お見合い騒動
1902(明治35)年2月1日土曜日、午後2時。
「先生方、ノーベル賞受賞、おめでとうございました!」
いつもの医科分科会の席に、今日は特別なお客様が参加している。青山御殿の私の居間で、私は北里先生・村岡先生・島津梅次郎さんに、深々と頭を下げた。
「いや……こちらこそ、ありがとうございました」
3人の真ん中に座っている京都帝国大学の村岡範為馳先生が、代表してお礼を私に述べた。
昨年12月10日、スウェーデンのストックホルムでノーベル賞の授賞式に臨んだ北里先生たちは、昨日帰国した。ノーベル賞の受賞により、北里先生たちは、学術の世界で顕著な功績を残したと世界中に認められたも同然なので、近日中に、男爵に列せられることが既に決まっている。
「正直、戸惑っているのです。一技術者が、華族に列せられることになるとは……」
やや呆然としている島津さんに、
「いいことだと思いますよ。日本は科学技術を大事にする、という姿勢の表れですから」
と私は答えて、にっこり笑ってみた。
「日本の研究者たちの、いい目標になります。研究者たちの意欲が上がった結果、その人たちの研究の中から、私の時代にも無かった素晴らしい研究が生まれるかもしれません。だから、爵位はきちんと受けてください。お願いします」
「はっ……。増宮殿下からここまで言われてしまっては、断る理由が無くなってしまいました。謹んで、爵位は受けさせていただきます」
北里先生が、神妙な面持ちで答えた。
「しかし、医科研は素晴らしいですね」
北里先生の隣に座ったベルツ先生が頷く。「最近では、清からの留学生も受け入れていますが、アメリカやイギリスなどからも留学の申し出があります。彼らの優秀な頭脳も戦力に加えて行くことができれば、医科研は世界有数の、いや、世界一の医学研究所になるでしょう」
「留学生の間では、山梨の孫文先生が目標になっているようですよ。先日、“ドイツ医事週報”に、また論文が掲載されましたしね」
ベルツ先生の向かいの椅子に腰かけている三浦先生はそう言うと、春の陽射しのような微笑を見せた。5年前の夏に初めて会った孫文さんは、あれから、日本住血吸虫の虫卵が水中で孵化すること、そして、日本住血吸虫が最終宿主に感染するときには皮膚を通じて感染することを証明した。更に、孫文さんは、虫卵から孵化した幼生が寄生する巻貝・ミヤイリガイも発見した。ちなみに、ミヤイリガイは、“史実”では宮入慶之助先生が発見したのだけれど、この時の流れでは孫文さんが発見したので、“ソンブンガイ”と呼ばれるようになっている。
「中間宿主のソンブンガイが見つかったから、それを生石灰で駆除することも始めないといけないけれど、最終的には、大規模な農地改良と一緒に、水路のコンクリート化も進めないといけませんね。それから、地域住民の皆さんへの衛生指導と……原さんと後藤さんにも相談しなきゃ。それから、井上さんにも。井上さんのツテで、甲州財閥の皆さんが農地改良に協力してくれたら最高ですね」
指を折りながら日本住血吸虫症の対策を並べ立てる私の言葉を、ノーベル賞受賞者たちは目を輝かせながら聞いてくれている。大山さんがいたら、もしかしたら私の言葉を止めるのかもしれないけれど、今日はまだ別館で仕事中なので、思う存分話をすることが出来る。
「でも、他の流行地のことも考えないと。日本にもあるし、あとは清にも、ねぇ……」
森先生、と呼ぼうとして、私は初めて居間に森先生がいないことに気が付いた。
「森先生はどうしたんですか?」
三浦先生に尋ねると、彼はベルツ先生に意味ありげな視線を投げた。
「……申し上げてもよろしいのでしょうか?」
三浦先生の心配そうな声に、
「構わないでしょう。殿下もいずれはご存知になることですから」
ベルツ先生は軽く頷きながら答える。
「何かあったのですか?」
北里先生が尋ねると、
「実は……森君は今日、お見合いをしているので、青山御殿には参りません」
……ベルツ先生は、とんでもないことを言った。
「お、お見合いっ?!」
目を真ん丸くした私に、
「はい、御母堂の勧めで、荒木さんという判事の娘さんと」
と、三浦先生が教えてくれる。
「その娘さんは、一度結婚したそうですが、すぐに離婚しています。しかし、荒木家は大地主で、その娘さんも、増宮殿下ほどではないですが、美人だそうです」
「今まで、森先生は、縁談はお見合いになるまでの段階で全て断っていたのですが、今回は断り切れなかったと……」
ベルツ先生と三浦先生から次々に与えられる情報に、目を見開いたままの私は、完全に翻弄されていた。バツイチだけれど美人、そして実家は大地主。それだけ聞けば、かなり良い相手のように思える。
(た、確か森先生もバツイチで、ご長男を引き取って育ててるんだよね。今年で12歳になるって言ってたけれど……。そ、その辺、大丈夫なのかな?)
