條さんの左足首の関節を固定・圧迫して冷却する、さらには左のつま先をうんと持ち上げて、何枚も積み重ねた座布団の上に置く……私の時代で言う「安静(Rest)・冷却(Ice)・圧迫(Compression)・挙上(Elevation)」の「RICE処置」を完成させたところで、ちょうど馬車の準備が完了し、外した戸板に東條さんを寝かせて馬車まで運び、帝大病院に搬送した。本当にてんやわんやの騒動だったのだ。
「エックス線検査で骨折が無かったから、本当によかったです。だけど東條さん、歩いても大丈夫なんですか?」
私の質問に、
「はい、サリチル酸メチルの軟膏を処方していただいたので」
東條さんは顔を強張らせたまま答える。これは、アセチルサリチル酸を合成してもらった長井長義先生にお願いして数年前に実用化した、消炎鎮痛作用のある軟膏だ。
「余り無理しないでくださいね、東條さん。掛ける負荷の量は、少しずつ増やしてください」
「はい、ありがとうございます」
一礼すると、東條さんはすぐに扉の向こうに姿を隠す。そのとたんに、「やっと宮さまにお礼が言えたんですね」と、千夏さんの呆れ声が廊下から聞こえた。
「え、榎戸さん。言えたのですから、そのように睨み付けないでください」
「ダメです。あなたが素晴らしい宮さまを怖がらなくなるまで、千夏がしっかりと指導します。それに、あなたにまだ無理をさせないように、宮さまから言いつけられていますし」
「それをなぜ、襟首を掴みながらおっしゃるのですか?!」
「あなたが急に逃げ出して、傷めた足首に負担を掛けないようにするためです。さぁ、行きますよ」
「は、はい……」
東條さんと千夏さんの話し声が遠ざかって聞こえなくなると、
「東條さんが私にもっと近づけるようになるといいんだけど」
私はため息をつきながら言った。
「あれじゃ、剣道の練習相手にならないよ」
「向かい合った瞬間に、東條君が逃げてしまいますな」
大山さんが苦笑しながら私に答える。宮内省の職員は、万が一の時に皇族を守れるように、採用選考の際に、何かしらの武術の実技試験が課される。東條さんも剣道をやっていて、私と同じくらいの腕前らしい。だから、剣道の練習相手にちょうどいいと思ったのだけれど、今の状態では、私の稽古の相手をするのは難しい。
「いつ東條さんと、剣道の稽古が出来るようになるかな?」
「住み込みにしておりますから、意外と早く梨花さまに慣れるのではないでしょうか」
大山さんはそう言って微笑する。新入職員なので、東條さんはこの青山御殿の一室を与えられ、そこで寝起きすることになった。千夏さんと一緒の状況である。ちなみに、後輩が出来た千夏さんに、“この機会に、住み込むのをやめる方が、身体にはいいのではないか”と提案したのだけれど、“趣味の活動に都合が悪くなるので、今のまま宮さまのおそばで暮らしたいです”と断られてしまった。千夏さんの趣味……ここで働いている人たちのプライベートには立ち入りたくないから詮索はしないけれど、休みの日はほとんど部屋に籠っているようだから、恐らくインドア系の趣味なのだろう。まぁ、彼女が青山御殿に住むことが苦痛でないのであれば、このまま住み込んでもらうのは構わない。
と、
「ところで梨花さま、そろそろ、参内のお時間です」
時計を見た大山さんが言った。
「そうだね」
私は手にした湯呑を机の上に置いた。今日は月に一度、兄と私も参加する梨花会が皇居で行われる日だ。だから今日は、軍医学校から帰っても、制服を着たままだった。流石に少し暑いので、白いジャケットは脱がせてもらって、白い半袖のブラウスで過ごしているけれど、皇居に着いたらジャケットも羽織らなければならない。
「じゃあ、行きましょうか。大山さん、エスコートをお願いしてもいい?」
「御意に」
