初めての通常礼装(ローブ・モンタント)
1902(明治35)年10月19日日曜日、正午。
「梨花さま」
青山御殿の玄関で馬車に乗り込むやいなや、向かいの席に座っている大山さんが私に微笑みを向けた。
「何?」
「今日は、機嫌がよろしくなさそうですね」
「当たり前じゃない」
スカート部分に青い糸で大きな花模様の刺繍を入れた、空色の通常礼服の裾を直しながら、私は非常に有能で経験豊富な臣下に向かってため息をついた。
「何で、裾を引きずる洋服を着なくちゃいけないのかしら」
「それは、今回の式典には、軍医学校の学生ではなく、内親王のご身分で出席していただくからです」
大山さんがそう言った瞬間、馬車が動き出して、私は扇子と、青い布地でできた小さな帽子をしっかり持ち直した。
「いや、それは分かってるわよ。皇室令や勅令の改正作業は、私も伊藤さんのそばで見学していたから。私が言いたいのは、何で和服を着させてくれないのかってことで……」
更に大山さんに抗議すると、
「天下の東京専門学校の創立20周年記念式典ですから、宮中の昼食会と同じ格式をもって出席なさるべきです」
大山さんはどこかで聞いた台詞を口にした。
「……って、それは大隈さんの受け売りじゃないの!あなただけは、そんな暴論に乗らないと信じてたのに!」
「俺は和装よりも、洋装の方が好みでして」
大山さんはニッコリ笑うと、「そのドレスは、とてもよくお似合いですよ」と付け加えた。
(そう言えば、そうだった……)
私は軽くため息をついた。
今日は、大隈さんが創立した東京専門学校の創立20周年記念式典の日だ。前々から大隈さんは、記念式典に私か兄が出席することを熱望していて、大山さんと児玉さんに実現を働きかけていた。私はまだ成年に達していないので、当然兄が出席するのだろうと思っていたら、
――裕仁と雍仁の相手をしなければならないから、梨花が出ろ。
と兄が逃げてしまった。
――私も出ませんよ。まだ成年ではありませんから。
私もそう言って逃げを打とうとしたら、
――上野公園の大西郷の銅像の除幕式には、参列なさったではありませんか!それならば、吾輩の命の恩人が、式典に参列できないはずがないのです!在籍する女子学生を激励する意味でも、是非とも、医術開業試験を突破された増宮さまにご出席いただきたい!
と大隈さんに言われ、考え直した。大隈さんによると、東京専門学校に入学した女子は、昨年で3人、今年は4人だそうだ。男子学生の方が圧倒的に多い。もし、私が式典に出席することで彼女たちが励まされるのであれば、それは女子の教育振興の意味でも喜ばしいことだろう。お母様に相談したら、「それは大隈どののおっしゃるようにするのがよろしいですよ」と言われたので、私は式典に出席することにした。
けれど、式典に通常礼装で出席するのは想定外だった。
――式典には、通常礼装で出席していただきます。
そう大山さんが私に伝えたのは、昨日の夕方のことだ。もちろん、成年になったら、礼装でドレスを着なければいけないのは知っているし、身体の寸法も測って各種のドレスも仕立てていた。実際に着ることになるのは、もう少し先のことになると思っていたのだけれど……。
今着ている通常礼装は、昼の行事の正装だ。それに白い手袋をはめ、扇子を持ち、外に出る時は帽子をかぶる。この他にも、他の礼装を着る時に身につける、ティアラだとかイヤリングだとかネックレスだとか、様々なアクセサリーや小物を用意しなければならない。アクセサリーに余り興味のない私には、頭の痛いことだった。
「服の裾を引きずらないといけないのが、本当に慣れないな。私の時代じゃ、こんなドレスを着るのは結婚式の花嫁ぐらいだよ」
眉をしかめながら言うと、
「ほう、そうですか。では、このご衣裳は、晴れの衣装という訳ですね」
我が臣下は顔に微笑みを湛えながら頷いた。
「かもね。でも、せっかくの衣装の裾を踏んで転びそうだから、しっかりエスコートをお願いね、大山さん」
頭を下げた私に、
「かしこまりました、梨花さま」
大山さんが頼もしい声で答えてくれた。
式典の会場は、東京専門学校の大講堂だった。10年以上前の脚気討論会の時、大山さんの娘のふりをして入り込んだところである。舞台の上には、私のために椅子と机が設けられていた。あの討論会の時は、観客席から舞台に上ったけれど、今日はきちんと舞台の袖から入り、席につく。
椅子に座って辺りを見回すと、会場中の目が私に向けられているのが分かった。席の最前列には、梨花会の殆どの面々が顔を揃えている。満員になった大講堂の席を占めているのは男性が大半だけど、僅かに女性もいた。女袴を付けた若い女性が何人か固まっている一角は、東京専門学校に在学している女子学生たちの集まりだろう。
「梨花さま、令旨を」
私の斜め後ろに控えている大山さんが囁く。私は立ち上がり、舞台中央に設けられた演壇に進んだ。大山さんから紙を受け取って開くと、数日前に必死に清書した文章が現れる。