頭がグルグルしているところに、廊下を誰かが近づいてくる気配がした。
「失礼致します」
廊下側から、障子を引き開けたのは母だった。
「どうしたの、母上?」
尋ねると、母が答えるより先に、母の背後に人影が現れた。医療関係の部署に配属されている軍人であることを示す真っ白な軍服に身を包んでいるこの男性は、森先生だ。その表情は、いつになく緊張しているように感じられた。
「も、森君?」
ベルツ先生が不審そうに声を上げた瞬間、
「増宮さま、お願いがあります!」
森先生が私に強い視線を浴びせながらこう言った。
「は、はい?」
お見合いをしているはずの森先生が、なぜ今、この青山御殿にいるのだろうか。疑問に対する答えを見つけようとしたその時、
「私と、男女交際をしてください!」
……森先生の口から、とんでもない言葉が飛び出し、私は座っていた椅子からずり落ちた。
「えっと……えっと……」
私は居間の床にへたり込んだまま、動けなかった。頭の回転も、突如として身体の中に湧き上がった熱で、一瞬のうちに停止寸前に陥ってしまっている。
「森君、一体どうしたというのだね」
ベルツ先生も、森先生に驚愕の目を向けている。「君が殿下を慕っていることは以前から知っていたが、突然、男女交際を申し込むとは穏やかではないね」
「ええ、ベルツ先生のおっしゃる通りです。畏れ多くも、増宮さまに対して無礼千万ではありませんか。……森先生、一体どういうことなのか、ご説明をいただけると幸いです」
こう言った三浦先生の顔からは、先ほどまでの穏やかさが完全に消えていた。北里先生の表情も硬いし、村岡先生と島津さんも、呆気に取られたような表情をしている。
「はい、実は……」
森先生は少しうつむきながら、私たちに向かって説明しだした。
森先生は、1888(明治21)年の9月にドイツ留学から帰国し、その直後、前の奥様と結婚した。2人の間には男の子も1人生まれたけれど、森先生と奥様の性格不一致から離婚に至ってしまった。それから、森先生は結婚せず、周囲から勧められる見合いの話も、うまくかわしていたのだけれど……。
「……今回の見合い話は、母が強引に進めた上に、方々に告げ回ってしまっていたのです。高木医務局長にまで、“今度息子が見合いをして結婚します”と言ったらしく……どうにも、断りようがなくなってしまいました」
(うわぁ……)
そう言ってうなだれる森先生が、私は気の毒に思えた。森先生のお母様は、息子の外堀を完全に埋める作戦に出たらしい。そして、今日のお見合い当日を迎えた森先生は……。
「先方には理由は告げず、結婚はお断り申し上げますとだけ言って、見合いの席を出て来ました」
森先生は言った。「どうやら荒木家の方では、私の母の強引な態度に閉口していたらしく、私の返事を喜んでくれました。しかし、今度は、私の母を納得させるような理由を考えなければなりません。そこで、自分が別の女性と交際していることにすればよいと考え付いたのです。もちろん、交際は偽装ですが」
「そ、それで、私を……?!」
「真っ先に思い付いた女性が増宮さまだったものでして……まことに申し訳ございません」
「いや、あの、その……」
頭を深々と下げた森先生を眺める私に、
「増宮さまの今後のためにも、よいのではないかしら?」
と、廊下に立って話を聞いていた母が言った。
「は、母上?!」
驚く私に、
「いつか現れるご結婚のお相手のためにも、増宮さまは、男女交際の作法を知っておく方がよいと思いますの」
母はこう言って、満面の笑みを私に向ける。ベルツ先生たちがいるから、今は私を“章子さん”ではなく“増宮さま”と呼んでいるけれど、もしベルツ先生たちがいなかったら、母は私の側に寄って、“章子さんには必要なことですよ”と言いながら、私の頭を撫でるのだろうな、と直感的に思った。