立ち上がって右手を差し伸べると、大山さんがいつものように、そっと右手を取ってくれた。
午後2時20分、皇居内の会議室。
「以上が、明石君からの報告になります」
私の隣に座っている大山さんが一礼すると、集まった梨花会の面々からは「おお……」とどよめきが漏れた。
「明石君、流石ですね。成し遂げるのは困難かと思いましたが」
外務大臣の陸奥さんが微笑してあごひげを撫でると、
「特殊部隊や小型機関銃の有用性が証明されましたな。増宮さまのおかげでございます」
国軍大臣の山本さんが満足げに頷く。
「国軍合同の時に特殊部隊を作るという話を聞いた時は、一体何をするのか分からなかったのですが……こういうことでしたか」
「いや、私が前世の父に見させられていた映画で見聞きした怪しい知識が元になっているので、こんな使い方が実際に正しいか、わからないんですけどね……」
ため息をつく斎藤さんに答えながら、私は大山さんの話を元に今作ったメモを見返していた。カタカナが多いせいなのか、今までの経緯やこれからの計画が煩雑に見える。そもそも、東アジアの情勢だけでも“史実”とは違ってきて混乱しそうなのに、突然ヨーロッパの話をされているので、頭が破裂してしまいそうである。
「なかなかややこしいですね。頭が混乱してしまいそうです」
上座で報告を聞いていたお母様が頭を軽く横に振る。
「朕もだ。どうやら章子もそうらしいな」
お父様は苦笑いを浮かべながら私の方を見やると、
「嘉仁はどうだ?」
と兄に視線を投げた。
「何とか……」
難しい顔をして呟く紺色のフロックコートを着た兄に、
「それでは皇太子殿下」
ニヤリと笑いかけたのは、東宮大夫兼東宮武官長の児玉さんである。
「今回の明石の行動の目的を、我々や増宮さま、天皇陛下と皇后陛下に分かるようにご説明をお願いします」
「本当に卿らは、わたしを鍛えることを忘れないな」
兄は軽くため息をつくと、私に向き直って、
「1914年……今から約10年後に、“史実”では第1次世界大戦が起きると梨花は言っていたな?」
と確認した。
「うん」
「4年ほど続いた戦争で、1600から1800万の人間が死ぬ。各国の戦費は莫大に膨れ上がり、ロシアでは共産主義革命が起き、ドイツとオーストリアで帝政が倒れ、被害の比較的少なかった我が国でも、シベリアに出兵した影響も相まって、物価の上昇を誘発して米騒動が起きた」
「プラスして、戦争の終盤から世界各地でスペインかぜが流行したから、それも含めると、下手すると世界で1億人が死んだかもしれない」
前世で聞きかじった話と、実際に“史実”でスペインかぜの流行に遭遇した記憶のある原さんと斎藤さんの話を合わせて考えると、どうも、第1次世界大戦に伴う兵士たちの移動に伴って、スペイン風邪の流行が拡大したのではないかと思える節があるのだ。1500万から1億人と、スペイン風邪での全世界の死者数は資料によって幅があるけれど、流行は防げないにしろ、せめて、世界が平和な時に流行してくれた方が、まだ対応がしやすいはずだ。
「そうだな。戦争は社会の変動も誘発する。スペインかぜも、その戦争の落とし子かもしれんが……梨花、そもそも、この第1次世界大戦は、何がきっかけになって起こった?」
「サラエボ事件。ボスニア・ヘルツェコビナにあるサラエボという町を訪問していた、オーストリアのフランツ殿下夫妻が、反オーストリア秘密結社に所属しているセルビア人に殺害される。それで、オーストリアがセルビアに宣戦布告して、それをきっかけにヨーロッパの国々が次々に参戦した……」
「その通りだ。ここで、今回仕掛けをしたセルビアが出てくるわけだな」
兄が深く頷いた。
