起死回生の一手
「……そうですね、増宮殿下が無事に医師免許をお取りになったのも分かったことです。これから陸奥大臣の所に行って、あなたのロシアへのお輿入れをご検討いただくとしましょう。賢明なご判断を要望致しますよ、増宮殿下」
1902(明治35)年6月28日土曜日、午前11時57分。
東京至誠医院で、弥生先生の代診をしていた私の前に突然現れた、ロシア帝国の駐日公使・イズヴォリスキーさん。彼は私に高らかに告げると、くるりと踵を返し、診察室から出て行った。それに公使の通訳と、スパイ役の医者が続き、私の前から完全に彼らの姿が見えなくなると、私は糸が切れた操り人形のように、診察室の床に両膝をついた。
(畜生っ……!)
うつむいた私は、歯を食いしばった。ここが診察室でなかったら、床を思いっきり叩いていたところだ。
「あの、千種先生……?」
廊下に面した扉から、看護師さんが顔を出して、私に恐る恐る声を掛けた。
「あの人たち、先生のことを“殿下”って……あの、まさか……」
「ひ、人違いしてるんですよ!」
私は慌てて顔を上げ、その場を取り繕おうと試みた。
「よく言われるんですよ、増宮殿下に似ているって。全く、私、全然増宮殿下とは違うのにねぇ」
そう言って、顔に愛想笑いを浮かべたけれど、看護師さんの表情には、明らかに不審の色がにじみ出ている。
(まずい……これ、絶対怪しまれてる!この場をどうやって切り抜ければ……)
思考をフル回転させようとした私の耳に、午砲の響きが届いた。毎日正午に、中央気象台の近くで打っている空砲の音だ。
「ああ、仕事が終わる時間ですね。……私、帰ります」
ここは、“三十六計逃げるに如かず”という奴だろう。私は立ち上がって荷物をまとめると、そそくさと診察室から立ち去った。玄関の引き戸を開けると、ちょうど千夏さんが門からこちらに向かって来るのが見える。様子が普段と変わらない所から考えると、千夏さんはイズヴォリスキーさんとは出会わなかったらしい。
「お嬢さま?」
私の姿を認めるやいなや、千夏さんは私に駆け寄った。「お顔色が……」
「千夏さん……自転車を2台、月曜日まで至誠医院に置かせてくれって、頼んでもらっていいですか?」
心配そうに私を見つめる乳母子に、私はこう頼んだ。いつも“けった”と言っているので、彼女や兄には、自転車のことを“けった”と言っても通じてしまう。
「ちょっと……今日は、自転車で帰るのは無理です。流しの人力車を拾って、2人で乗って帰りましょう」
氷水を頭から浴びせられたような感覚が、身体から全く消えない。心臓の鼓動も、やけに大きく耳の中で響いている。私が激しく動揺しているのは明らかで、……こんな状態で自転車に乗ったら、途中で事故を起こしかねない。
「はいです!」
千夏さんは玄関の引き戸を開け、医院の中に入る。それと入れ替わるようにして、私は急に重くなった身体を引きずっていくように歩いていき、門柱のすぐそばでしゃがみ込んだ。
(どうしよう……ロシアに、医師免許のことがバレた……)
イズヴォリスキーさんは、これから陸奥さんの所に行くと言っていた。千種薫が私の変名であると証言する人間まで、ロシア側は手に入れてしまっている。いかに陸奥さんでも、言い逃れることは難しいかもしれない。
しかも、ニコライ陛下は、私の身柄を手に入れるためなら“何をしてもいい”と言っているらしい。それには誘拐や……下手をすると、戦争まで含まれてしまうのだろうか。
(ニコライ陛下と結婚なんて、兄上とお父様のそばにいられないから、ありえないよ……。でも、私がニコライ陛下と結婚しないと、日本とロシアが戦争になっちゃうのかもしれない。私は梨花会のみんなを助けたいのに、こんな、梨花会の皆の足を引っ張るようなことを……)
頭の中がグルグルする。悔しさと辛さが一気に身体に圧し掛かって、心がつぶれてしまいそうだ。
(私、どうしたらいいんだ……?大山さんには、“あなたの主君に相応しい淑女になる”って言ってたのに、女だから、ピンチに陥るなんて……。ああ、私が女じゃなかったら、みんなに迷惑を掛けずに、足を引っ張らずに済んだのに……!)
