小さな紳士(ジェントルマン)たち
1903(明治36)年1月1日木曜日、午前9時半。
「どうした、章子。正月から浮かない顔だな」
参内した帰り、兄と節子さまに正月のあいさつをするために立ち寄った花御殿の客間。兄が輝仁さまの、次いで私の顔を覗き込んで、心配そうな表情になった。
「何か、悩みごとでもあるのか?」
「話を聞きましょうか、お姉さま?」
兄の隣にいる節子さまもこう言って、私を見つめる。
「服がこれだからじゃないの?」
横から私の空色の通常礼装を軽く引っ張る輝仁さまに、「ま、それもあるけどね」と答えると、
「今日、参内した時に、新年拝賀に来た宮さま方の控室の側を通ったんだけど……」
と、私は兄と節子さまに向かって話し始めた。
元日には、9時半に各宮家の方々が揃い、お父様とお母様に新年のご挨拶を申し上げる。私たち直宮はその前、大体9時ごろにお父様とお母様に新年の挨拶を申し上げるのが、ここ数年の通例になっていた。私も学習院の制服姿の輝仁さまと一緒に、慣れない通常礼装を着て新年の挨拶を済ませ、その帰りに宮さま方の控室の側を通りかかった。すると、梨花会の一員でもある有栖川宮威仁親王殿下が、控室から出たところに出くわしたのだ。
――これは増宮さま。新年からお美しいことで。満宮さまもご一緒ですか。
威仁親王殿下の声に、伏見宮貞愛親王殿下や山階宮菊麿王殿下も扉から出て来て、私と輝仁さまに新年の挨拶をしてくれた。ところが、妙な視線を感じて、控室の中に目をやったところ、奥に何人かの男性が固まっていて、こちらを怯えた目で見つめていたのだ。
「誰だか大体想像はつくが……間違っていたらいけないから、一応聞いておこう。誰がお前に怯えていたのだ?」
苦笑混じりの兄の質問に、
「伏見宮の邦芳王殿下でしょ、梨本宮の守正王殿下に久邇宮の邦彦王殿下でしょ、それから北白川宮の能久親王殿下と恒久王殿下だね」
指を折りながら私は答える。
「相変わらずか、情けない。章子と同じ軍人であるのに」
私の答えを聞いた兄は、軽くため息をついた。
「本当にね。私に怯える男なんて、こっちから願い下げよ。軍医学校の同級生の方がマシだけど……」
そう言って、軍医学校の同級生たちのことを思い浮かべてみる。全員高等学校か大学を卒業しているから、私より年上だ。華族が含まれていないからか、私に怯える様子はない。ただ……。
「どうも、大山さんや伊藤さんたちと比べると、頼りないというか……」
私も軽くため息をつくと、
「おい、ちょっと待て」
兄が慌てた様子で私を止めた。
「ん?」
「お前な、比較する対象が間違っているぞ。大山大将たちのような強者どもと比べてしまったら、相手の男がかわいそうだ」
「そう?」
首を傾げた私に、兄は「そうだ」と断言した。
「考えてみろ。お前や俺の年頃の人間が、あの古強者どもと同じ量の経験を積めるまでには、まだ相当の時間が掛かるはずだ。お前が、同じ年頃の男を吟味する時にも、そのことを考慮しなければならない。“頼りない”と言って、すべての男を切り捨ててしまうのは、まだ早いと思うぞ」
「でも、兄上は頼れるけど……」
「あのな……」
「嘉仁さま」
困ったような表情になった兄に、節子さまがクスクス笑いながら呼び掛けた。
「よいではありませんか。お姉さまが、好まれる男性像を語れるようになっただけでも、大進歩だと思いません?」
「それは確かにそうだし、お前とお母様のおかげだとは思うが……」
表情を変えない兄に、
「兄上と大山さんが仕組んだんでしょうが」
と私は冷たく指摘した。2か月前に兄と大山さんにハメられて、お母様と節子さまに恋愛話をすることになってしまった記憶は、私の中ではまだ新しい。
「何のことだ。2ヶ月も前のことだから忘れてしまったな」
嘯く兄の言葉に、
「増宮さま、そろそろ戻りましょう」
私の後ろに控えていた我が臣下の言葉が重なった。
「しょうがないわね。……じゃあ、兄上、節子さま、今年もよろしくお願いいたします」
輝仁さまと一緒に頭を下げると「ああ、よろしくな」と兄が頷いた。
午後2時50分、青山御殿。
「叔父さまがお正月にいらっしゃるなんて、初めてですね」
