信じるもの(1)
※セリフを一部修正しました。(2020年2月18日)
1900(明治33)年5月20日日曜日午前9時30分、東京帝国大学医科大学の講堂。
「えー、皆さま、大変長らくお待たせいたしました」
講堂の演壇に上がった私は、少しもったいぶった調子で話し始めた。私の前の席には、お父様とお母様以外の梨花会の面々と、医科分科会のメンバー、総計20名ほどが腰かけている。
「いや、余り待っていないぞ、梨花。俺がここに着いてから、3分も経っていない」
一番前の席に座った兄が苦笑する。10日前に、節子さまとの結婚式を終えたばかりの花婿さんは、黒のモーニングコートをピシッと着こなしていた。
「あー、ごめんね、兄上。私にとっては待望だったの。この時代に転生したと分かってから10年余り、ついにこの日がやって来た、という感じで」
兄にこう返すと、後ろの方にいる西園寺さんと陸奥さんがクスッと笑った。
「ま、今の時代だと、死因の上位を占めるのはもちろん感染症だから、3年前から、肺結核のチェックとして、梨花会の皆の肺のエックス線撮影を始めさせてもらっていました」
私の時代のそれに比べたら、エックス線撮影の画像の解像度は劣るけれど、やらないよりは遥かにましだ。今のところ、年に1回の撮影で、異常な所見が新しく出てきた人はいない。
「けれど、私の時代では、感染症じゃなくて、がんが死因の上位を占めていました。そちらの対策もしていかなければいけない。そして、今回、京都帝国大学の先生方が、胃のエックス線検査法を開発してくれました!これで、胃がん検診ができるようになります!」
京都帝国大学に胃のエックス線検査法の確立を依頼したのが、5年前、1895年の春である。私の時代の胃がん検診は、内視鏡検査にだんだん切り替わっていたけれど、内視鏡なんて代物、すぐに開発できないから、まずは昔ながらの“バリウム検査”の確立を目指すことにしたのだ。硫酸バリウムを使った造影剤の開発に1年半、二酸化炭素が発生する発泡剤の開発に同じく1年半、データの積み重ねに2年、ようやく形になった。もちろん、この成果は論文にして発表する準備を進めている。
「へぇ……、で、どうやってやるんですか、増宮さま?」
「ふふふ、よく聞いてくれました、井上さん」
ニンマリする私に、
「梨花さま、説明は簡潔にお願いいたしますよ」
一番前の端の席に座った大山さんが、苦笑しながら注意を飛ばす。
「ちっ……。じゃあ、手順だけ説明します。まず、検査前日の午後10時から飲食はしないで、胃の中は空っぽにします。それで、検査を始める時、まず、撮影台の上に立って、発泡剤をお水で飲んでもらうんです。で、ここが大事なんですけれど……ゲップを出しちゃいけないんです」
「ゲップを出してはいけない?」
首を傾げた高橋さんに、
「ええ、発泡剤は水と反応して、胃の中で二酸化炭素を発生させます。だから、ゲップが出てしまうんだけど、そこを敢えて出さないんです。ゲップを我慢して、胃を二酸化炭素で膨らますと、胃の悪い箇所が発見しやすくなりますから」
私はなるべくわかりやすく説明した。
「それから、液体のバリウムを飲みます。大体コップ一杯ぐらいの量です。それから、撮影台の背もたれが倒れて、ベッドみたいになるので、その上で身体を回してもらって、飲んでもらったバリウムを、膨らんだ胃の中に塗り付けるんです」
私は黒板に、台の絵を描きながら説明した。前世の実家の診療所では、胃のバリウム検査をやっていて、私が大学の医学部に入って臨床実習を始めた時に、祖父に呼ばれ、胃のバリウム検査の一部始終を見学させられたのだ。もちろん、患者さんに了解を取った上で、である。その経験が、今回は役に立った。撮影台を倒したり、傾けたりする作業は、私の時代ならもちろん遠隔操作で出来たけれど、今の時代は全部手作業ですることになるから、結構大掛かりな検査になってしまう。