涙がこぼれ落ちそうになったその時、こちらに近づいてきた馬の蹄の音が、私の前で止まった。顔を上げると、四頭立ての馬車の車体から、黒いフロックコートを着た紳士がちょうど降りてきたところだった。
「ちょっ?!」
余りのことに、私は目を見開いた。
「あ、あなた、こんな白昼堂々……」
「緊急時ですから、やむを得ず」
大山さんは微笑しながらそう答えて、“あなたを見知っている人に見られたらどうするの!”という私のツッコミを封じてしまった。
「さ、馬車へどうぞ」
差し伸べられた大山さんの左手を掴むと、私はそれに縋るようにして立ち上がった。彼にエスコートされるまま馬車に乗り込むと、馬車の扉の向こうに、千夏さんの姿が見えた。
「千夏どの、お嬢さまを連れて先に戻ります。千夏どのは、ゆっくり戻っていらっしゃい」
大山さんが外に向かって声を掛けると、扉が閉まり、馬車は滑るように動き始めた。
「……千夏どのが梨花さまを迎えに行った直後でしたが、手の者が、至誠医院にロシア公使が向かったと伝えてきましたので、急行いたしました」
大山さんは私の隣の席に座ると、私の手を優しく取ってこう言った。
「大山さん……私、取り返しのつかないことをした……」
非常に有能で経験豊富な臣下をまともに見ることが出来ず、私は俯いたまま呟いた。
「そのせいで、兄上とお父様を……梨花会の皆を窮地に陥れて……。最低だよ、私。ドジ踏んで、女であるばかりに、皆の足を引っ張るなんて……」
(私のせいで皆がピンチに陥るんだったら、もう、私なんて、いなければ……)
すると、私の身体に、横から優しく力が加えられた。
「梨花さま。久々に、悪い癖が出ましたよ」
私をそっと抱き締めながら、大山さんは囁くように言った。「ご自分がいなければいいのに、とお思いになったでしょう。髪型をシニヨンに変えてから、ご自身を自ら傷つけることは、ほとんどなくなっておりましたのに」
「でも、今回の件は、私がドジ踏んだから起こったことで、全面的に私が悪くて……!」
「梨花さま」
囁くような声に、少し硬さが混じる。私は大山さんの腕の中で、思わず身を竦めた。
「俺の目を、見てくださいませんか」
大山さんの囁き声が、容赦なく、私の耳に注がれる。
怒られてしまうだろうか。けれど、私の大切な臣下の要望には、応えなければいけない。私は恐る恐る、視線を上げた。
「そう、それでよろしゅうございます」
私の視界に飛び込んできたのは、我が臣下の微笑みだ。そして、いつもと変わらない、優しくて暖かい瞳。
それを意識した瞬間、あれだけ嵐に揉まれて、滅茶苦茶になっていた私の心が、激しい動きを止めた。まるで魔法に掛かったかのように、静かさと穏やかさが、私の心と身体を急速に満たしていく。
「梨花さま、現状を把握しましょう」
穏やかな声が、私の耳に流し込まれた。「それをしないことには、有効な策は立てられません」
「……前世での初めての上級医と、似たようなことを言うね」
私は苦笑しながら臣下に答えた。
「困難にぶち当たったら、現状を把握しろ……事あるごとに言われたよ。その教えを実行したから、この時代に転生したってわかったんだけど」
「それは、よい上司をお持ちでしたね」
大山さんの手が、私の頭を撫でる。その時には私の心は、すっかり穏やかさを取り戻していた。
「さぁ、梨花さま、何が起こったかを、事実に基づいてお話しください。そして、現状を把握しましょう。この大山も、お手伝いいたしますから」
非常に有能な臣下の言葉に、私は頷いた。
それから、馬車の中で、そして、青山御殿の私の居間で、私は大山さんに、今までに起こった出来事の話をした。全て話し終えたのが午後1時半になってしまったのは、大山さんがところどころ、
――それは、主観に基づく推測に過ぎません。事実だけをお話しいただくようお願いします。
と、私の話し方に注文を付けたのと、
――補給はきちんとしなければなりませんよ。
と、青山御殿に到着するなり、嫌がる私を食堂に引っ張って行き、昼食を摂らせたからだ。食欲は余り無かったのだけれど、大山さんに勧められて無理に一口食べたら、意外にも食べ物がするすると胃の中に入っていき、気が付いたら、私は出された食事を全て食べ終えていた。
「なるほど、起こったことの把握はできました」
私の居間の椅子に座った大山さんは、そう言って何枚かの紙をテーブルの上に置いた。紙の上には、鉛筆でびっしりと書き込みがされていた。
