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転生内親王は上医を目指す  作者: 佐藤庵
第30章 1902(明治35)年小満~1902(明治35)年処暑
219/803

2例の出産(1)

 1902(明治35)年6月25日水曜日、午前1時。

「宮さま……宮さま……!」

 青山御殿の自分の寝室。布団の中でぐっすり眠っていた私は、遠くからの声で、眠りに沈んでいた意識を、無理やり外界に引っ張り出された。

「むー……」

 反射的に掛布団をしっかり握り、意識を再び眠りに委ねようとしたけれど、

「宮さま!」

障子の外からの声は、更に音量を増して、私と眠気の連絡を容赦なく切り裂いていく。

(当直じゃないんだからぁ……眠らせてよ……)

 諦めずに、眠りの世界に落ちて行こうとしたその時、障子が開く音がした。閉じているはずの瞼を通して、電灯の光が目を襲う。

「ん……」

 仕方なく、眼を細く開けると、

「宮さま、起きてください」

千夏さんの元気な声が、私の鼓膜に響いた。

「どうしたの……一体……」

 必死に瞼を閉じないようにしながら尋ねると、

「お休みの所、大変申し訳ないのですが、皇孫御殿よりお電話が!」

懐中電灯を手にした私の乳母子は、廊下に平伏した。

「!」

 いっぺんに目が覚めて、布団の上に身を起こした私に、

「皇太子妃殿下の陣痛が始まったとのことでございます。すぐ、皇孫御殿に御成りを!」

千夏さんは元気よく告げた。

「……分かりました。今から着替えますから、部屋の電灯をつけてもらっていいですか?」

「はいです!」

 千夏さんは立ち上がり、寝室の電灯を点けてくれた。

(早かったな……)

 紫の矢羽根模様の着物を手早く身につけながら、私は総理大臣の伊藤さんに言われたことを思い出していた。

 迪宮さまの誕生に関して、「“史実”と同じく、妃殿下が男児を産んでくださるように」ということで、“史実”での日程と同じように、兄と節子さまのスケジュールを組んだ伊藤さんだけれど、今回の節子さまの2回目の出産も、「“史実”と同じく男児を産んでくださるように」ということで、伊藤さんの後任の東宮大夫になった児玉さんと一緒に、兄夫婦の避暑のスケジュールなどを設定していた。そして、節子さまは“史実”と同じタイミングで身ごもった、という訳だ。“史実”での出産の日は6月25日、つまり今日だったのだけれど、まさか、“史実”と同じように、日付が変わったばかりのタイミングで陣痛が始まるとは思ってもみなかった。

 海老茶の女袴を付けると、髪をポニーテールに結う。千夏さんがポニーテールの根元に紫色のリボンを結んだ時、部屋の時計は1時20分を指していた。あくびで大きく開いた口を右手で押さえた時、千夏さんの視線が、私の顔に注がれているのに気が付く。

「どうしたんですか、千夏さん」

 顔を上気させて私を見つめていた千夏さんは、私の声を聞いた瞬間、頭を左右に振り、「いえ、なんでもありません」と返事した。そして、

「さ、行きましょう、宮さま」

と言って、私の先に立って玄関まで歩いて行った。

 御料地の中の道を通り、皇孫御殿に着いたのは、午前2時前だった。分娩所があるのは皇孫御殿なので、今月に入ってから、兄夫婦は節子さまの出産に備えて皇孫御殿に移動している。私が兄夫婦の使っているエリアに近づくと、

「ああ、来たか」

白い寝間着を着た兄が私を出迎えた。

「今、節子さまはどんな感じ?」

「だんだん、陣痛の間隔が狭まって来たな。裕仁の時より、進み方が早いようだ」

「そりゃ、出産を1回経験してるからね。2回目以降の分娩って、早く進むことが多いんだよ」

 心配そうに眉をしかめた兄に、私はわざと笑顔を見せた。

「順調に進んでるってことじゃないかな。……兄上、節子さまが良ければ、私、節子さまの所に行きたい」

「もちろんだ。節子もお前に会いたがっている。早く顔を見せてやってくれ」

「了解、兄上」

 私は兄に頷くと、そのまま奥に入っていった。

 兄と節子さまが使っている寝室では、布団の上に座った節子さまの両脇から、兄の実母である早蕨さんと、西郷さんの奥さんの清子さんが、節子さまの身体を支えていた。今まさに、陣痛が起こっているのだろう。節子さまの顔が歪んでいる。

「妃殿下!」

 早蕨さんと清子さんがいるので、改まった呼び方をしながら節子さまに近づくと、

「お姉さま……」

節子さまは私をこう呼んだ。

(ま、まずい!)