「で、色々な態勢で胃のエックス線写真を撮らせてもらって、胃がんが無いかどうか確認します。あ、バリウムは、下剤を飲んでもらって排出させるから、白い便が出ますよ」
説明し終えると、医科分科会の面々は、何度も頷いていたけれど、梨花会の面々は、大山さん以外、狐につままれたような表情をしていた。
「あ、もしかして、分かりづらかった?ごめんなさい、説明の仕方が上手くなかったかな……」
「説明の仕方の問題ではありませんよ」
大山さんが私に向かって微笑した。「俺は、梨花さまの医学のお話をいつも聞いているので何とか分かりますが、医学の知識のない人間にとっては、何が何やら、さっぱり分からないでしょう」
「確かにそうだ」
私は頷いた。「となると、実際を見てもらった方が早い、ということになるけれど……ええと、今日は結局、誰が検査を受けることになったんですか?」
私が医科分科会の面々に尋ねると、
「私が受けることになりました」
三浦先生が、春風のような微笑を顔に湛えながら答えた。
「え?三浦先生ですか?昨日の話だと、医科研の若手に実験台になってもらおうか、という話でしたけど……」
驚く私に、
「今後、学生たちに検査のことを教えなければなりません。実際に体験してみれば、今後、授業の参考になりますから、東京での第1号の被検者になる栄誉は、私がいただくことにしたのですよ。もちろん、今日は朝食を抜いてここに参りました」
三浦先生は微笑を崩さずに答えた。
(三浦先生、すごい……)
頭が自然に垂れた。三浦先生は、医者としても素晴らしい人だけれど、教師としても立派な人だ。初めて会ったのは彼が留学する前、今から10年前の夏だけれど、あの時から比べると、三浦先生は本当に成長している。
「増宮殿下、皆さまに、検査をする部屋に移動してもらいましょう。あまり長く、三浦先生を絶食状態にしておきたくもありませんし」
「そうですね、ベルツ先生。……じゃあ、皆さま、お部屋にご案内します」
ベルツ先生と私が先頭に立ち、20名余りの見学者を検査室に案内する。検査室には既に、鉛製の防護エプロンと、鉛ガラスで出来た防護用メガネを身につけた、京都帝国大学医科大学と東京帝国大学医科大学のエックス線検査チームが待機していた。彼らが機械の説明をしている間に、三浦先生が検査着に着替えて検査室に入る。そして、見学者たちを3班に分け、三浦先生が検査を受けている光景を交代で覗いてもらった。もちろん、検査室に入るとき、見学者たちに防護エプロンと防護メガネは身につけてもらった。
「なるほど、空気と造影剤の濃淡の差を利用して、胃の壁の画像を得るという訳だな」
三浦先生の検査が終わった後、最後の班にいた兄が、鉛ガラスで出来た防護メガネを外しながら言った。「梨花の時代なら、台を動かすのは、全て機械の動力で出来そうだが、今は人力だから、なかなか大変だな。しかも、このような防護具を付けなければならないとはな」
「私の時代も、検査を直接担当する人は、防護具を付けるよ。もう少し、未来っぽいデザインだけどね」
私は防護エプロンの端をつまんで苦笑した。被ばくは少しでも防がなくてはいけないと思って、「鉛で前掛けを作ってほしい」と依頼したのだけれど、出来上がってきたのは、小さな鉛の板をつなぎ合わせた、戦国時代の鎧のようなものだった。もちろん、めちゃくちゃ重い。防護具の改良については、引き続き、エックス線とその防護に関する研究をお願いしている京都帝国大学の村岡先生に、頑張ってもらうしかない。
「ところで、この検査の対象者は、何歳以上になるのでしょうか?」
防護エプロンを脱いだ厚生大臣の原さんが、私に尋ねる。