「淳宮さまがお生まれになった日に、ロシア公使の部下の医者が、患者に化けて梨花さまの診察を受けた。その時たまたま、ベルツ先生がドイツ語で梨花さまを“殿下”とよび、それに梨花さまが返事をなさったことで、梨花さまの正体が露見した。梨花さまの正体を知ったロシア公使は、梨花さまの正体を暴きに至誠医院にやって来た……」
「うん……」
一連の出来事を見事にまとめた我が臣下に、私はため息をついた。
「イズヴォリスキーさんは、陸奥さんの所に行くって言ってた。今頃、陸奥さんがイズヴォリスキーさんに責め立てられてるよ」
「ロシア公使の動きは、俺が青山御殿を出る前に、陸奥どのに急報しました。陸奥どのなら、至誠医院で何が起こったかを察せるはず。そう簡単に、イズヴォリスキー公使に屈することはありません」
大山さんは私を宥めるかのように言って、微笑する。
「……梨花さまとベルツ先生が過失を犯したのは、お2人とも、平生の心持ちでは無かったからでしょう。淳宮さまがお生まれになったのに引き続き、弥生先生も産気づいたという尋常ではない状況。よほど修業を積んだ者でなければ、平常心を保つことはできません。現に俺も、誰にも見られることは無かったとは言え、至誠医院にお夕食とお夜食を届けてしまいましたし」
言われてみれば、その通りだ。普段の大山さんなら、女医学校にも至誠医院にも、絶対近づかないだろう。
「平常心、か……」
私は肩を落とした。「大山さんでも難しいなら、私だと、もっと難しくなるね。師匠にも“平常心が大切”って、よく言われるけど」
ちなみに、私の剣の師匠である橘周太さんは、この4月に歩兵少佐に昇進している。本来なら、国軍の士官は何年かに一度転属があるのだけれど、本人、そして兄と私の強い希望により、橘少佐は現職の東宮武官にとどまっていた。
「だけど……どうしよう、これから。このままだと、私、ロシアに嫁がないといけなくなる……」
私は俯くと、太ももの上から両手で女袴を掴んだ。
「ロシアに嫁いでしまったら、兄上とお父様を、そばで守れなくなっちゃうけれど、嫁がなかったら、下手をすると、ロシアと戦争になっちゃう……。それで、たくさんの人が、理不尽に死んじゃったら……」
言葉を口にするほど、感情が言葉に混ざっていく。
「私……なんで、女なんだろう……」
率直な思いが口からこぼれた時、目からぽろっと涙が流れ落ちた。
「女じゃなかったら、こんなことであなたたちの足を引っ張らないで済むのに……。でも、あなたは私のことを、淑女だと言う。お母様も、女性であることは捨ててはいけないって言う……。私、どうしたらいいか分からないよ!」
「梨花さま……」
「大山さん、なんで……なんでこの時代は、女であることで、こんなに生き方を縛られてしまうの?!」
叩きつけるように質問すると、
「……確かに、梨花さまの時代のお話を聞いていると、この時代に対して、梨花さまがそう思われるのも無理はありません」
大山さんが、寂しそうに微笑した。「女であることだけで、鎖に縛られ、生き方を制限されている、と……。ですが梨花さま、もし、この時代の女性が鎖に縛られているのであれば、梨花さまは、それを断ち切る剣をお持ちです」
「私が、剣を……?」
「天皇陛下と皇后陛下の大事なご長女であらせられるということ。梨花さまの生き方そのものが、この時代の女性たちに、一つの例を示すことになります。梨花さまの後ろに、女性たちの歩く道が続いていると言ってもいいかもしれません」
(そう言えば……)
――殿下の目指される生き方は、“旧来の陋習”に真っ向から立ち向かうもの。殿下の歩まれる道、その後ろから、女子の新しい生き方が芽生えてくるでしょう。
以前、陸奥さんにも同じようなことを言われた。私が内親王であるということ。それこそが、私が望もうと望むまいと、周りに影響を及ぼすのだ。
「つまりは、私の生き方次第で、……私の心次第で、鎖を断ち切ることもできると言うこと?」
私が確認するように尋ねると、
「はい、梨花さまの御心のままに」
大山さんは即座に答え、恭しく私に頭を下げた。
「って言っても、人の道に反することはいけないよなぁ……」
私は両腕を組んだ。「皇族の誰かと偽装婚約するというのは一つの手だけれど、それは道義的にいかがなものかな。それに、恒久王殿下も、邦芳王殿下も、“偽装でも婚約は断る”って言うだろうね」
北白川宮恒久王殿下と伏見宮邦芳王殿下。私と年が釣り合う男子皇族はこの2人だけれど、2人とも私に怯えている。たとえ偽装と分かっていても、私と婚約しろと言われたら、全力で断って来るに違いない。