大礼服を窮屈そうに着た叔父の千種有梁さんに新年の挨拶を済ますと、私は叔父にこう声を掛けた。
「へ?親族なのに、増宮さまに新年のご挨拶、してなかったんか?!」
叔父と一緒に挨拶に現れた大礼服姿の三条さんが、軽く目を見張った。
「新年の挨拶が嫌いなんですよ」
叔父はそう言って、ムスッとした顔で千夏さんに出されたお茶を飲んだ。
「大礼服を着るのが面倒だし、正月に挨拶に行くと、“皇族の親戚だということをひけらかしてる”って公家連中に陰口を叩かれますから、控えてるんです。姉上に挨拶の書状は出してますが」
維新の功臣の一人であり、太政大臣や内大臣を務めたこともある政界の大物・三条さんに向かって、叔父は悪びれずにこう言った。堅苦しい礼儀作法が大嫌いな叔父が年賀状を母に出しているというのが、むしろ奇跡的だ。
「相変わらずひねくれてるなあ、千種どのは」
三条さんは穏やかに苦笑した。
「この御殿にも、去年の6月に来たのが最後やろ。増宮さまの叔父君なんやから、議会の合間にでも、少しは顔を出したらどうや?」
のんびりと提案する三条さんに、
「無理ですよ。忙し過ぎて」
叔父は即座に言い返す。
「そんなことないと思うけどなぁ」
「いや、三条閣下は忙しくないかもしれませんけど……俺が忙しいのは閣下のせいでしょうが」
ニコニコしている三条さんを、叔父は恨めしそうに見つめた。
「書類の取りまとめだの議員に対する工作だの……全部閣下に頼まれてやってるじゃないですか!ああ、俺はどっかの診療所で患者を相手にしてた方が、よっぽどいいってのに。議員の辞表を何度書きかけたか」
(うわぁ……叔父さま、三条さんにこき使われてるのか……)
叔父と三条さんとのやり取りから、ある程度の事情が分かった。どうやら、叔父は貴族院の公爵議員でもある三条さんに捕まってしまい、三条さんが本来やるべきことを代わりにさせられているのだろう。
「増宮さまのためにも、頼りになる叔父君になってもらわんとねぇ」
叔父の抗議もどこ吹く風、三条さんはのんびりとこんなことを言う。
「畜生、殿下のことを言われたら逆らえないじゃねぇか……」
そう呟いた叔父は、苦虫を噛み潰したような表情になった。
「千種どののおかげで、議員生活に張り合いが出てきたなぁ」
叔父に強力な死亡フラグを立てるようなセリフを三条さんが吐いた瞬間、居間の障子が開いて、
「章姉上、成久殿下たちが来てくれた」
輝仁さまが知らせてくれた。
「おお、これは満宮さま、新年明けましておめでとうございます」
三条さんが立ち上がり、輝仁さまに最敬礼する。叔父も慌てて立って、三条さんに倣った。
「三条閣下、千種どの、明けましておめでとうございます!」
輝仁さまが元気よく挨拶すると、
「おお、お元気でええことや」
身体を起こした三条さんが微笑む。
「ありがとうございます!」
「学問にも武芸にも、しっかり励まれますように」
「はい!」
「そしたら、わしらは帰りましょうか。あとはお若い方々で……」
三条さんは叔父を促して、居間から出ていく。
「章姉上、“あとはお若い方々で”って、どういうこと?」
「私もよく分からないけれど……」
弟と首を傾げていると、廊下に大勢の足音が響いて、北白川宮成久王殿下以下、総勢7名のちびっ子殿下たちが現れた。と言っても、下から2番目の北白川宮芳之王殿下が、去年の9月に学習院の中等科に入学したから、そろそろ“ちびっ子”とは言えないかもしれない。
「ああ、皆、あけましておめでとう……?」
ちびっ子殿下たちが、全く動こうとしないので、私は自分から、恐る恐る新年のご挨拶をした。全員が、私の服に注目してしまっているようだ。
「ああ、ごめんなさい。本当は、そっちは制服で来るだろうから、私も軍医学校の制服を着たかったんだけど、うちの別当さんが、通常礼装じゃないとダメだって言って……」
慌てて皆に言い訳すると、
「いや……すごくお綺麗なので……なぁ?」
ちびっ子殿下たちの中で一番の年長である成久殿下が左右を見た。他の王殿下たちも一斉に頷く。
「よかったね、章姉上」
輝仁さまが言う横で、
「にゃ、ははは……そ、そりゃあ、どーも……」
私は変な笑い声を出してしまっていた。こういう時は、一体どう対応すればいいのだろうか?