「東京専門学校の創立20周年に対し、心からの祝意を表します」
多数の視線が私に集まっているのを意識しながら、文章を読み上げる。大山さんにも兄にもチェックしてもらったから、おかしなところはないはずだ。
「男女共学の高等教育機関の魁として、ますます発展することと、教職員・学生諸君が力を合わせ、その智力をもって国家と社会に貢献することを強く望みます」
紙を畳みながら、女子学生たちがいる一角に視線を投げる。その中の一人と目があったので、ニッコリ笑って頷いておき、設えられた席に戻った。
「よくお出来になりました」
囁いた我が臣下に、
「あなたがそう言ってくれるのなら、間違いないね」
私も小さな声で答えた。
「女子学生たちも励まされたことでしょう」
そう言った大山さんは、私の視線の行く先を把握していたようだ。微笑む彼から、優しい囁き声が私に投げられた。
「そっか。私の言葉が、誰かの役に立ったのなら、それはとても嬉しいな」
大隈さんの演説を聞きながら、私は大山さんに答えた。
式典が終わり、舞台の袖に引っ込むと、早稲田尋常中学校の校長である大隈英麿さんにご挨拶をした。彼は南部家の出身で、大隈家に養子に入っている。騎兵士官学校をこの夏に卒業した兄のご学友・南部利祥さんの叔父でもあった。
「養父からも、原さんからも、利祥どのからも、殿下の話をよく聞きます。三者三様、話が違いますが」
英麿さんはそう言って微笑する。彼の奥さまは大隈さんの娘さんで、夫婦仲は良いそうだけど、子供には恵まれていない。
「大体想像はつきますけれど、みなさま、私のことをどのように?」
苦笑しながら尋ねてみると、
「養父は、“ご英明で非常に素晴らしい方”と。原さんは、“優秀な方だが変わっている”と。利祥どのは、“並の男子以上に出来る方なのは分かるが、怖い”と」
英麿さんはクスクス笑った。
「ああ、やっぱり」
冗談めかしてため息をつくと、
「客観的な事実は一つですが、全員、解釈の仕方が異なるようです」
英麿さんはこう言った。
「先ほどの令旨、誠にありがとうございました。男女共学の魁として、学生・教職員一同、男女関係なく、一層励む所存です」
黙って英磨さんに礼を返すと、
「さて、我が家にご案内致しましょう」
彼は私の先に立って、案内を始めた。
昨日、「通常礼装でご出席を」と大山さんに言われた時は、こんな裾を引きずる服を着て、帰宅するまで気力が持つだろうかと心配したのだけれど、
――青山御殿に帰る前に、大隈さんの家にお立ち寄りいただいて休息を取っていただきます。
そう彼に言われたので、私は通常礼装を着ることを渋々了承した。非常に有能で経験豊富な別当さんは、私の疲労のことも、きちんと考慮してくれたらしい。実際、1時間おとなしく観衆の前で座っていただけで、とんでもない量の疲労がたまってしまった。
大隈さんの家の庭園では、東京専門学校創立20周年を祝う立食パーティーが行われ、何百人もの紳士淑女が歓談を楽しんでいる。私と大山さんは奥の洋間に入らせてもらい、庭園から流れてくるざわめきをBGMにしながら、お茶をいただいた。
「はぁ、本当に疲れた」
長椅子に腰かけた私は、お茶を一口飲むと、横に置いてあったクッションにもたれ掛かった。人払いはしているから、多少くつろいでいても構わないだろう。
「大勢の人の前でおとなしく座ってるって、本当に疲れる。これでコルセットを付けていたら、私、今頃倒れてたわ。コルセットの必要のないデザインの服で本当に良かった」
「それはそれは」
黒いフロックコートを着た大山さんはクスッと笑って、お茶を口にする。
(あれ?なんかこの光景、見たことがあるような……)
そう思った瞬間、窓の方から「絶対大丈夫です」という声が聞こえた。私は窓の方に視線を投げた。
洋室の窓の外側に、フロックコートを着た2人の男性が立っている。そのうちの一人は、先ほど会った大隈英磨さんだった。その英磨さんに、もう一人の男性がしきりに話しかけている。
「ですが、それを動かすための資金があと少しだけ足りない。資金さえ補充できれば、大々的に取引を動かして、投資した資金の3倍以上を回収することができるのです。ですから、出資してくださった方にも、決してご迷惑を掛けることは無い!」
「……なんか、胡散臭いわね」
私が大山さんにそっと話しかけた時、
「ほう……その足りない資金と言うのは、いくらなのですか?」
英磨さんの声がした。それに励まされてか、
「2万円ほどなのです!」
もう一人の男は、真剣な表情で英磨さんに言った。
(うっわ……)
私は思わずのけぞりそうになった。2万円……私の時代で言うと、4億円ほどだろうか。相当な大金である。
(どこが“あと少しだけ”よ。絶対詐欺だわ、この話)
男を窓ガラス越しに睨んでやろうかな、と思った時、
「そうですか、それはおかわいそうに」
のんびりと英磨さんが言った。
(は?!)