「だから、差し当たってこの事態を解決するには、外国人と結婚できないような職業に就ければいいかな、と思う。だけど、私、外交官にはなれないしなぁ……」
陸奥廣吉さんの結婚の時にも問題になったけれど、外交官は外国籍の人と結婚することが出来ないそうだ。だから、廣吉さんはエセルさんに日本に帰化してもらった上で結婚にこぎつけた。私も英語とドイツ語には苦労しないから、外交官も何とか出来るかもしれないけれど、外交官になるための試験を受けるには、最低でも高等学校卒業が必須だと聞いたことがある。だから、女学校を中退した私には無理だ。女性が外交官になるのは、私の時代なら普通にあることなのだけれど……。
「確か、軍人も、外国人との結婚はダメだった気がするけれど……軍人も無理だなぁ。私の時代なら、女性の自衛官もいたけれど。憲法にも……」
“軍人になれるのは男子のみ”って書いてあったよね、と言おうとして、違和感を覚えた。数年前、山田さんから教わった憲法の内容を、必死に思い出す。確か条文には……。
「“日本臣民は法律の定むる所に従い兵役の義務を有す”……」
「憲法の条文ですね」
私のつぶやきに、大山さんが返した。
「書いてない……」
「は?」
「書いてないよ!“兵役は男子のみ”って憲法には書いてないよ、大山さん!女は軍人になっちゃいけないって書いてない!」
てっきり、憲法で“兵役は男子に限る”と規定されていると思い込んでいた。けれど、記憶をたどると、憲法そのものには、性別については記載されていない。
「確かに、兵士が男子に限られるのは、憲法ではなく、徴兵令という法律の方で“男子に限る”と決められているからですが……」
興奮気味の私の言葉に、大山さんは少し考え込んで、
「いや、もしかするとこれは、結婚条例も絡めれば……」
と呟いた。
「結婚条例?」
「はい、国軍合同の時に作りました、現役軍人の結婚に関する条例です。士官候補生と、兵役に6年未満しか就いていない兵卒は結婚不可、そして、先ほど梨花さまがおっしゃったように、結婚する場合も相手は日本人に限る、という項目がありまして」
私の質問に、大山さんは答えた。彼の表情が生き生きし始めたのは、私の気のせいだろうか。
「ええと……つまり、どういうことかな?」
「梨花さまに国軍に入っていただければ、梨花さまは国軍の結婚条例に従わなければならないので、外国人のニコライ陛下との結婚は出来ない、という大義名分が出来ます」
大山さんはそう言って、悪戯っぽく微笑んだ。「大義名分さえ出来てしまえばこちらのもの。イギリスやドイツ、イタリア、デンマーク、スペイン……ヨーロッパの各王家も、ニコライ陛下の行動を心置きなく制止できます。それに、お母上のマリア皇太后陛下も猛反対されるでしょう。そうなれば、ニコライ陛下も、ご自身の要望を撤回せざるを得なくなります」
「いや、それでニコライ陛下の結婚を断れるとして、私が国軍に入るって……どの兵科になるの?」
「もちろん、軍医です。軍医学校は、医師免許さえあれば無試験で入学できますから、そこに入学していただければ」
「いや、そうだけど……」
にわかに具体的になり始めた話に、私は戸惑っていた。確かに以前、ちびっ子王殿下たちに、“軍人になれるとしたら軍医になりたい”と言ったことはあったけれど……。
「肝心の徴兵令はどうするのよ?憲法が大丈夫でも、その下にある法律が変わらないことには、私は軍医になれないでしょう?」
すると、
「改正しましょう」
我が臣下は、事も無げに提案した。
「へ?」
「議会で改正案を可決すれば済むことです。軍医学校の入学は9月ですから、そうですね、8月の頭までに可決できれば……」
「って、今、議会は閉会中でしょ?!」
確か、私が医術開業試験を受験した5月の頭ごろに、帝国議会は一度閉会したはずだ。
「……招集致しましょう」
「はい?!」
「招集致しましょう!」
……後の世に“増宮議会”とも称されることになった、帝国議会の臨時会が招集されるきっかけは、この日、1902(明治35)年6月28日、我が臣下が力強く言い放った、この言葉だった。
※実際には陸軍と海軍で別々に、似たような内容の現役軍人結婚条例が制定されていますが、明確に外国籍の人との結婚は禁止されていません。(ただ、実際には上官の許可が必要なので、その時に“外国人はダメ”という暗黙の了解が働いていた可能性はあります)ご都合主義的にこのように条例を作ってしまいました。ご了承ください。




