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転生内親王は上医を目指す  作者: 佐藤庵
第32章 1903(明治36)年春分~1903(明治36)年夏至
244/803

往診

 1903(明治36)年5月16日土曜日、午前10時。

「……という訳ですが、増宮殿下、お分かりになりますか?」

「か、辛うじて……」

 京橋区築地四丁目にある国軍軍医学校。その校舎内の教室の一つで、私は授業を受けていた。黒板の前に立っているのは、国軍次官の桂さん。そして、生徒は私一人だ。毎週土曜日の午前中、一般の生徒とは別に受けている、軍事関係の座学の授業の最中だった。

 今日の講師・桂さんが私に講義してくれている内容は、軍事組織内における行政活動についてだ。人事管理や会計業務、物資調達などなど、その業務は多岐にわたる。実際に軍隊を動かすためには、絶対に必要なことで……いかにも、桂さんが得意そうな分野である。

「軍隊にも、内政に通じるようなところがあるのは、ちょっと驚きで……」

 私が答えると、「そうでしょう、そうでしょう」と、桂さんは上機嫌で相槌を打った。

「軍隊という組織の動かし方には、行政機関の動かし方に通じるものが多くございます。もちろん、手続きが異なるところは多少ありますがね」

「ってことは、ある程度、軍隊の動かし方に精通して、行政機関の動かし方との違いも把握していれば、軍人が行政機関を動かすことは理論的には可能……」

「さようでございます」

 桂さんは私に向かって、大仰に頭を下げる。

「ああ、ちょっと不思議だったことが、ようやく解決できた気がします」

 私は頷いた。「山縣さんに黒田さん、山田さんに西郷さん……梨花会の中には、軍人としての肩書も持っているのに、大臣としてもきちんと業績を挙げている人が多いから、それはなぜなんだろう、って、昔、ちょっとだけ疑問に思ったんです。ほら、私の時代では、退役した自衛官が大臣になるなんてこと、滅多になかったから……」

 梨花会の面々が私の所にやって来るようになった当初、大臣が、軍人としての肩書も持っているということに、私は少し戸惑った。ただ、“今はこういう時代なのだろう”ということで片付けて、それきり、その事実を素直に受け入れることしかしていなかった。

「あの方々は、戊辰の戦から西南の戦に至る一連の戦いのどこかで、ある程度の軍隊を指揮するお立場で戦った経験がおありです。ああいったお立場にいた方々から、行政組織を動かせる人材が出るのは当然のこと……もちろん、この桂とて、先輩方に負けるつもりはございません」

 桂さんは少し胸を張ると、急に周囲をキョロキョロと見回して、

「今の言葉は、他の閣下方には内緒ですぞ、殿下!」

と声を潜めて言った。

「大丈夫です、秘密にします、桂さん」

 別に秘密にしなくてもいいんじゃないかな、とも思ったけれど、桂さんの表情が余りにも真剣なので、私はしっかりと彼に請け負った。ただ、桂さんと私が隠しても、彼が卓越した行政手腕と調整力を持っているのは、誰の目にも明らかだ。

「さて、それでは続きを……」

 気を取り直した桂さんが、手にしたノートのページをめくった時、教室のドアがノックされ、小使さんが姿を現した。彼は桂さんに近づくと、一言二言耳元で囁く。それを受けた桂さんが、

「増宮殿下、森先生が、校長室に来ていただきたいと」

私にこう告げた。

「森先生が?」

「何でも、花御殿から、増宮殿下宛てにお電話が入っているそうで」

「兄上の所から、ですか……」

(今、バイエルンの王族と面会してるはずだけど……)

 私は首を傾げた。

 先月、ドイツにあるバイエルン王国の摂政の嫡孫・ループレヒト殿下と、その奥様であるマリー・ガブリエーレ妃殿下、そして、ループレヒト殿下の従弟のゲオルク殿下が来日した。彼らは日本の各地を微行(おしのび)で観光した後、今日から数日は国賓としての待遇を受ける。何日か後には参内することになっているし、今日は兄夫妻を表敬訪問して昼食を共にした後、午後に青山御殿で私に会う予定だった。私にとっては成人してから、初めての外国の王族との面会だけれど、これは実は、先方の……特に、マリー妃殿下からの強い要望によるものだった。

――ドイツ公使にも確かめましたが、ゲオルク殿下と増宮殿下を娶わせたい……という意味ではなく、あくまで、マリー妃殿下が増宮殿下とお話しされたい、ということだそうです。ですから、ご挨拶が終わりましたら、ループレヒト殿下とゲオルク殿下は青山御殿の庭園を散策され、その間に増宮殿下とマリー妃殿下がご歓談される、という手はずになりました。