「あ、そ、そうだ、栽仁殿下!な、名古屋城の模型って、今日完成するんだっけ?」
とりあえず、何とかして話題を変えなければならないだろう。慌てて尋ねた私に、
「姉宮さま、まだまだ完成には掛かりますよ?作業する時間が限られてるから……」
栽仁殿下が不思議そうな顔をして答えた。
「あ、ああ、そうだっけ、ごめんごめん、あはは……」
笑って誤魔化そうとすると、
「増宮さま」
居間の入り口で、王殿下たちとは別の声がした。
「いけませんよ、紳士の方々に対して。このような時は、素直にお礼をおっしゃればよいのです」
持ったトレイにカステラのお皿を載せた大山さんが、私にニッコリと微笑みかける。
「じぇ……紳士?」
戸惑う私に、
「増宮さまが淑女であるように、王殿下の方々も紳士でございますよ」
大山さんはそう言いながら近づいて、トレイをテーブルの上に置くと、私の右の耳元に口を近づけて囁いた。
「かつての梨花さまが小さな淑女であったように、王殿下の方々も小さな紳士でございます。そして、梨花さまが立派な淑女になった暁には、王殿下の方々も、立派な紳士になっていらっしゃるでしょう」
「り、立派な、紳士……」
私は廊下に立って私を見つめている王殿下たちを見た。幼年学校や学習院の制服に身を包んでいる彼らは全員私より年下で、一番年上の成久殿下も満15歳だ。けれど、いずれは成年を迎え、各々が立派な軍人となり……。
(そうなったら、この子ら、どうなるのかな……)
王殿下たちの軍服姿を想像しようとした時、
「そう言えば、梨花さま、紳士の方々に、いつまでも立ち話をさせてしまうおつもりですか?」
大山さんが再び囁きかけた。
(そうだ……!)
「ご、ごめんなさい!み、みんな、中に入って、椅子に掛けて!」
すると、王殿下たちが「失礼致します」と一斉に動き、居間の椅子に腰かけた。
(どうも、制服以外の洋装だと、調子が狂うなぁ……)
ため息をついた瞬間、
「大山閣下、俺の分のカステラはありますか?」
と私の弟が尋ねた。
「申し訳ございません。満宮さまの分がまだご用意できておりませんで……!」
大山さんの後ろにくっついて、コーヒーを運んできた千夏さんが目を丸くする。
「じゃあ、輝仁さま、私、台所まで行ってカステラを……」
いつもの調子で椅子から立ち上がり、一歩踏み出した途端、私はつま先で自分のスカートのすそを踏んでしまった。バランスを崩して前のめりになった私の身体が、横から支えられる。
「いけませんよ、増宮さま」
私を両腕でがっしり捕まえたのは、非常に有能で経験豊富な我が臣下だ。
「このような時は、淑女が執事に命じるものですよ」
大山さんはクスッと笑うと、優しくて暖かい目で私を見つめ、私を椅子に再び座らせた。
「ありがとう。……じゃあ、大山さん、カステラとコーヒーをもう一人前ずつ、こちらに持ってきてください」
何とか取り繕ってこうお願いすると、「かしこまりました、増宮さま」と大山さんは私に恭しく一礼して、千夏さんを促して一緒に居間から立ち去った。
「あー、ダメだ。この服、本当に慣れない。自分でやりたいこともできなくて、人に頼まないといけないなんて……」
私がぼやくと、
「確かに、姉宮さまって、自分でやれることはすぐにやっちゃいますよね。うちの妹たちとは全然違います」
北白川宮輝久王殿下が微笑しながら言った。
「うん、よく分かるね、輝久殿下。……まぁ、だから君らのお父上が、私のことを避けるんだろうね。今日も避けられたよ、皇居で」
私は苦笑した。能久親王に対しては、不審者と間違えて、叩きのめしかけた前科もある。彼がこの時代のお嬢様らしからぬ私に怯えるのは、当然のことだ。
ところが、
「何だって……?!」
「あのバカ父上っ……!」
輝久殿下の弟である芳之王殿下と正雄王殿下が、なぜか拳を握りしめた。
(はい?)