セルビア王国のあるバルカン半島には、様々な民族が居住している。バルカン半島は18世紀末まではオスマン帝国領だったけれど、オスマン帝国が何度かの戦争を経て弱体化するにつれ、いくつかの民族が独立国家を形成した。1903年9月の現在では、ギリシャ、セルビア、モンテネグロ、ルーマニア、ブルガリアがバルカン半島内の独立国家として存在している。ちなみに、ボスニア・ヘルツェコビナにも自治権が与えられているけれど、現在は実質的にはオーストリアが支配しているそうだ。
と、
「梨花」
兄が私を呼んだ。
「いい機会だ。そこの黒板に、バルカン半島にある国の地図を描いてみろ」
「はい?!」
「図がある方が、少しはお父様たちにも分かりやすくなるだろう」
「兄上が描けばいいじゃない」
「俺は説明しなければならないからな」
私の抗議もどこ吹く風、兄はちょっと偉そうにこんなことを言う。気が付くと、一同が期待するような視線を私に送っている。お父様もお母様もだ。
「……しょうがないわね」
私は椅子から立ち上がり、会議室の横手に置いてある黒板に向かった。私が転生したと分かった直後の“授業”で黒板を使ったこともあって、この会議室の壁には、黒板が設置されている。私はその前に立って、うろ覚えの知識を必死に思い出しながら、現時点でのバルカン半島の地図を描いた。分かりやすいように、後で紙に清書した時に色鉛筆で色を付けたら、こんな図になった。
「まぁ、何とか分かりますね」
描き終えて白墨を置くと、陸奥さんが図を見ながら頷いているのが視界に入った。「海岸線や国々の面積が滅茶苦茶ですが。しかも、イタリアはどうなっているのですか?」
「イタリアは省略したんです。今回の話には関係ないと思ったので」
「ふん、まぁいいでしょう。しかし、“この辺がサラエボ?”というのは、一体どういうことですか?」
「ボスニア・ヘルツェコビナのどこらへんにあるか、分からなかったからですよ!もう、そんなにツッコむんだったら、陸奥さんが描けばよかったじゃないですか!」
「お断りします。殿下の勉強になりませんからね」
陸奥さんは私を見ながら、ニヤニヤ笑っている。日曜日に見せた、孫を溺愛するおじさまの顔は、どこかに行ってしまったようだ。
(本当、手厳しいなぁ……)
誰かに助けて欲しいなぁと思って辺りを見回すと、会議に出席している一同は、何かを懐かしむような暖かい視線を私に送り、しきりに頷いていた。
「いやぁ、増宮さまが最初に“授業”をなさったときを思い出しますなぁ。あの時は黒板の上の方には背が届かず、堀河どのに抱かれておりました」
「ああ、俊輔。あの頃から、増宮さまは本当にお可愛らしくてお美しかった……」
内閣総理大臣の伊藤さんと枢密院議長の山縣さんがこう言い合えば、
「あの時抱かせていただいた感触は、未だにこの腕に残っております。いやはや、ご立派に成長なさった」
「学問に武道に医術。そしてその輝くばかりの美貌。増宮さまは世界でも類を見ない素晴らしい姫君にご成長あそばされました」
内務大臣の黒田さんと、前司法大臣の山田さんもしみじみと呟いている。
「軍医学校の制服姿もお似合いで……」
「いや、やはりドレスですよ」
「和服姿も捨てがたい……」
思い出話から、次第にあさっての方向に話が飛んでいく一同に、
「梨花が美しくて素晴らしいのは分かるがな……説明させてくれないか、卿ら……」
兄がため息をつきながら言う。全員慌てて兄に頭を下げると、会議室には静けさが戻った。
「サラエボのあるボスニア・ヘルツェゴビナの住民は、セルビア人がほとんどだ。だから、セルビアの軍人たちは、ボスニア・ヘルツェコビナをセルビアに併合したいと願っている。ところが、“史実”では今から4年後に、オーストリアがボスニア・ヘルツェコビナを併合してしまったから、セルビアの軍人の怒りが爆発し、数年後のサラエボ事件につながったわけだ」
兄は一つ咳ばらいをすると、再び説明を始めた。