 外務大臣の陸奥さんによると、マリー妃殿下はループレヒト殿下の9歳年下で、今年25歳。バイエルン王家の分家筋の貴族出身で、科学に非常に興味を持っているのだそうだ。そして、日本で初めての女性軍医学生である私の話を耳にして、“日本に行ったら是非会ってみたい”と前々から希望していたらしい。

(科学の話が出来ると思ったのかな……?まぁ、こっちも、ルートヴィヒ殿下の話を聞いてみたいから、ちょうどいいかもね)

 王族でありながら、外科と婦人科の医師免許を持っているルートヴィヒ殿下……彼は、バイエルン王家の出身で、マリー妃殿下の親戚だ。だから、ルートヴィヒ殿下について、妃殿下が話してくれるかもしれない。そう思って、陸奥さんの話を聞いた時から、私は彼女と会うのを楽しみにしていたのだけれど……。

「一体、どうしたんですかね?」

 回想を振り払った私が桂さんに尋ねると、「さぁ、分かりかねます」と彼は力なく首を左右に振った。

「とにかく、電話に出ていただくしかないでしょう」

「そうですね。じゃあ、失礼して、森先生の所に行ってきますね」

 私は桂さんに一礼すると、小使さんについて校長室に向かった。桂さんも私について歩いてくる。校長室の扉をノックして開けると、森先生が受話器を捧げ持っていた。

「増宮さま、どうぞ」

 受話器を私に丁重に渡す森先生の表情はやけに硬い。変だな、と思いながらも、私は受話器を耳に当て、送話口に口を近づけた。

「もしもし、お電話代わりました。章子です」

「ああ、梨花か。俺だ」

 ……受話器からは、思いもしなかった声が流れ出た。

「兄上?!まさか、兄上が電話を掛けたの?!」

 思わず送話口に向かって怒鳴ると、

「ああ、軍医学校の校長室に直通の番号だからな。森先生は俺も知っているから、直接掛けても迷惑にはならないだろうと思ったのだが……」

兄はいささかも動じることなく、こう説明する。

(それで森先生、緊張してたんだ……)

「兄上、森先生、すごく恐縮してるみたい。次からはしない方がいいよ」

 親しくしている私からならともかく、皇太子からの直電(ちょくでん)だ。いくら世界に名の知れた研究者である森先生でも、とてもびっくりしたに違いない。

「分かった。次からは誰かに掛けてもらう。……ところで梨花、急だが頼みがある」

「何?」

「今からドイツ公使館に、往診に行ってくれ」

「はい?」

 今生で医師免許を取ってから、往診はしたことがない。一体何を言っているのかと突っ込もうとした私に、

「マリー妃殿下の体調が悪いらしい」

兄は、信じがたい言葉を私に告げた。


「……兄上、分かる範囲でいいから、マリー妃殿下の容態を教えて」

 話しながら、森先生に向かって、ペンで字を書く真似をする。筆記用具を持ってきてほしかったのだけれど、緊張した表情のままの森先生は反応しなかった。ちゃんと指示をしないとダメかな、と思った瞬間、桂さんが飛び出してきて、紙と鉛筆を恭しく私に差し出した。そんなこちらの状況はもちろん知らないまま、

「うん、昨日夕方に公使館に到着した時には、マリー妃殿下はお元気だったそうだ」

兄は状況を説明し始めた。

「しかし、ベッドに入ったころから嘔気と腹痛が現れて、今朝になって腹痛が酷くなったとか。だから、ここにいらしたのはループレヒト殿下とゲオルク殿下だけだ。妃殿下は公使館にいらっしゃる」

「そう。他に情報はある?例えば、ドイツ公使館付きのお医者さんが、どう診断しているか、とか」

 与えられた情報をメモしながら尋ねると、

「“盲腸周囲炎かもしれないが、なんとも言えぬ”だそうだ」

兄はこう答えた。“盲腸周囲炎”……“盲腸炎”とも呼ぶことがあるけれど、要するに、私の時代で言う“虫垂炎”、俗に言う“盲腸”のことだ。

「梨花……妃殿下は本当に盲腸周囲炎なのか?」

「そんな簡単に分かるかぁ!」

 私は送話口に向かって全力でツッコミを入れた。

「情報が少なすぎるのよ!体温とか血圧とか!あと、診察の所見だってわからない訳だし!」

 急な腹痛を生じる原因は多々ある。私の時代のように、血液検査や、CTや超音波の検査がすぐ出来る環境でも、原因を見分けるのは大変なこともあった。まして、そんな検査のないこの明治時代である。原因に近づくには、より丁寧に問診をして、身体所見を取らなければならない。