「私の時代だと、40歳以上が対象になっていましたけれど……って、何で顔が強張ってるんですか、原さん」
私が突っ込むと、「あ、いえいえ、そんなっ!」と原さんは慌てて首を横に振った。
「厚生大臣になっても、原君は相変わらず医者が苦手みたいやねぇ」
三条さんがのんびりと指摘して、くくっ、と小さく笑い声を立てる。
「40歳以上、ということは、俺と義兄上以外の梨花会全員か。お父様とお母様はどうするのだ?」
「それがねぇ、お父様は、私が医者になったら受けてやるっていう一点張りなの」
兄の問いに、私は肩をすくめた。「お母様は受けてもいいって言ってくれたんだけれど、“宮中の女官たちに抵抗感があるから、増宮さまが医師免許を取られてからの方がよい”って、宮内大臣の土方さんが言ってね。だから、2人とも、検査を受けてもらえるようになるのは、もう何年か先だね」
「なるほど、胸のエックス線検査と同じようになったか」
兄が顔に苦笑いを浮かべる。「俺としては、早く受けて欲しいのだが」
「そこはしょうがないね。徐々に、無用なしきたりはぶっ壊していくけれど、時期を見てやらないと」
「それで、増宮さま、この検査で何か悪いもの……がんってのがあるって分かったら、どうするんでぇ?」
両腕を組んで首を傾げた勝先生に、
「病気の進行状況で、手術するか考えるってところですね」
私は軽くため息をつきながら答えた。私の時代なら、ごくごく小さな胃がんなら内視鏡を使って切除、それ以外なら、手術か化学療法か放射線療法か……と選択肢があるけれど、この時代だと、手術するか放置するかの2択しかない。しかも、手術となると、大変大掛かりな治療、というイメージが、私の時代以上に付きまとう。怪しい所見が出てしまったら、先生方と相談して対応していくしかないだろう。
「で、明日から一人ずつ、検査を受けてもらいますけれど……、悪い結果が出る可能性もゼロじゃありませんから、そう言った場合どうすればいいか、検査の直前に担当の先生方から聞きますので、よろしくおねがいしますね」
わざと笑顔を作ってお願いすると、梨花会の面々は一斉に頭を下げた。
1900(明治33)年6月11日月曜日、午後4時30分。
私は麹町区富士見町の医科学研究所にいた。もちろん、今日は華族女学校がある日で、学校が終わった後は花御殿の武道場で剣道の稽古をする予定だったのだけれど、昨日、ベルツ先生と三浦先生から急報を受けて、急遽、稽古をサボってこちらにきたのである。医科学研究所の一室には、ベルツ先生と三浦先生と近藤先生、そして森先生と北里先生がいた。
「山縣さんの方は、胃のひだもいびつじゃないから、慢性胃炎でいいと思うんですよね……」
私は現像された、梨花会メンバーの胃のエックス線写真を見ながら、ため息をついた。「けど、この、西郷さんの胃の前庭部……」
「ええ、がんの可能性があります。京都帝国大学の先生方も、その可能性が高いとおっしゃっていました」
三浦先生が、眉をしかめながら示したのは、西郷さんの胃の前側の壁を見るように写したエックス線写真だ。胃の出口・幽門に近いところに、周囲の胃粘膜の模様とは違う、ごつごつした影が映し出されていた。直径は、3㎝弱というところだろうか。胃を別方向から撮った写真にもその影は映っていて、ごつごつした影が、キノコのように胃の中に2㎝ほど飛び出ていることが分かった。
「良性のポリープって可能性はあるけど……ああ、良性か悪性か見分けるのは、まだまだ難しいですよね。じーちゃん、いや、前世の祖父は、ある程度見分けられていたけど」
「もう少し症例の集積が必要でしょうし、もっと明瞭な画像が得られれば、鑑別もしやすくなるでしょう」