驚く私をよそに、
「そのお金を用立てれば、あなたの事業が成功するのですか」
英磨さんは更にこう言う。
「そうなのです!それを用立てていただければ、1か月で2万円は4万、いや、10万になってあなたに返ってきます」
英磨さんに相対する男は、目を輝かせながら英磨さんに力説する。射程圏内に捉えた獲物を逃がすものか、という気迫が、窓ガラスの向こうから感じられた。
「ちょっと、あれ、止める方がいいかな?」
私が大山さんに声を掛けた瞬間、
「おい、そこの男」
聞き覚えのある声が、窓ガラス越しに私の耳に届いた。
(この声は……?)
「一体何の用で、英磨さまに話しかけている?」
私の視線の先で仁王立ちになっている白髪の男性は、間違いない、毎週のように青山御殿に現れて、将棋でも議論でも私をいじめていく原敬厚生大臣、その人だった。
「い、いや、その……」
英磨さんと話していた男が、原さんの一瞥を受けて、一歩後ろに退く。
「1か月で2万円を10万円にするとか、ありもしない話を英磨さまにしていたが……」
厳しい声を男に投げる原さんに、
「は、原さん、ありもしないなどと……」
英磨さんが困惑した顔で話しかける。
けれど、
「ありもしないでしょう」
と、原さんはにべも無い態度で英磨さんに答え、
「あるものならば、ぜひ厚生大臣のわたしにも話を持ち掛けて欲しいものだな。そうすれば、大蔵大臣の松方閣下に掛け合って、国庫にある金の全て、貴殿に預けてやるが?」
そう言って、挑戦的な視線を男に投げる。苦虫を噛み潰したような表情になった男は、原さんを睨み付けると、無言でその場から立ち去った。
「英磨さま」
男の小さくなっていく後ろ姿を見届けると、原さんは英磨さんをジロリと見た。
「は、原さん……」
おろおろしている英磨さんに、
「以前から申し上げているでしょう!うまい話はこの世にはないと!」
原さんは窓ガラスを震わせるような大声を叩きつけた。
「いかな投資の名人であっても、1か月で資産を倍にするなど、余程のことがなければうまく行きません!大隈の家を英磨さまの判断で傾かせれば、南部の家にも累が及びます!亡くなられた老公に、わたしは何と詫びればいいのですか!」
真剣な表情で英磨さんにお説教する原さんを見ながら、
(そう言えば、“英磨さまは人が良すぎる”って言ってたなぁ、原さん……)
いつか聞いたことを、私は思い出していた。“史実”では、その人の良さゆえに、多額の借金の保証人になってしまって、大隈家から離縁された……確か、原さんはそう言っていた。
「原は積極的に、英磨どのの面倒を見ているようですよ」
不意に、大山さんが私に告げた。
「金をたかろうとする者たちから英磨どのを守っているので、大隈さんも原のことをすっかり信頼して、“英磨の守り神だ”と言っています。伊藤さんや斎藤さんによると、“史実”では、原は、ここまで英磨どのの世話を焼いてはいないようです」
「原さん、大隈さんのこと、毛嫌いしていそうだけれど……英磨さんは主家筋だから別ってことか」
原さんは、盛岡藩の家老の家の出だ。盛岡藩の藩主だった南部家のことは、かつての主家として、大事に思っている。だから、“史実”の記憶を持つ原さんも、彼なりに、英磨さんに“史実”と同じ轍を踏ませはしないと頑張っているのだろう。
(そこは、私と同じってことか……)
窓越しの私の視線に気が付いた原さんが、ばつが悪そうな表情をしたので、私は微笑しておいた。後で原さんにブツブツ文句を言われるだろうけれど、無視しておこう。
「さて、梨花さま。馬車に乗る気力は湧きましたか?」
原さんが英磨さんを促して、洋間の窓から離れて行くと、私の非常に有能で経験豊富な臣下が声を掛けてきた。
「そうね……」
私は室内をぐるっと見回した。“史実”では、大隈さんの家は去年焼けてしまったのだけれど、この時の流れではその火事は起こっていない。室内は、11年前にここを訪れた時のままだった。
(ああ、そうか……)
先ほど頭を過ぎった疑問に回答を与えられたので、私はホッとして頷いた。大隈さんの家のこの洋間に、大山さんと2人きりになったのは、11年前も同じだった。