 私は節子さまに更に話しかけるのを躊躇ってしまった。節子さまは、私より1歳年下だ。けれど、系図上、私の義姉になるので、節子さまが私を“お姉さま”と呼ぶのは、正確に言うと正しくないのだ。本当は“章子さま”か、“章子”と呼び捨てにしなければならないのだけれど……。

 と、

「構わないと思います」

私にこう声を掛けたのは、早蕨さんだった。

「ええ、ここには、今は私たちしかおりませんから」

 清子さんもそう言って、私に微笑を向けた。

「ですからどうぞご遠慮なく、普段の呼び方でお呼びになってください、増宮さま」

 早蕨さんが私を見つめて、軽く頷く。これが万里小路さんだったら、「近しい間柄でも、礼儀は弁えなければなりませぬ」と、私と節子さまをガミガミしかりつける所だ。今日の節子さま付きの女官が早蕨さんだったことに感謝しながら、私は節子さまに近づき、

「節子さま」

と呼びかけながら、彼女の左手を握った。

「大丈夫だよ。分娩、順調に進んでるから。分娩所の中には入れないけど、私、ここにいるからね」

 医師免許を取ったことを公表していないので、女医学校と東京至誠医院以外に行く時の髪型は、ポニーテールのままだ。今もしっかり、ポニーテールを結ってきている。ポニーテールの先が、清潔にしなければいけないところにうっかり触れてしまう危険もあるから、清潔さが求められる分娩所には、私は入れない。だから、私はここで、節子さまの側にいることしかできないのだ。

「うん……お姉さまがいらっしゃれば、安心です」

 節子さまは、私の手をぎゅっと握りしめ、ほほ笑んだ。

 どのくらいの時間、節子さまの手を握っていただろうか。気が付くと、障子が夜明けの光でほの白くなり、節子さまの陣痛の間隔も短くなっていた。

「子宮口が全開大しています」

 定期的にやって来る助産師さんが、節子さまの診察をするとこう言った。

「陣痛も、5分間隔になってます。そうなると、そろそろ分娩所に移動でしょうか?」

 私が助産師さんに尋ねると、

「ええ。……妃殿下、お立ちになれますか?」

助産師さんは頷いて、節子さまを促す。節子さまは黙って頷いて、立ち上がった。

「節子さま、頑張ってね」

 早蕨さんと清子さん、そして助産師さんに付き添われ、節子さまが分娩所に向かう。隣の居間に控えていた兄と、迪宮さまの輔導主任である西郷さんも廊下に顔を出し、節子さまを見送った。

(さて、と……)

「兄上」

 私は、節子さまの去った方向を見つめている兄に、大きく伸びをしながら声を掛けた。

「ん?」

「寝るから、座布団を貸して」

 あくび交じりに頼むと、「は?!」と兄が目を丸くした。

「お前……どういうことだ?!」

 私の両肩を掴んで身体を揺さぶる兄に、

「だって、今日は午前中から、生理学の講義をしないといけないのよ……」

私はこう答えた。張りつめていた気が緩んだのか、一気に眠気が襲ってきている。どこでもいいから、早く横になって眠りたい。

「万が一、弥生先生の陣痛が始まったら、私、医院の代診をしないといけないし……朝ごはんまで、少しでも身体を休めようと思って……」

 そう言っていると、西郷さんが座布団を持ってきて、私に手渡してくれた。

「あ、ありがとうございます、西郷さん。……じゃあ、おやすみなさい」

 座布団を二つ折りにして、それを枕にしてその場に横になると、

「だから、なぜそうなる……。仕事は休めばいいだろうが」

兄の呆れたような声が、上から降って来る。

「そうしたいのは山々だけど、さ……“兄嫁の出産に立ち会った”って言って休んだら、私が内親王だって、バレるかもしれないよ……」

 眠気と戦いながら、ようやく兄に返答すると、西郷さんの大きな笑い声が聞こえた。

「ははは……なるほど、別の戦に備えて、休養を取るということですな。そういうことならば、掛け布団もお持ち致しましょう。万が一、増宮さまに御出馬いただきたい事態となりましたら、起こしますので」