「この時の流れでも、ボスニア・ヘルツェコビナをセルビアに併合したいというセルビア軍人の願いは同じだ。その併合のためには、彼の地を実質的に支配しているオーストリアを打ち負かさなければならない。しかし自分たち単独ではそれが難しいから、ロシアの軍事力を借りたいと考えている。ところが、セルビアの国王はオーストリアよりの政策を取り、憲法を廃止するなどやりたい放題。おまけに離婚歴のある元女官との結婚を強行して、国民からの人気も地に落ちている」
「それで、“史実”ではこの局面で、セルビアの軍人さんたちがクーデターを起こして、セルビアの国王夫妻を暗殺しちゃったんだっけ。状況だけ聞かされると、これは軍人さんがクーデターを起こしたら成功しそうだよね……」
そのクーデターのことは、斎藤さんに聞いて知った。バルカン半島については、本当に最低限のことしか知らなかったので、斎藤さんから話を初めて聞いた時は、バルカン半島で発生した事件が余りにも多すぎて、頭が痛くなったのだけれど……。
「そのクーデターを明石大佐は潰したわけだ。セルビアの内閣に、軍人たちのクーデターの情報を流してな。そして、内閣は国王に改革を促した。別個に立てられていた王妃による国王暗殺計画を、明石大佐が掴んで内閣に流したがために、王妃が処刑されたのは幸運だったな。王妃が消えれば、少なくとも国王の不人気の原因は無くなるから」
「うーん、けど兄上、今回のクーデターを潰すことと、第1次世界大戦との間に、どういう関係があるの?」
私は眉をしかめながら質問した。一度話は聞いたのだけれど、聞きなれない人名のせいで、話が少し抜けてしまった。ええと……誰だっけ……。
「うん、一つには、クーデターを計画している軍人の中に、“史実”でサラエボ事件の黒幕になった男がいることだ。それは先ほど、大山大将も“殺した”と明言していたが」
「えーと、……確か、何とかビッチさんだっけ」
首を傾げながら答えた私に、
「ドラグーディン・ディミトリエビッチですね」
大山さんが苦笑しながら補足する。「“史実”では、サラエボ事件の黒幕になります。犯人が所属していた反オーストリア秘密結社の“黒手組”の首領となったドラグーディン・ディミトリエビッチが、フランツ殿下を暗殺するために犯人をサラエボに派遣したのです」
「それはわたしが説明したかったのだがな」
兄が不満そうな表情を見せる。
「でも、そのディミトリエビッチさんを殺しても、第2・第3のディミトリエビッチさんが出て来たら、やっぱりサラエボ事件が起こっちゃうよ?それはどうするの?」
私が納得いかなかったのはその点だった。“史実”の暗殺の黒幕を殺したとしても、セルビア国内の状況や周辺国の情勢が変わらなければ、セルビア国内では、再び反オーストリア勢力が育ってしまうだろう。
すると、
「だからこそ、セルビアの状況を変える手を打っておりますよ、増宮さま」
話に割り込んできたのは内閣総理大臣の伊藤さんだった。
「憲法を復活させ、セルビアを立憲君主制に近づける。王妃が処刑されるというおまけがついたので、国王陛下がまともになれば、セルビア国民は国王陛下に付いて行くでしょう」
「それだけではないだろう、伊藤総理」
いらだちの色を濃くした兄が、やや尖った声で言った。「セルビアの国家財政はボロボロになってしまっている。財政や経済の不安は、国民の不安を煽り立てる。そちらに対しても手を打たなければいけないから、セルビアの地下資源を使って、工業化を促進し、セルビアの経済状況を改善していき、国民の不安を鎮める。それをもって、ボスニア・ヘルツェコビナを併合するといういたずらな領土拡大論を鎮静化させる。そうすれば、オーストリア寄りの政策を取る国王陛下のもと、オーストリアに対する過激派も消えていく、という訳だ」
すると、
「水力発電も工業化の動力に使えますよ、皇太子殿下。セルビアは、水力発電に適した地形ですから」