ベルツ先生が言った。「増宮殿下の世のように、内視鏡があれば、細胞検査もすることが出来ますが、現状では、良性にしろ悪性にしろ、胃の切除をしなければなりません」
(そうなんだよな……)
私の時代なら、まず内視鏡で腫瘍の様子を確認して、必要なら、腫瘍の細胞を少しだけ取って病理の検査をしてもらう。病理の検査が悪性ではない、という結果なら経過観察するだろうし、悪性だという結果なら切除をするだろう。ただ、この大きさなら、全身麻酔をかけて開腹をするという身体に負担を掛ける方式を取らなくても、内視鏡で切除しても大丈夫なのかもしれない。もちろん、転移していないか、CTで確認してからだけれど……。
(私の時代なら、手術よりも負担の無い方法で、治療ができるかもしれないし、そもそも、治療をしなくても大丈夫なのかもしれない……)
思考の迷路に陥ろうとしたところに、
「ところで、西郷閣下には、どう説明いたしましょうか?」
森先生が首を傾げながら私に質問した。
「ああ、私の時代だと、がんでも患者本人に話すのがほぼ当たり前だったけれど、この時代だと、そうじゃないですよね……」
ベルツ先生は、岩倉具視さんにがんの告知をしたけれど、それは、今の時代の常識では、本当に珍しいことなのだ。
「西郷閣下は、“検査が悪い結果であっても、包み隠さず話して欲しい”とおっしゃっておられたと聞いています」
近藤先生の答えに、
「じゃあ、その通りにするしかないですね。良性か悪性か分からないから……試験開腹をする、って」
私は眉をしかめながら頷いた。近藤先生と手術について話をしてから、2年経っている。その間に、近藤先生はABO式の血液型を発見し、輸血についての理論を確立した。そして、血管内への輸液についても研究を……というか、私の時代の輸液組成や、翼状針の再現を進めてくれた。その結果、手術の安全度は、ここ1、2年で急速に上がっていて、胃がんの手術後に患者さんが亡くなってしまう確率は1割未満に下がった。けれど……。
(危険が、ゼロじゃない……)
良性だろうが悪性だろうが、西郷さんの胃にメスは入れることになる。液体窒素があるから、切除した腫瘍の一部をすぐに液体窒素で凍らせて病理標本にして、良性か悪性という判断を数10分でつけることができる。けれど、病理の結果が悪性の場合は、胃を切る範囲を広げなければならない。そうすれば、西郷さんが国政に復帰するには、時間が掛かってしまうだろう。そして、手術の結果、西郷さんが亡くなってしまう可能性もあるのだ。
とにかく、翌日、私が結果を西郷さんに話すことで、その場の全員の意見が一致して、私は部屋の扉を開けた。ベルツ先生と三浦先生に西郷さんへの連絡を託し、北里先生に送られて玄関ホールまで出ると、そこで大山さんが待っていた。
「梨花さま」
私の手を取るやいなや、大山さんが私の目を覗き込んだ。「お顔色が悪いようです。いかがなさいましたか」
「……何でもない」
私は、無理に笑顔を作った。「北里先生たちと、夢中になって話していたからね。根を詰めすぎちゃったかな」
「どうも、それだけではないように思います」
大山さんは微笑した。いつもの優しくて暖かい瞳が、少しだけ哀しそうな色を帯びている。
「話してはいただけませんか」
「守秘義務って奴だよ。……いずれ時が来れば、あなたも知ることになるだろうけれど、今は守らせて」
私は、大山さんから目を逸らした。今はまだ、大山さんに、西郷さんの検査結果を話してはいけない。西郷さんに検査結果を告げる場に、大山さんに立ち会ってもらうにしろ、まずは西郷さん本人に、大山さんが立ち会っていいかどうかを確認してからだ。
「そうですか」
大山さんは軽くため息をつくと、「お客様が、近々いらっしゃるのですか?」と私に尋ねた。
「うん、明日」
