叔母さん(2)
案内された食堂には、総理大臣の山縣さん以下、梨花会の面々の殆どが待機していた。いないのは、西郷さんと大山さん、それと井上さんと高橋さんだけだ。
待機している面々の殆どは、顔を強張らせている。斎藤さんなど、机に両肘をついて手の指を祈るように組み合わせ、じっとうつむいていた。そわそわと食堂の中を歩き回っているのは、厚生大臣の原さんだ。私と青山御殿で会う時には余裕綽々、上から目線の原さんが、今日は顔を強張らせ、落ち着かない様子で食堂をウロウロしていた。表情に比較的余裕があるのは、兄の側に座っている陸奥さんぐらいである。
「やっと来たか、梨花」
眉根に皺を寄せた兄に、
「ごめん。着物が地味過ぎるって千夏さんに説教されて、着替えに時間を食った」
私は深々と頭を下げた。
「なるほど、やはりあの乳母子どのは優秀ですね。美しい華を更に美しくする術を心得ている。これで、皇太子殿下のいら立ちも、少しは落ち着かれるでしょう」
兄の側に座っていた陸奥さんは、兄の方を見てニヤリと笑った。
「陸奥総裁。悪いが、今わたしには、余裕が全くない。陸奥総裁の言葉を、受け流せそうにないのだ」
兄が陸奥さんを睨み付ける。
「節子が無事出産できるかどうか、本当に心配で、心配で……」
「兄上、大丈夫だよ」
私は兄のすぐ隣に歩いていき、兄の左手を握った。
「東京帝大の先生方も協力してくれてる。この時代で考えられる最高の医療体制が取れてるよ。だから兄上は、節子さまと生まれてくる赤ちゃんのこと、信じて待っててあげて」
「あ、ああ……すまない、梨花。どうも、普段と勝手が違って……俺も、まだまだ修業が足りないな」
ほっと息をつく兄に、
(いや、この状況で取り乱さないでいられるのがおかしいってば……)
と私は心の中で答えた。愛する妻の出産となれば、人生の一大イベントだ。どうしたって取り乱すのが夫の心理だろう。
と、
「こら、斎藤。何か腹に入れておけと言っただろう」
児玉さんが、つかつかと斎藤さんの側に歩み寄った。よく見ると、斎藤さんの側には握り飯が何個か載ったお皿があった。けれど、それに手が付けられた様子はない。
「で、ですが、児玉閣下……」
斎藤さんが顔を上げた。顔面からは血の気が失せ、眉間に深く皺が刻まれている。「心配なのですよ、とても。妃殿下のご出産が無事に終わるかどうか……」
「しかし実、“史実”では無事に終わったのだろう?」
斎藤さんの隣から、厚生次官の後藤さんが尋ねる。
「ああ、終わった。そして無事に親王殿下をご出産されたのだが……“史実”とこの時の流れは違うからな……」
すると、
「斎藤君、こればかりは、“史実”と同じにしてみせるさ」
上座の方から、強張った笑いを投げかける人がいる。我が輔導主任の伊藤さんである。
「そのために、皇太子殿下からのご結婚以降の日程を、全て整えたようなもの……皇太子殿下と妃殿下には、幸せなご家庭を築いてもらわなければ困るのだよ」
「そりゃ、兄上に幸せな家庭を築いてもらうのは、私も大賛成ですけど……」
伊藤さんの執念が凄まじくて、私はこれ以上、言葉を続けられなくなった。
「しかし斎藤、お主、何か食え。昼過ぎにここに来てから、なにも口にしておらんだろう」
児玉さんが重ねて斎藤さんに勧める。
「え?昼過ぎ?」
(午後の仕事はどうしたんだろう……)
心の中でツッコミを入れる私の隣で、
「それは、何か腹に入れなければまずいだろう、参謀本部長」
兄が軽くため息をつきながら声をかけた。
「お言葉はありがたく頂戴いたしますが……、色々と思い悩んでしまいまして、食べ物が喉を通りそうにありません。昨日の井上閣下の茶会でも、大変な目に遭いましたので、余計に……」
斎藤さんは深刻な表情で兄に答える。「そうですな、酒ならば飲めそうですが」
「それはダメです」
「それはダメだ」
私と後藤さんのツッコミが重なった。
