節子さまの決意(1)
1903(明治36)年8月1日土曜日、午後2時50分。
「あっはははははは!」
青山御殿の応接間に、新島八重さんの豪快な笑い声が響いている。
「やっぱり、そうだったんですね!」
新島さんが陽気に話しかけているのは、誰あろう、提出式の時は睨み付けていた我が臣下だ。その隣にはもちろん私が座っていて、更に、国軍大臣の山本さんと、国軍次官の桂さんもいる。この5人で集まっているのは、先週の土曜日、大勢の新聞記者と私の前で、薩摩出身の将官を挑発した新島さんに、臣民初の女性志願兵として、今後の行動の自重を求め、看護学校卒業の暁には、私の護衛を正式にお願いする、それを目的とした会合のはずだったのだけれど……。
「どうもおかしいと思ったんですよ、書類の提出式の時!流石に大山どのは、私が睨み付けたぐらいで逃げ出すような人じゃありませんから!」
会合が始まってから20分、新島さんは護衛の件は承知してくれたけど、その後、なぜか大山さんと山本さんと桂さんと、戊辰の役の話で盛り上がり、すっかり意気投合してしまった。自重を求めるという当初の目的は、どこかに行ってしまったようだ。
「ふふふ、見破られておりましたか」
馴れ馴れしく話しかけるかつての加害者に、大山さんは余裕の表情で答えている。先日の強張った顔がウソのようだ。
「……だったら、何であんなことを言ったんですか」
「あんなこととは何でしょうか、増宮殿下?」
私の質問に平然と答える新島さんに、
「決まってるでしょ!“薩摩の弱兵、会津の女子には敵わぬ”ってやつですよ!」
私は思わず、右の人差し指を突き付けた。
すると、
「ああ、あれですか。……この際だから、ついでに言ってやろうと思いましてね」
新島さんは悪びれずに答えた。
「ああ、そうですか……」
私は湧き上がる感情を必死に抑えた。仮にも新島さんは、私を護衛しようと思ってくれて、わざわざ国軍看護学校に志願してくれた人なのだ。その人を怒鳴りつけてしまうのは、流石に体面上、よろしく、ないん、だけ、ど……。
「ま、増宮殿下」
桂さんが、緊張した表情で私を呼んだ。
「どうか、どうかお心を落ち着け……」
「……んなこと、出来る訳ないでしょうがぁ!」
怒りが抑えきれなくなった私は、椅子から勢いよく立ち上がった。
「私まであの場で怒ったら、場の収拾が付かなくなるって思ったから必死に堪えましたけど、大切な臣下を馬鹿にされた私の身にもなってください!おまけに、山本さんたちのことまで馬鹿にして。軍医学校に通う私にとって、山本さんは上官なんですからね!上官に喧嘩売ってどうするんですか!私を護衛しようと思うんだったら、私の上官に……」
喧嘩を売るような真似はやめてください、と叫ぼうとした私の口が、布地にぶつかって動かなくなる。突然右に90度回った私の身体は、我が臣下の腕の中にすっぽり納まっていた。
「いけませんよ、増宮さま。淑女が怒りを露わにしては」
「い、いや、そうだけれども!」
大山さんの右肩から、私は必死に頭を持ち上げた。「軍に属する者としての礼儀というものがあるでしょう。私は軍医学校に通う学生として……」
「ならば、歩兵大将として申し上げますが、軍人勅諭にも“国軍将兵は紳士淑女たれ”とあります。軍医学校に通う学生として、軍人勅諭を守っていただかねば困りますよ?」
非常に有能で経験豊富な臣下の見事な返答に、私は何も言えなくなってしまう。そんな私に向かって、
「それは、大変失礼いたしました」
新島さんが立ち上がり、大真面目に頭を下げた。
「大山どのの秘蔵っ子であらせられる増宮殿下には、確かに禁句でした。以後、慎みます」