「姉宮さま、うちの兄上も、一緒に怯えてましたよね?」
「帰ったら、ぶん殴ってやる」
邦彦王殿下の弟である、久邇宮鳩彦王殿下と稔彦王殿下も、真剣な表情で私に言う。成久殿下と輝久殿下も、そして栽仁殿下もじっと私を見つめていた。
「あの……と、とりあえず、君ら、家族に危害を加えちゃダメだよ?」
なんだかよく分からないけれど、ケンカになってしまうのは良くない。一応王殿下たちをなだめて置いてから、
「けど、君らは、私の所に来ようなんてよく思うね。どうして?」
と私は逆に質問を投げてみた。
「姉宮さま、学習院で人気ですよ?」
王殿下たちで一番年下、初等科6年の正雄殿下がこう答えた。
「僕の学年でも」
「うん、僕の学年でも人気だよ。姉宮さまの写真を買ったって言ってた奴がいたよね、輝久」
芳之殿下と、中等科3年の栽仁殿下も口々に言う。
(私はアイドルかよ……)
私は脱力して倒れそうになったのをようやく堪えた。
「うん、けど、中等科の6年は、姉宮さまに怯えてるな。先輩のくせに、全く情けないぜ」
憤然としている輝久殿下を見ながら、
(多分それが、通常の反応だと思う……)
私は内心、ツッコミを入れていた。
「本当だよ。軍服もお美しいのに、ドレス姿もこんなに優雅でお美しくて……。俺、姉宮さまのドレス姿、好きです」
成久殿下が、真顔でまたこんなことを私に言う。
「そ、そりゃ……どうも、ありがとう」
辛うじてお礼が言えたのは、さっき大山さんが、“美しいと褒められたのならば、素直にお礼をおっしゃればよいのです”と教えてくれたからだ。そうでなくては、頼もしい紳士たちに失礼に……。
(い、いや、ちょっと待て。確かに、皆、頼れるは頼れるけど、私の弟分なんだぞ?な、何で、私、動揺してるんだ……?!)
「へ、平常心だ、平常心!無念無想、明鏡止水、心頭滅却すれば火もまた涼し、“あなたのキャッシュカードを預かります”は詐欺……」
心を鎮めようと、冷静になるための言葉を、頭の中で一生懸命唱えていたつもりだったけれど、
「章姉上、どうしたの?」
隣から輝仁さまにゆさゆさ肩を揺さぶられて、その標語の羅列が止まった。
「あ、何でもないよ、輝仁さま」
「そう?なんか、“きゃっしゅかーど”って、よく分からないことを言ってたから……」
(うにゃ?!)
どうやら、気が付かないうちに頭の中を音声に変換してしまったらしい。どうやって誤魔化そうかと考え始めた時、
「お待たせいたしました。カステラをお持ち致しました」
トレイを持った大山さんが再び現れた。
「ああ、ありがとう、大山さ……あ」
トレイを受け取ろうと立ち上がった私は、またスカートのすそを踏んでしまい、床に倒れてしまったのだった。