「話を聞くだけで診断が一発で分かるケースだってもちろんあるけれど、このケースはそうじゃないの!妃殿下を私の時代に連れて行ったとしても、今の情報だけじゃ診断がつかないってば!」

 口が動くまま、ツッコミを入れ続けると、

「分かった、分かった。そう怒るな」

電話の向こうから、兄が苦笑する気配がした。

「……では梨花、ドイツ公使館に行ってくれるか?」

「そりゃ構わないけど、先方は了承済みなの?」

「もちろんだ。ループレヒト殿下もゲオルク殿下も“是非に”とおっしゃっている」

「そう。……あのさ、軍医学校の他の先生も連れて行って構わない?」

 医師免許を持っていると言っても、医師として、場数を多く踏んでいるわけではない。万全を期すならば、軍医学校の先生方の誰かを連れて行って、その場で相談できるようにしたい。

「……“差し支えない”とループレヒト殿下がおっしゃった」

 受話器から、何かを相談するような声が微かに聞こえた後、兄が答えてくれた。お礼を言って電話を切り、森先生と桂さんに手短に事情を説明すると、

「分かりました。私が増宮さまに同行しましょう」

と、森先生は快く承諾してくれた。

「ごめんなさい、桂さん。授業が中途半端になってしまって」

「お気になさいませぬよう、増宮殿下。青山御殿には、私からも連絡しておきましょう」

 頭を下げる私に、桂さんは力強く頷く。馬車を準備してもらうと、私は森先生と一緒に、麹町区永田町一丁目にあるドイツ公使館に向かった。

 ドイツ公使館に到着すると、既に電話で連絡が行っていたらしく、私と森先生はすぐにマリー妃殿下の病室に通された。

『あなた……もしかして、増宮殿下?』

『ええ、そうです。はじめまして、マリー妃殿下。章子と申します』

 ドイツ語であいさつしながら、私はマリー妃殿下の様子を素早く観察した。私を見て目が輝いたけれど、乱れたブラウンの髪の下の額には汗が張り付いていて、表情もうつろだ。高い熱があるのだろうか。後で本人か、ドイツ公使館の医師に確かめなければならない。

『あなたの旦那様のご依頼で参りました。早速で申し訳ないですけれど、診察させてくださる?』

 診察の準備を手早く整えると、森先生には一度病室を出てもらい、代わりに妃殿下の侍女さん2人に入ってもらう。服を適宜脱ぎ着してもらって妃殿下の診察をしながら、妃殿下に症状が発生してからの話を聞いた。それによると、昨日の夕方、公使館に着いた時には何とも無かったけれど、ベッドに入ってから、吐き気とお腹の痛み、そして熱が出たということだ。

『熱は下がらないし、お腹の痛みも少し強くなって、痛む場所がだんだん右下に動いているような気がします。熱は今朝から、38度を超えました』

 確かに、妃殿下の右下腹部を軽く押すと痛みがあるし、腹膜に炎症がある所見もある。侍女さんたちに手伝ってもらいながら、使い捨てのゴム手袋を付けて、内診と直腸診を終えると、侍女さんたちには部屋を出てもらった。妃殿下と2人きりになったのを確認すると、最終月経や妊娠の可能性を確かめる。“女を見たら妊娠と思え”……特に、女性の急激な腹痛では、妊娠の可能性は必ず検討しなければならないのだ。

『……ありがとうございました。服を整えたら、他の先生方にも入ってもらいますね』

 どうやら、婦人科系のトラブルからの腹痛の可能性は低そうだ。頭の中に鑑別診断を浮かべながら、診察を終えた私は妃殿下に言った。妃殿下が身支度を整えたのを確認して病室の扉を開くと、森先生の他に、ドイツ公使館付きのドイツ人の医師、そして花御殿から戻ってきたループレヒト殿下とゲオルク殿下がいた。緊急時なので、簡単に初対面の挨拶を交わすと、私は診察所見を先生たちに説明した。

『……という訳で、虫垂炎、盲腸周囲炎の可能性が非常に高いと考えます』

 ドイツ語で自分の考えを述べると、

『私もその可能性が高いと思います』

森先生がドイツ語で答えた。

『ええ、殿下のお話を聞いて、私もそれを確信しました』

 ドイツ公使館の先生も頷く。『ただ、月経周期については、聞くのがはばかられまして』

(だよなぁ……)