新島さんの言葉に、「“秘蔵っ子”……その通りですな」と山本さんが頷く。
「御幼少の折から、大山閣下は増宮さまをよく教え導いて来られました。そんな増宮さまが軍医となられたら、一体どのようなご活躍をなさるのか、俺は今から楽しみなのです」
「大山さんだけじゃありませんよ、山本さん」
私は山本さんの方を振り返った。「輔導主任だった伊藤さんも、爺もそう。勝先生も、山縣さんも、お父様もお母様も……それ以外の色々な人に、私は育ててもらいました。まだまだ未熟ですけれど、教えてもらったことをきちんと生かして、出来ることをやらなければいけません。……ね、大山さん」
「はい」
大山さんが微笑んだ瞬間、慣れ親しんだ気配が私の感覚に引っかかった。
「大山さん、もう3時になったの?」
「どうやらそのようですね。時間通りの御到着です」
私たちのやり取りを聞いていた桂さんが、
「いかん、皇太子殿下がいらっしゃったか。それではすぐに帰らねば」
と慌てて椅子から腰を浮かせる。私が軍医学校から戻ったお昼過ぎ、兄が火急の用件で3時にこちらに来る、という連絡があったのだ。応接間にいるお客様たちが大急ぎで帰り支度を整えているうちに、
「宮さま、皇太子殿下がいらっしゃいました」
と千夏さんが応接間の扉を開けて声を掛ける。そのすぐ後ろに和装の兄が立っていた。
「ごめん兄上、ちょっと待ってて」
「ああ、ではお前の居間に行っているが……」
「それも待って。制服が脱ぎっぱなしなのよ」
時間が無い中で若草色の和服に着替えて新島さんたちを出迎えたので、制服のジャケットとスカートが出しっぱなしなのだ。淑女としてはちょっといただけない部屋になってしまっている。
「ほう、お前にしては珍しいな」
苦笑した兄の目が、応接間の中に向けられる。兄の視線の先では、新島さんが兄に最敬礼していた。
「おや、あなたは……今度国軍の看護学校に入学する新島どのか」
兄の言葉に「ご存じでしたか!」と新島さんが感激の声を上げる。
「妹からも話を聞きましたし、新聞でも願書の提出式の記事を読みました。すさまじい女丈夫だとか」
「お恥ずかしいことです。私のやんちゃなど、そこの将軍方に比べれば児戯のようなものですから」
そう答える新島さんは、感激の面持ちで兄を見つめている。
「妹をよろしくお願いします」
軽く一礼した兄に、新島さんは「はい!」と元気よく返事した。
と、
「ほら、章子」
兄が私に声を掛けた。
「?」
「さっさと部屋を片付けてこい。お前の居間で話すからな」
「ああ、もう……分かった!大山さん、千夏さん、応接間の片づけをお願いします」
そう言いながら応接間を出ると、兄が私にピッタリ付いて歩いてくる。
「いや、だからさ、付いてくるなら、もうちょっとゆっくりついてきてよ」
「断る。一刻も早くお前と話したい」
「だめよ!制服をしまわないといけないって言ったでしょ!」
「仕方ない、それくらいは廊下で待っていてやる」
「ったく……」
(本当に兄上はせっかちなんだから……)
私はため息をつくと、2本の足を動かす速度を上げた。
数分後。
「節子さまが妊娠したかもしれない?」
「ああ」
大慌てで制服を片付けた私の居間。椅子に腰かけた兄は、確認した私に頷いた。
「花御殿の医師たちも、まだ確証が持てないらしい。節子本人も、“裕仁や雍仁を産んだ時のような感じがするような……”という調子で、今一つはっきりしない」
兄はそう言うと、机の上にある団扇を手に取り、自分を扇ぎ始めた。
「けど……どうするの?兄上たちが那須に行くのって、明日だよね?」
「ああ……」
