閑話 1902(明治35)年処暑:日露の裏面
※呼称ミスを修正しました。(2020年9月6日)
1902(明治35)年9月3日水曜日、午後3時。
「以上が、鳥島の伝染病調査隊からの報告になります」
葉山御用邸の会議室。居並ぶ閣僚たちの前で淡々と報告したのは、青山御殿の別当……中央情報院総裁の大山巌だった。
「ふん、悪運の強い奴らめ」
上座の方で忌々しげに呟いたのは、内閣総理大臣の伊藤博文である。
「やはりうまくはいかぬな。全員、この世から消えてくれてよかったのだが」
枢密院議長の山縣有朋が顔をしかめながら言うと、
「しかし、“史実”では全員死ぬはずだった島民の7割ほどを救って帰って来ています。東京帝大の大森教授も、“火山噴火の資料が手に入った”と喜んでいました。これで青山たちの罪は帳消しになったのでは?」
下座から、齊藤実参謀本部長が申し出た。
“史実”では、この8月7日から9日の間に、伊豆の鳥島という火山島で大噴火が発生した。発生日に幅があるのは、“史実”では目撃者になるべき島民が噴火で全員が死亡し、情報が外部に伝わらなかったからである。そんな島に、厚生省は7月から、“伝染病調査のため”と称して医師団を派遣した。団長は赤十字社病院内科部長の青山胤通、その他の団員は、赤十字社病院で青山医師の下で働いており、最近ロシア公使館に派遣されていた内科医師と、東京帝大付属病院の若手の外科医師4人の計5人……いずれも、“梨花会”の面々により、今上の第4皇女、実質的な長女である増宮章子内親王を窮地に陥らせたと認定された者だった。
そして、医師団の派遣中の8月8日、鳥島で噴火に伴う大規模な水蒸気爆発が立て続けに起こった。125人の島民のうち、3割弱は最初の噴火に巻き込まれて死亡したが、最初の噴火を生き延びた医師団は、生き残った島民たちを指揮し、彼らと一緒に鳥島を脱出したのである。大山総裁が読み上げた報告書には、その顛末が記されていた。
すると、
「そんな訳がありますか、斎藤君」
大山中央情報院総裁が穏やかな口調で答え、ニヤリと笑った。しかし、その笑みは完全に、獲物を前にした肉食獣のものだった。
「梨花さまを窮地に陥れた罪、島民たちを救った程度では到底償えません」
殺気を隠そうともせず、大山中央情報院総裁は相変わらず穏やかな声で言う。己の主君に危害を加えた者は全て排除するという決意が、その立ち姿からは滲み出ていた。
「しかし、ちと、やり過ぎではないかのう、弥助どん。帝大の医者の件、増宮さまは隠しておったんじゃろう?それは、弥助どんに過剰な報復をされたくないというお気持ちの表れではないか?」
前国軍大臣で、現在は迪宮裕仁親王・淳宮雍仁親王の輔導主任を務めている西郷従道が、苦笑交じりに従兄をたしなめるが、
「そうだとするならば、梨花さまの詰めが甘いことになります。健次郎どのの言葉に動揺されて、帝大病院の外科の採用面接の際に、梨花さまの世で言う“セクハラ”を受けたことを告白なさったのですから。東京に戻ったら、また梨花さまに修業に励んでもらわなければなりませんな」
大山総裁はむしろ嬉しそうに目を細めた。
と、
「ふん、これで死ななかった故、次は小田原大海嘯か」
奥から厳しい声が飛んだ。居並ぶ臣下たちに無理やり1週間の避暑に連れ出され、機嫌が悪くなっている章子内親王の父親の言葉に、一同は頭を垂れた。
「せいぜい死ぬまで、災害に苦しむ民たちの役に立ってもらおう。朕の娘を窮地に追いやった罪、この程度で消えると思うなよ」
……以後、青山胤通以下、鳥島の伝染病調査に従事した6名の医師は、国や赤十字社の仕事で出張する度に、必ず災害に巻き込まれることになった。そして、団長であった青山は、「青山行くところ災厄有り」と医者仲間から陰口を叩かれながらも、災害現場での人命救助に邁進し、後世、“災害医学のパイオニア”と呼ばれることとなる。
だが、そのきっかけが、ある女性への彼の執着にあったこと、そして、彼の出張先の選定に、日本の政治の中枢が深く関わっていたことは、歴史の闇に葬り去られたのであった。
一方、同時刻、ロシア帝国の首都・サンクトペテルブルク近郊にあるアレクサンドロフスキー宮殿。
「陛下……」
今年初めから内務大臣の座に就いているヴャチェスラフ・コンスタンチノヴィチ・プレーヴェは、執務室の椅子に深く腰掛け、明らかに落胆している皇帝・ニコライ2世の姿に困惑していた。
「姫……私の可愛い姫よ……」
当年とって34歳の皇帝は、日本から届けられた電報を眺めながら、しきりに嘆息する。電報には彼が愛する日本の姫君……増宮章子内親王が、軍籍に入り、日本の軍医学校に入学したことが記されている。それは、章子内親王が日本の条例の支配下に入り、外国人である皇帝との結婚が完全に不可能になったことを意味していた。
「だから言ったではないですか、無意味なことであると」
プレーヴェ内相は、今日3回目となるセリフを彼の皇帝に投げかけた。
「そもそもが、東洋人で異教徒の女性を、しかも進んだ女性を娶ろうなどという考え自体が間違っているのです。他の皇族や貴族からの反発は必至、皇太后陛下も大反対されている。おまけに、ドイツとイギリスとイタリア、更にはデンマークにオーストリアにスペイン、……ヨーロッパの各王室がこの婚姻に反対し、婚姻を強行した場合は我が国に攻め入るとまで通告してきている。陛下があの東洋の姫に執着しているのは分かりますが、その執着が我が帝国を滅ぼしかねないのですぞ!」
声を励まして内相が反論すると、
「むぅ……それは分かっている。分かってはいるが……」
皇帝は明らかに苦悩の表情を顔に浮かべ、
「……朝鮮の義和君のように、姫を密かにさらうのもダメか?」
プレーヴェ内相に懇願するように尋ねる。
「絶対に不可能なことをおっしゃらないでください!」
プレーヴェ内相は激しい声で言い切った。「穴が開き放題のザルのような警備体制だった義和君と比べるのが間違っています!あの姫の側には大山がいます!あれを打ち倒すのに、一体何十万人の兵をつぎ込まなければならないと思っていらっしゃるのですか!」
お気に入りの内相からの叱責を、ニコライ2世は唇を尖らせて聞いていたが、
「お前がそこまで言うならば、仕方がない……」
と、本日3回目となる言葉を口にした。
「ええ、お分かりになったならば、それでよろしいのです。ほら、さっさと執務にお戻りください」
プレーヴェ内相の声に、ニコライ2世は渋々ペンを取り、決裁書類に目を通し始める。だが、その目は机の上の写真立てにチラチラと注がれている。その写真立ての中には、ドレスを着た章子内親王の写真が納まっているのだ。そんな皇帝の様子を見ながら、プレーヴェ内相は密かにため息をついた。
(ヴィッテの時も、陛下はこんな調子だったのだろうか?)
ふと、自分の前任者のことが頭を過ぎるが、次の瞬間、プレーヴェ内相はそれを打ち消した。自分自身が閑職に追いやった者のことなど、もはや役立たずの用済みなのだ。偉大なるロシア帝国を世界に打ち立てるために、彼には今の閑職でおとなしくしてもらおう。
「姫よ……」
再び涙を流し始めた皇帝の姿に、プレーヴェ内相は頭を抱えたのだった。