「どさくさに紛れて飲酒しようなんて、そうは問屋がおろしませんよ。禁酒はちゃんと守ってください」
私が斎藤さんを睨むと、
「増宮殿下のおっしゃる通りだぞ、実!」
後藤さんも怒りをあらわにした。
「そう言われても、新平……この重圧を紛らわせる手段もない。おまけに、昨日のあの料理だぞ?“未来では高級魚だ”と、脂ぎったマグロの“トロ”の煮付けを出されたり、とんかつに味噌だれを大量にかけたマズいものを出されたり……俺の口には合わなかったのだ!」
「た、確かにそれは否定できん……」
斎藤さんの言葉に、後藤さんが苦虫を噛み潰したような顔で同調する。
「ちょっと!マグロは、今の時代じゃ高級な魚ではないとは分かってますけど、味噌カツをマズいと言うのは許さないですよ!」
私は斎藤さんと後藤さんを睨み付けた。「第二次世界大戦後に出て来たものだから、あなたたちは知らないと思いますけど、私にとっては故郷の味なんですからね!」
すると、
「も、もしやあの料理は、増宮さまがそそのかして……」
西園寺さんが恨みのこもった眼で私を睨み付けた。
「そそのかすって!確かに、この間井上さんの茶会に招かれた時に、マグロや味噌カツの話をしましたけど、だからって私を悪者にするんですか?!」
私が西園寺さんに抗議する横から、
「ええ、増宮殿下がお話になったのと、井上閣下が料理を作るのとは別のことです。しかし、あの料理で胃もたれして、今日は仕事を休んでしまったのは事実」
斎藤さんは真剣な表情で言う。「あの井上式料理の影響を消し去って、この体調の悪さを治すには、やはり麦酒か日本酒を……」
と、食堂の扉が開く音がして、
「やぁ、申し訳ない!」
陽気な声が聞こえた。農商務大臣の井上さんだ。その後ろに、次官の高橋さんが付き従っている。
「高橋と議論してたら、すっかり遅くなっちまった」
食堂の中が、一瞬静まりかえった。熱弁していた斎藤さんも、うろうろしていた原さんも、私を恨めしげに見つめていた西園寺さんも、ギョッとしたように井上さんを見る。その他の梨花会の面々も同様だ。あの陸奥さんですら、口を真一文字に引き結んだ。
「今、妃殿下の方はどうですか?」
井上さんは場の雰囲気にはおかまいなしに、ニコニコしながら一同に尋ねる。
「あ、ああ……分娩所に入られたが……聞多さん、昨日はその……お招きいただき、ありがとうございました」
山縣さんが青ざめた顔を向けながら、井上さんに答えて礼を言う。残りの一同も、井上さんに向かって、無言で頭を下げた。
「へっへっ、結構こってりした料理だったから、胃を手術した西郷さんには遠慮してもらわざるをえなかったけど、未来の味ってのを見せられたと思うぜ。あのマグロは手に入れるのが大変だった。太平洋岸の各港に人を派遣して、水揚げされたばかりのヤツを手に入れさせて、すぐさま氷漬けにして列車で直送したんだ。やっぱり食材は大事だからなぁ……」
「殿下、増宮殿下」
井上さんの料理に関する講釈が繰り広げられようとする中、陸奥さんが小声で私を呼んだ。
「はい?」
「井上殿の話題を……例えば、そう、妃殿下の話題に変えてください」
「なんでそれを私が?」
首を傾げると、
「井上殿に余計なことを吹き込んだ責任です」
陸奥さんは固い視線で私を見た。
「はぁ……」
(余計なこととはどういう言い方よ)
言い返そうとしたけれど、陸奥さんの眼を見た瞬間、言葉が喉に引っ込んだ。もし逆らったら、私が陸奥さんに散々な目に遭うのは明らかだ。
「あの、井上さん」
私は井上さんに話しかけた。「井上さんの所には、どこまで節子さまのご出産の状況が伝わってます?」
「えっと、陣痛が始まったらしい、って所までですね。今、狂介が“分娩所に入られた”って言ったが……」
「そうなんです。今が10時でしょう?分娩の進行が、ちょっと遅いような気もするんです。分娩にかかる時間は、個人差が大きいというのは習ったんですけど、私、出産に立ち会った経験が、前世でもそんなになくて……」