「ありがとうございます……私、夢の中で、節子さまの出産が無事に終わることを祈ってます……」

 半分夢見心地で西郷さんに答えると、

「ああ、もう……。分かった。寝るなら居間で寝てくれ!」

兄が無理やり私の身体を引き起こし、引きずるようにして居間に連れて行ってくれた。

 兄と節子さまの居間で再び横になると、意識は途端に眠りに沈んで、再び目を覚ましたのは、もうそろそろ8時になろうかという頃だった。

「梨花、起きろ」

 兄の声とともに身体を揺さぶられ、私は跳ね起きた。

「兄上?!何かあった?!」

「無事に産まれたよ。元気な男の子だ」

 慌てる私に向かって、側に座っている兄は微笑んだ。「後産も終わった。節子の体調にも問題はないそうだ」

「よかった……」

 ほっと息をつくと、遠くからいびきが聞こえてきた。

「このいびき……西郷さん?」

「ああ。お前が眠った後、“果報は寝て待て”と言って、眠ってしまってな」

「兄上は?少しは眠った?」

 苦笑した兄に尋ねると、「いや……」と兄は首を横に振った。

「お前の寝顔を見たのは、何年かぶりだったからな。昔のことを思い出していたよ」

「そう言えば、そうね」

 確かに、兄のすぐそばで眠ったのは、本当に久しぶりのことだ。

「……そうしながら、節子と、産まれてくる子供の無事を祈っていた」

 兄の右手が、私の頭の上に伸びる。

「お前が俺のそばにいてくれて、心強かったよ」

 兄はこう言いながら、私を慈しむように撫でた。懐かしい、暖かい手の感触だ。

「私、寝てただけだけど?」

「それでもだ」

 兄はまた苦笑いを見せたけれど、私の頭を撫でるのを止めなかった。

「お前は俺を守ってくれる、俺の誇りの、美しい姫君だよ」

「そう……ありがとう、兄上」

 ニッコリ笑うと、兄は手のひらを私の頭にぐりぐりと押し付け、そっと放した。

「さぁ、こちらはもう大丈夫だ。お前は早く青山御殿に戻って、身支度を整えて出勤しろ。そして、やるべきことをしておいで、梨花」

「了解」

 微笑む兄に向かって、私は頷いた。


 青山御殿に大急ぎで戻り、朝食と身支度を済ませた私は、千夏さんを連れて自転車を飛ばした。今日の午前中は、前期試験受験の生徒たちに、弥生先生の代わりに生理学を講義するので、まずは牛込区の市谷仲之町にある、東京女医学校の校舎に向かった。

「ごぉがぁい!えー、ごぉがぁーい!」

 女医学校に向かう途中、鈴を鳴らしている新聞の号外売りとすれ違った。売られている号外は、兄に第2子が誕生したことを報じているのだろう。号外を手にした人々が、「おめでたいことだ!」などと喜びの声を上げているのが、すれ違いざまにも分かった。

 午前9時半の授業開始に何とか間に合い、教科書を開いて教室の黒板の前に立ち、講義を始めようとした瞬間、

「いたいた、半井さん!……じゃなかった、千種さん!」

吉岡荒太先生が、教室の扉を勢いよく開けた。

「どちらでもいいですよ」

 私は顔に苦笑いを浮かべる。正直なところ、母の苗字である“千種”より、前世の苗字である“半井”の方が、呼ばれ慣れているのだ。

「ああ、そうか……って場合じゃない、大変なんだ!」

 私の言葉に返答しかけた荒太先生は、顔をさっと上げ、

「すぐに至誠医院に行ってくれ。弥生さんの陣痛が始まった!」

と叫んだ。

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