「いかがなさいましたか?」
大山さんが、私の眼を覗き込んだ。彼も私も年を重ねたけれど、彼の優しく暖かい眼差しは、11年前と変わりなかった。
「昔のことを思い出していた」
私は正直に大山さんに答えた。「脚気討論会の直前も、ここで大山さんと2人きりになった。その時のことを思い出していたの」
「確かにそうでした。覚えております」
首を縦に振った大山さんに、
「あの頃はね、大山さんと2人きりになるのが嫌だったの。……正確に言うと、あなたに“梨花さま”と呼ばれるのが嫌だった」
私は軽くため息をつきながら言った。
「存じておりました」
大山さんは微笑した。「美しい御名ですのに、なぜお嫌いなのかと、不思議に思っておりました」
「今なら、私が前世で、自分の心を縛り付けちゃったから、嫌いになってしまったんだと分かるけれど」
私は顔に苦笑いを浮かべた。「でも、脚気討論会のころは、あなたに“梨花さま”って呼ばれると、何となく調子が狂ってしまって、できることなら、あなたと2人きりにはなりたくない、あなたに“梨花さま”と呼ばれたくない、と思っていた」
だから、この部屋で、大山さんに、“梨花さまと呼ぶのをやめて欲しい”とお願いして断られた時、なぜ彼と君臣の契りを結んだ時に、前世の名前を名乗ってしまったのかと後悔したのだ。だけど……今は、かえってこれでよかったのかもしれないと思う。
「梨花さま」
我が臣下が、主君を呼んだ。
「何?」
「今は……この御名を、どのように感じられておりますか?」
「また、難しい質問を投げてきたわね……」
私はそう言うと目を閉じた。手元の扇子がどうしても気になってしまって、片手でそれをいじりながら、考えを深めていく。
「嫌いではないな、確実に」
女医学校で学んでいた頃、“半井梨花”と偽名を名乗っていても、全く不快ではなかった。前世では、“梨花”という名前にどこか引け目を感じていたのにも関わらず、である。正直なところ、もう一つの偽名の“千種薫”よりしっくり来ていた。
そして、お父様が名付けてくれた章子という名前。もちろんそれも馴染むのだけれど、前世の名前であり、今の雅号である“梨花”も、私の名前なのだと心から思えるし……。
「うん、……好きだな。私の大切な兄上と、私の大切な臣下であるあなたが、私を呼ぶときに使う名前だから、好き」
「そうですか」
私の答えを聞くと、大山さんはニッコリ笑った。
「それは、梨花さまがご成長された証ですよ。梨花さまがご自身を縛っておられた鎖を断ち切られたことで、眠っていたご天質が芽吹いた……それゆえでございます」
「天質が芽吹いた、か……」
私は苦笑した。こんなことを他の人に言われたら、“恥ずかしい”と答えていたかもしれない。けれど、私の大切な臣下の言葉だから、素直に受け取ることが出来た。
「確かに、まだ女性としては、いいえ、淑女としては、成長の途中かしらね。この服を脱いでしまいたいとは思わないけれど、裾は何とかしたいもの」
そう答えると、
「ふふふ……では、この裾の長さに慣れるまで、機会があれば何度でも、通常礼装を着ていただきましょう。ドレスを立派に着こなされることも、一国のプリンセスとしては、第一印象をよくするために必要なことですからね」
我が臣下は私に宣告した。こうなってしまっては、彼に逆らうことはできない。私は素直に頷くしかなかった。
「さて、青山御殿に帰りましょうか。……大山さん、エスコートしてくれる?」
白手袋をはめた右手を前に差し出すと、
「承知いたしました、梨花さま」
初めて私をエスコートしてくれた11年前と同じように、大山さんは私の右手をそっと握ってくれたのだった。
※実際には、この時の式典は早稲田大学の開校式も兼ねているのですが、話がややこしくなるので、20周年記念式典のみにしています。また、式典会場は屋外でした。(「早稲田大学百年史」より)
※なお、大隈英磨さんも、実際にはこの時点で大隈家から離縁されているのですが……拙作ではこうなりました。