私の質問に、兄が微かに眉をしかめる。兄は節子さまや迪宮さま・淳宮さまと一緒に、明日から那須で避暑をすることになっている。那須まで鉄道は通っているけれど、東京から片道数時間掛かる。もし、節子さまが本当に妊娠していたら、那須までの長旅は身体に負担になり、流産のリスクが高くなるかもしれない。
「花御殿の医師たちは、何て言ってるの?」
「今回は念のため、節子は東京にいるのがよいだろう。その見解では一致しているのだが、東京のどこにいればいいか、それで意見が割れている」
「東京のどこにいればいいか?」
少し不思議な言葉だ。何か事情があるのだろうか。更に尋ねようとした私に、
「実は……花御殿の留守居役が、万里小路でな」
兄はこう言った。
「ああ……なるほどね」
万里小路さんは、何人かいる節子さま付きの女官の1人で、もう70歳近くの高齢である。節子さま付きの女官の筆頭である兄の実母の早蕨さんは、おおらかで優しいのだけれど、万里小路さんはとにかく厳しい。礼儀作法やしきたりにやかましくて、節子さまや、内親王の私に対しても、“言葉遣いがおかしい”やら“礼儀作法がなっていない”やら、ビシビシとお小言を飛ばしてくる。また、私が軍医学校に進学したのも、“女子の進む道ではない”と反対していたそうだ。早蕨さんは“流石増宮さま!”と大絶賛してくれたのだけれど……。
「兄上、早蕨さんは今回の避暑には付いて行くの?」
「その予定だった。しかし、節子の件で、どうしようか迷っている。節子に付くのが万里小路だけだと、節子が参ってしまうかもしれない。母上が節子の側にいてくれれば、万里小路からは守られるであろうが、母上と万里小路は、余り仲が良くない。清子どのは、裕仁について那須に来てもらわなければならないし……」
その件については、私もうすうす知ってはいる。特に、新しい文化を許容するか否かについては、早蕨さんと万里小路さんの方針が、ことごとく対立してしまっているのだ。普段は、迪宮さまと淳宮さまの輔導主任である西郷さんの奥さん・清子さんが、目立たないように2人の対立をおさめているのだけれど、彼女が那須に行ってしまうと、早蕨さんと万里小路さんの対立が激化する。その対立に、節子さまを巻き込んでしまっていいのだろうか。
「ねぇ、兄上」
私は椅子に座ったまま、兄の方に身体を前のめりに近づけた。「大山さんが許してくれれば、という条件付きになるけれど、節子さまと早蕨さんに、青山御殿の客殿に滞在してもらうのはどう?私も輝仁さまも、今年は内国博に行ったから、避暑はしないの。だから、節子さまを寂しくはさせないつもりだし、もし、節子さまが妊娠していたら、万全なサポートが出来るよ」
「うん、俺もそれがいいと思ってな。問題は、大山大将の許しだが……」
「ちょうど来たよ。一緒に聞いてみよう」
私がそう言うと、兄もすぐに大山さんの気配に気が付いたようだ。ほどなく居間に姿を現した大山さんに、私と兄はいきさつを説明して、節子さまが青山御殿に逗留する許可を求めた。
「なるほど、確かにそれが一番よい方法でしょう」
私たちの話を聞いた大山さんは、すぐに賛成してくれた。
「どなたか、梨花さまの時代で言う“リーダーシップ”を発揮できる方がおりますと、早蕨どのと万里小路どのの争いも沈静化するのでしょうが……今は致し方ありません。反りが合わない者同士を上手く離しておくのが得策でしょう」
「礼を言う、大山大将。帰ったら早速東宮大夫に話しておく。では梨花、節子のこと、よろしく頼んだぞ」
「まかしといて、兄上。節子さまのことは絶対守るから!」
私は兄の目をしっかり見つめて頷いた。
まさかこれが、騒がしい夏の幕開けになるとは……この時の私は、全く予想していなかったのだった。