「って言われても、俺も出産に立ち会うなんてこと、今までほとんどなかったですからね。俺に聞くよりは、ベルツ先生に聞いた方がいいんじゃないですか」
「……“史実”では、ご出産の時刻は10時過ぎだったはずです」
斎藤さんが必死の形相で、井上さんの言葉に続けて言った。「そう、確か10時10分。あと10分ほどです。俺は、実子を持った経験が無いので……、出産を待つということが、これほど辛いとは思ってもいませんでした」
「わたしも子供がいないので、……とても緊張しています。やはり、出産を待つというのは、こんなにも大変なものなのでしょうか?」
原さんが真剣な表情で斎藤さんに合わせる。
「ふむ。その辺り、松方さんは経験が豊富そうですが」
黒田さんが言うと、
「確かに、数え切れないほどあります」
松方さんが真面目に頷いた。松方さんは子供が何人もいる。確か、20人は超えていたはずなのだけれど、以前、子供が何人いるか松方さんに聞いたら、
――さて、何人おりましたか……。
と真剣に考え込まれてしまった。……とにかく、松方さんは子沢山なのだ。
「ですが、皇孫殿下のご降誕ともなれば、また話は別です。緊張することこの上なしですな」
「わしもです、松方さん。……今はご出産が無事に終わることを、祈るしかありませんな」
伊藤さんが松方さんに答えてうつむくと、食堂の中は、再び静まり返ってしまった。
(うー、話題は変えられたけど、雰囲気が良くない……どうしたら……)
私が考え込んだ時、再び食堂の扉が開く音がした。
「やぁ、みなさんお揃いですな」
そう言いながら一同を見回して右手を軽く挙げたのは、黒いフロックコート姿の西郷さんだ。その隣には大山さんもいる。
「西郷さん、お久しぶりです!」
私は西郷さんと大山さんの側に駆け寄った。これは、場の雰囲気を変える絶好のチャンスである。
「ははは、増宮さま、お久しぶりですなぁ」
満面の笑顔を見せる西郷さんのすぐそばまで近づくと、私は小声で、
「西郷さん、大山さん、何とか場を和ませたいんです。協力してください」
とお願いした。
すると、
「よいしょ」
……西郷さんは突然、私の身体を両腕で抱き締め、掛け声とともに持ち上げた。
「ちょっと!何するんですか!」
小さいころは、よく西郷さんにも抱っこされたけれど、身体が大きくなった今、暴れてしまったら、西郷さんが私の身体を支えきれなくなってしまうかもしれない。だから言葉だけで西郷さんに抗議したけれど、
「んー、重くなりましたなぁ」
西郷さんはのんびりと、こんなことを言っている。
「体重のことを言わないでください!」
私は思いっきり声を叩きつけた。「いつと比べたんですか!西郷さんに最後に抱っこされたの、すごい昔だった気がするんですけど!……大山さん、助けて!」
「お断りいたします」
大山さんは私と西郷さんの方を見ながら即答した。
「んー、確か、弥助どんが増宮さまを持ちあげて、未来で言う“お姫様抱っこ”をしたと聞いた時に、“俺もする”と言って抱かせていただいて以来ですから……」
西郷さんが穏やかな口調で答える。大山さんにお姫様抱っこされたのは、初めて忍に行った時だから、今から8年ほど前になる。
「あの時と比べたら、身体の大きさがまるで違います!っていうか、下ろしてください!」
再び厳重に抗議すると、西郷さんは、
「うーん、確かに“お姫様だっこ”は無理ですなぁ」
と言いながら、ようやく私の足を床に付かせてくれた。
「ああ、びっくりした。突然持ち上げられたから……一体どうしたんですか、西郷さん」
着物の乱れを直しながら西郷さんに問い掛けると、
「何、もうすぐ皇孫殿下にお目に掛かれますから、抱っこの練習をしておかなければと思いまして」
西郷さんは平然と答えた。
(確かにそうだけどさあ……)