「だ、男女交際の……作法……」
まだ頭の中を駆け巡っている熱を冷ますべく、私は深呼吸をした。
確かに、男女交際の作法は、知っておいてもいいのかもしれない。兄にも、言われたことがある。“たくさんの男と会って、そやつと恋が出来るか見極める目を養わなければならない”と……。
(い、いつになるか分からないし、結婚の可能性はほとんどないだろうけれど……、その日のために、学んでおいた方がいいのかな……)
「あ、あの、森先生……」
意を決した私は、森先生に話しかけた。
「それで、私は、どうしたらいいんでしょうか……。と、とりあえずまず、おしゃれしたり、お化粧したりすればいいんですか?」
「そうですね。それで、明日一日、私と一緒に過ごしていただければ」
森先生は真剣な表情で答えた。「例えば……不忍池のほとりを一緒に散歩したり、上野の帝室博物館を見学したり……。それとも、浅草の仲見世や、銀座の方がよろしいでしょうか?」
「そ、そんなに、人が多いところに行くんですか……?は、恥ずかしい……」
顔を真っ赤にしてうつむいた私に、
「いえ、むしろそれが狙いです」
森先生は力強く断言した。「私の知っている者に出くわす確率も高くなります。増宮さまほどの美人と連れ立って歩けば、たちまち評判になりますから、母の耳に噂が入るのも早くなりましょう。そして、噂を耳にした母に問いただされれば、“その美人と付き合っていたから見合いは断った”と言えます。そうすれば、母も納得するでしょう。その後で、“その美人とは別れた”と私が母に言えば、全てが丸く収まります。流石に、母に増宮さまを会わせてしまうと、増宮さまにご迷惑が掛かってしまいますから、こうやってかわせば大丈夫です」
「な、なるほど……」
頷いた時、私の頭の回転は、身体中を駆け巡っている熱に当てられ、再び止まりそうになっていた。
「わ、わかり、ました、森先生。そうしたら、明日は、森先生と、一緒に……」
その瞬間、
「梨花さま?」
開けられていた障子の方から、声が聞こえた。振り向くと、母の隣に、いつの間にか大山さんが立っている。
「いかがなさいましたか?」
黒いフロックコートを着た大山さんは、床にへたりこんだままの私に近づくと跪き、私の右手を優しく取る。
「お、……大山さんっ!」
非常に有能で経験豊富な輔導主任兼別当の手を、私は力任せに握りしめた。
10分後。
「なるほど……」
私を促して椅子に座らせ、母にも椅子を勧めると、大山さんは自分も私の隣の席に掛けて、今までのいきさつを一同から聴取した。
「事情は分かりました。しかし森先生、ご聡明な先生らしくもありませんな」
話を聞き終わった我が臣下は、森先生に微かな苦笑を向けた。
「梨花さまを実際に外に連れ出さなくとも、医科分科会の面々に、森先生が別の女性と交際しているという噂を流すように、この場で頼めばよいではありませんか」
「た、確かに……」
激しく何度も頷く森先生を見ながら、ベルツ先生と三浦先生と北里先生が、明らかにほっとしたような表情になった。一方、大山さんの隣に座った母は、少しつまらなそうな顔をしていた。そんな一同の様子は意に介さず、
「それか、梨花さまに令旨を出していただければよろしいのですよ」
と大山さんは穏やかに言った。
「梨花さまが“荒木家の令嬢との結婚は認めない。私が決めた相手と結婚するように”と令旨を出せば、荒木家も森家も、文句は言えないでしょう」
「流石、大山閣下。増宮殿下に対して働きかけねばならないとなれば、森先生の御母堂も、何も言えなくなります」
大山さんの言葉を聞いた北里先生が、満足げに頷く。
(そう簡単に、令旨を出していいのかな……?)