前農商務大臣の井上さんがニヤッと笑った。
「むぅ……まだわたしは、卿らには届かぬか……」
「ええ所まで出来ましたよ」
実に悔しそうにつぶやいた兄に、三条さんが優しく声を掛ける。「相手が普通の官僚やったら、満点を差し上げてました。せやけど、わしらは欲張りでして……ついつい、皇太子殿下に対しては、もっと鍛えて、もっと出来るようになっていただきたいなぁ、って思ってしまうんですわ」
「本当に容赦がないな、卿らは……」
兄がため息をついたと同時に、私も大きく肩を落とす。やっぱり、梨花会の面々は恐ろしい。けれど、もっと修業して追いついて、上医を目指さなければいけない。
「あくまで、机上の空論ではあります。しかし、少しでも“ヨーロッパの火薬庫”の火薬の量を減らせれば、第1次世界大戦が発生する危険も減る訳です」
伊藤さんが珍しく、重々しい口調で言う。“ヨーロッパの火薬庫”。様々な民族が居住し、更に列強の思惑が絡み合う、“史実”での第1次世界大戦前のバルカン半島情勢を指して、こう呼ぶことがある。確かに、対立の種が一つ減れば、火薬庫の中の火薬は減るけれど……。
「おや、増宮殿下、何がご心配ですか?」
気が付くと、陸奥さんが私に鋭い視線を投げていた。
「ロシアですよ」
顔には出さないように頑張っていたけれど、やはり陸奥さんの眼は誤魔化せない。私は素直に答えた。「ロシアが不凍港を求めて、バルカン半島に勢力を伸ばす可能性は十分にあります。そうすれば、セルビアに介入してくる危険だってあります。いや、セルビアだけじゃない、ブルガリアとかルーマニアとか、他のバルカン半島の国に手を出す可能性も……」
そこまで言って、私は首を左右に軽く振った。
「ごめんなさい。今のロシアの状況でその可能性は低いですね。プレーヴェさんは、“朝鮮に進出せよ”という機運をロシア国内で作り上げてる。流石にバルカン半島と朝鮮、2方向で作戦をするのは、愚かでなければ無いでしょう。けれど、朝鮮が安全ならバルカン半島が怪しい、バルカン半島が安全なら朝鮮が怪しい……本当、世界って繋がっていますね。視野を広くしなきゃ」
「ロシアの指導者が愚か者だという可能性もありますが、ほぼ満点を差し上げてもいいでしょう」
陸奥さんが軽く頷いた。「いずれにしろ、破局的な局面に陥らないように、中央情報院とともに表裏両面から工作はしていく所存です」
「破局が訪れても、素早くカタを付けなければのう」
迪宮さまと淳宮さまの輔導主任である西郷さんが、のんびり呟いた。
「ええ、第1次世界大戦のような総力戦など、財政的には愚の骨頂ですからな」
大蔵大臣の松方さんの重々しい発言に、大蔵次官の高橋さんが頻りに頷く。
「まぁ、まずは戦を回避する努力を怠るなよ」
上座からお父様の声が飛ぶ。私たちは一斉に頭を深く垂れた。
(けど……もしもの時は、私も軍医学生だから、覚悟を決めないと。戦争に勝って、敵も味方も助けられる人は助けて帰る。それが私の仕事だ)
頭を下げながら、私は心の中で誓った。
※現在で一般に“湿布”と呼ばれている成形パップ剤やプラスター剤は、素材のことや保管方法を考えると、拙作の世界線の技術ではまだ開発が難しそうです。やるとしても、布に泥のような膏薬を塗ってそれを患部に貼る、というちょっとめんどくさいことになりそうです。
サリチル酸メチルの方は、まぁ、アセチルサリチル酸が拙作では作られていることになっているので。サリチル酸もコルベ・シュミット反応は発見されているので出来るかな……。ただ、反応に必要な高圧・高温環境がこの世界線の日本で出来るかという考察はしておりません。ご了承ください。
※サラエボは「サライェヴォ」「サラエヴォ」などと表記することもありますが、拙作では「サラエボ」と表記します。ご了承ください。