 女性の患者さんに、妊娠の可能性があるかどうかを尋ねるのは、男性の医師にとって心理的なハードルが高いことがそれなりにある。前世の父もそう言っていた。まして、ドイツ公使館の先生にとっては、王族に対する遠慮もあっただろう。心理的ハードルはとても高かったに違いない。

(同性だし、こっちも皇族だから、遠慮なしに聞いちゃったよ。……まぁ、それでかえって良かったみたいだから、私が往診した意味もあったかな)

 そんなことを思っていると、

『しかし、盲腸周囲炎ならば、ここまで熱が高いと、手術して患部を切除するべきですな』

と公使館の先生が言った。

『そうですけど……』

 確かに、私の時代でも、ここまで進んだ虫垂炎だと、可能なら手術をするという選択をすることが多いはずだ。けれど……。

「いかがなさいましたか、増宮さま?」

 森先生が日本語で私に尋ねた。

「王族の身体に……メスを入れるってことになりますよね?」

 この国では、皇族が侵襲的な検査や治療を受けてよいのだ、という空気が、山階宮(やましなのみや)範子(のりこ)さまの緊急手術の一件で、ようやく出てきたところだ。ドイツでは、そのあたりの感覚はどうなっているのだろうか?

(日本みたいに、王族は手術を受けたらいけないのかな……もしそうなら、無理やりにでも理屈をつけて、妃殿下に手術を受けてもらわないと……)

 すると、

『盲腸周囲炎ならば、手術を受けさせてください』

公使館の医師と話し合っていたループレヒト殿下がハッキリ言った。

「へ?」

 上手い反応が出来ないでいると、

『ああ、あなた、やっぱり盲腸周囲炎なのね?』

ベッドの上に辛そうに身を起こしたマリー妃殿下も、こんなことを言った。

『盲腸周囲炎なら、確か、手術する方がいいのよね。ここは日本よ。ドイツ並みに、いいえ、一部の分野に関しては、ドイツ以上に医学が進んでいる。手術をするなら、この日本で手術をする方がいいわ』

『あ、あの……いいんですか?』

 やけに積極的な妃殿下に、私は慌てて問いただした。今の時代、私の時代以上に手術を怖がる人が多いのに、この人は怖がるどころか、心躍らせているようにも見える。

『私が医者になる時も、“皇族が医者になるとはけしからん”って反対する人がいたし、何年か前に日本の皇族が手術を受けた時も、“皇族が手術を受けるなんて”って反対する人がそれなりにいましたけど……ドイツには、そういうタブーは無いんですか?』

 すると、私に向かって、妃殿下がクスッと笑った。

『そんなものがあったら、私の父なんて、とっくに廃業させられてるわ』

『は……?それは一体、どういうことですか?』

 確か、妃殿下は王家の分家筋の貴族出身のはずだ。当然、お父様も貴族だろう。頭の中が疑問符だらけになりながらも質問すると、

『私の父は変わり者で……貴族なのに、ミュンヘンで眼科医院を開業しているんです。白内障の手術を、もう何百件もこなしているわ』

……マリー妃殿下は、とんでもない答えを返してきた。

(な、なんだってー?!)

 まさか、バイエルン王家と関わりがある人に、ルートヴィヒ殿下以外の医療関係者がいるとは思わなかった。

『それで、私の手術は、誰が執刀してくださるのかしら?』

 高熱と腹痛で辛いはずなのに、マリー妃殿下は笑顔でこう尋ねる。

「……とりあえず、まずは東京帝大の外科に依頼ですよね、森先生?」

「はい、それが一番安全です。帝大病院に、連絡を取ってみましょう」

 森先生と日本語でこそこそ囁き交わしてから、

『妃殿下、東京帝大病院の外科に連絡を取ってみます』

と答えると、

『ああ!血液型と輸液を発見した、ドクトル近藤のところね!是非!』

妃殿下は嬉しそうに言った。

(大丈夫かな、この妃殿下……高熱で錯乱してないよね……?)

 余りにノリノリな妃殿下の態度に戸惑ったけれど、とにかく、今は手術の段取りをつけるのが最優先だ。私は森先生たちと手短に打ち合わせを済ますと、すぐに動き始めたのだった。

※現時点でのバイエルン王国の国王はオットー1世ですが、その叔父・ルイトポルトさんが摂政になっています。ルイトポルトさんの弟・アーダルベルトさんの息子が、外科と婦人科の医師免許を持っているルートヴィヒ・フェルディナント殿下になります。従って、ループレヒト殿下から見て、ルートヴィヒ殿下は“父親の従弟”ということになります。

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