西郷さんは、今回生まれる兄の子供の輔導主任になることが決まっている。“史実”では、西郷隆盛さんの像の建立に協力した川村さんが輔導主任だったのだけれど、この時の流れでは、お父様の鶴の一声で西郷さんに決まった。ちなみに、西郷さんに愛人がいるということが問題になったのだけれど、
――東宮大夫と私の輔導主任を、伊藤さんがやっている時点で、愛人の有無は問題にならないんじゃないでしょうか……。
と私がお父様にツッコんだところ、お父様がお腹を抱えて大笑いし、無事に西郷さんに決定したという経緯がある。
「確かにそうだが、わたしの子と今の梨花とでは、身体の大きさが大分違うぞ、西郷大将」
兄が西郷さんに問いかける。必死に笑いをこらえているのがはっきりとわかった。他の面々も、必死に笑い声を出さないようにしている人が半分、耐えきれずに笑い出している人が半分と言った感じだ。西園寺さんなど、涙を流しながら机を叩いて大笑いしている。
「目的は達成されましたね、梨花さま」
我が臣下がニッコリ笑いながら私に囁いたその時、遠くから、かすかに何かが聞こえた。
(あれ、これは……)
音の正体を確かめるために動こうとしたその時、
「生まれたっ!」
兄が椅子から立ち上がった。
「え?」
「ほら、よく聞いてみろ!赤子の泣き声だろう!」
私に駆け寄った兄が、後ろから私の両肩を抱く。全神経を聴覚に集中させると、確かに、赤ん坊の泣き声が微かに聞こえた。
「ほんとだ……!」
もっとよく聞こうとすると、今度は足音が聞こえた。段々近付いてきたそれは、食堂の前で止まり、次の瞬間、食堂の扉が開いた。姿を現したのは、兄の実の母である早蕨さんだ。
「申し上げます!」
早蕨さんの声は普段より高い。食堂にいる全員の視線が彼女に集まる中、
「皇太子妃殿下、親王殿下を御出産あそばされました!」
……早蕨さんはこう言った。
「ああ!」
兄が一声叫んで、後ろから私の身体を抱き締める。
「よかった……」
感極まった声が、兄の口から漏れた。今までの不安と心配が喜びに変わり、生まれてきた子供への責任も感じているに違いない。兄の心の中に、様々な感情が去来しているのを私は感じた。
「兄上、おめでとう。これで兄上も、父親になるんだね」
優しい声で言ってみると、
「お前も、叔母になるんだぞ?」
兄にこう返されてしまった。
「あー、ちょっとそれは……自分の年齢を感じちゃうなぁ……」
困惑しながら兄に答えると、
「なるほど、叔母上ですね」
「さよう、叔母上だな、弥助どん」
大山さんと西郷さんが、意味ありげに頷きながら言う。
「こらぁ!」
目を怒らせると、大山さんと西郷さんだけではなく、食堂にいる全員が一斉に笑いだした。
「よーし、皇孫殿下もご降誕された!こんなめでたいことはないっ!」
喜色満面の井上さんが、椅子から立ち上がる。
「ご降誕のお祝いとして、俺が特別な料理を皆に……」
井上さんの喜びの叫びに、一同の笑い声が急に止まった。皆、ぎょっとした表情で井上さんを見る。大山さんですら、怯えたような視線を井上さんに突き刺していた。
「ん、どうした、皆?だって、お祝いの料理だぞ?特別に珍しい材料を使って、俺自ら出汁を調合して……」
不思議そうな顔で一同を見渡しながら、“特別な料理”の説明をし始めた井上さんに、
「やめろぉ!」
「やめてくれ!」
「やめてください!」
西郷さん以外の梨花会の面々が、一斉に悲鳴を上げたのだった。
1901(明治34)年4月29日午後10時10分。
節子さまは男の子を出産した。母子共に、経過は順調だった。
そして、……私は、“叔母さん”になった。
※「とんかつ」と銘打ったものに関しては、1929(昭和4)年に売り出されたものが初出のようです(岡田哲著「明治洋食事始め」より)。という訳で、それより後の記憶がある斎藤さんは、「とんかつ」を知っていることになります。