私は疑問に思ったけれど、一番それを止めるであろう我が臣下が、「それでは梨花さま、早速令旨をお書きください」と言って、墨を磨り始めている。非常に有能な別当さんの求めるまま、私は令旨を書き、森先生に手渡した。
「はぁ……」
森先生たちと母が退出し、大山さんと2人きりになった居間で、私は大きなため息をついた。
「本当にびっくりしたよ……。母上も、男女交際の作法を知るために、森先生とデートしたらどうだ、なんて言い始めるし……」
「ふふふ、それは、実現しなくてようございました」
大山さんは、柔らかい微笑を顔に浮かべている。
「梨花さまが森先生と、“デート”とやらをなさるのであれば、俺は陰から梨花さまを見守らなければなりません。それに、俺だけではなく、梨花会の他の面々も、梨花さまの後ろからついてくるでしょう。ひょっとすると、皇太子殿下や皇太子妃殿下も、いや、天皇陛下と皇后陛下も……」
「……それは確かに、実現しなくてよかったよ」
私は再度ため息をついた。多数の政府高官のみならず、兄夫婦や両親までこっそりと見守る中、デートをするなんて……流石に、そんな恥ずかしいことはしたくない。
「だけど……、森先生はなんで、お見合いしたくないって思うんだろう?」
ふと疑問に思って、大山さんに尋ねると、
「森先生は、留学中に、ドイツの女性と交際していたのは、梨花さまも御存じかと思います」
大山さんは私を優しく見つめながら、こう話し始めた。
「……エリーゼ・マリー・カロリーネ・ヴィーゲルトという、森先生より4歳年下の女性です。恋に落ちた2人は結婚を考え、帰国した森先生の後を追って、エリーゼ嬢も来日しました。しかし、その時すでに日本では、森先生に断りもなく、森先生と別の女性との縁談がまとまっていました。森先生の家族や親戚・友人たちは、エリーゼ嬢を説得してドイツに追い返すと、次いで森先生を説得し、日本で決まっていた縁談の相手と結婚させました。この時結婚したのが、森先生の元妻、ということになります」
「そうだったんだ……」
「エリーゼ嬢は、今はベルリンで、帽子を作って暮らしているようです。そして……今でも、森先生と手紙をやり取りしています」
「!」
私は目を見開いた。「つまり、それは……、森先生は、エリーゼさんのことを、まだ、あ、愛して……」
私は口を閉ざした。これ以上言葉を続けてしまうと、身体の中に籠った熱が膨れ上がり過ぎて、何も考えられなくなってしまいそうだったからだ。恥ずかしくてそっぽを向くと、非常に有能で経験豊富な私の臣下の両腕が私の背中に回される。
「ひ、廣吉さんの時も、ちょっと思ったけれど……」
ようやく私が口を開くことができたのは、大山さんが私の身体をそっと抱き締めてから、少し時間がたった時だった。
「この時代、両親に反対するっていうことは、私の時代以上に大変なことなのね……」
「人にはよるでしょうが、梨花さまのお話を聞いていると、確かにそうかもしれませんね」
大山さんはそう答えた。
「うーん、だから、私も廣吉さんや森先生のことを、強く責められる立場にないんだよね……。ほら、私、前世で死ぬ前は、医者になるのをやめて日本史の教師になろうかと思ったけれど、結局両親や祖父母の期待に逆らうのが怖くて、医師免許を取ることを選んだからさ。その点で言えば、私も、廣吉さんや森先生と同じで、意気地なしだよ……」
そう言って少しうつむくと、
「ですが梨花さま」
大山さんが私を呼んだ。
「もし、天皇陛下が体調を崩されているのに、“医師の診察は絶対に受けたくない”とおっしゃったら、どうなさいますか?」
「そんなのもちろん、何が何でも診察を受けさせるわよ!お父様や宮中の人たちが、しきたりがどうとか言い始めて妨害したって、そんな妨害、全部排除して、診察を受けてもらうんだから!」
大山さんの質問に顔を上げて即答すると、
「ふふふ」
大山さんは私の頭を優しく撫でた。
「だいぶ、前世と変わっておられますよ、梨花さまは」
「そう……?」
首を傾げると、
「ええ、ご自身ではお分かりにはならないかもしれませんが、ご成長されておられます」
大山さんはそう言って、私の目を見つめた。いつもの優しくて、暖かい瞳だ。
「あなたが言うなら、きっとそうなんだね。でも、あなたのことだから、次には、“更に成長していただきたいものです”って言うんでしょ?」
「よくお分かりで」
私の言葉に、大山さんは満足そうに頷いた。私は軽くため息をついた。
……こうして、森先生は私の令旨を武器にして、お見合いを円満にお断りすることができた。そして、その結果、後日私は、彼に再び令旨を出さざるを得なくなったのだけれど……それはまた、別の話である。
※森先生の荒木しげさんとのお見合いは、実際にはもう少し前に行われていたようですが、この時点につっこみました。ご了承ください。