反射的に答えてしまった私は、慌てて空いている左手で口を押えた。秘密にしておかなければいけないのに、うっかり、口が動いてしまった。手をつないだ大山さんが微笑したのが、気配で分かった。
「では、明日は、千夏どのにお茶を淹れてもらいましょう。近頃、どうすればお茶が美味しく淹れられるか、研究しているようですから」
「ん……」
私は軽く頷いた。
心の中を見抜かれているな、と私は思った。恐らく、この非常に有能な別当さんは、私が医科分科会の先生たちと何を話していたか、そしてどんな結果になって、私が何を思っているのか、全て察してしまったのだろう。だから、“千夏どのにお茶を淹れてもらいましょう”と言ったのだ。私が苦悩していて、落ち着いてお茶を淹れられるような精神状態ではないと見て取ったから……。
(敵わないなぁ、本当に……)
「……じゃあ今回は、千夏さんに、研究の成果を披露してもらおうかな」
「それがよろしゅうございましょう」
大山さんはそう答えると、私の手を握る左手に、少しだけ力を込めた。
翌日、6月12日の午後4時。西郷さんは同行者を連れて、青山御殿の私の居間に現れた。総理大臣の山縣さんだ。
「え……」
どうして山縣さんがいるんですか、と投げようとした質問は、
「恐らく自身の進退にも関わる話であろうから、一緒に話を聞いて欲しいと西郷さんに頼まれました」
という山縣さんの言葉で、引っ込めざるを得なかった。椅子を勧めると同時に、千夏さんと一緒に大山さんが現れて、私は西郷さんの許可を取って、大山さんにも私の斜め前の椅子を勧めた。
「ええと、西郷さんの今回のエックス線検査の結果ですけれど……」
千夏さんが4人分のお茶を出して下がると、私は口を開いた。「胃袋の下の方に、直径3㎝弱の腫瘍が見つかりました。これが、経過観察していい良性のものなのか、それとも即刻切除しなければならない悪性のものなのか、残念ながら確信を持って言うことが出来ません。私の時代なら、その確信を持つために、内視鏡検査をしたり、便潜血検査をしたり、腫瘍マーカーっていう、血液の中の物質を調べたりするんですけれど、この時代、まだその検査はできません」
内視鏡と腫瘍マーカーはともかく、便潜血検査は何とかできそうな気もするのだけれど、原理が全く分からない。研究者の手配が付いたら、研究をしなければいけない。
「だから、試験的に開腹手術をして、胃の一部分を切除することになります。それで、手術中に病理診断をして、がんであると分かれば胃を切除する部分を更に広げます。けど……私の時代より、危険は大きいです。輸血や輸液の方法が確立されてきたから、徐々に危険は抑えられてきていますけれど、手術をして、100人のうち、7、8人は亡くなります。私の時代だと、100人のうち1人亡くなるかどうか、だったと思うんですけど……」
私はそう言うと、口を閉じた。輸血や輸液も、まだ完全な方法ではない。血液型も、ABO式は確立できたけれど、Rh式が研究途上だから、西郷さんの近親者の血液を採取して、血液型や、実際に投与した時に不具合が起こらないかどうか、確認しないといけない。もちろん、血液を介して感染する可能性がある病気を防ぐことはできない。手術の道具だって、まだ改良の余地がある。腹腔鏡は無理だとしても、電気メスぐらいは開発できたかもしれない。けれど、その研究にもまだ着手できていないのだ。
万全を期したい。西郷さんは、小さいころからお世話になった人だし、そして国政にとっても大切な人だ。だから、考えられるあらゆる危険を排除したいのに、私の持っている知識を尽くしても、それが許されない。
(西郷さんを、私の時代の日本に連れて行って、治療を受けさせられたらいいのに……)
そう思った時、
「増宮さま」
西郷さんが、普段と変わらない、少しのんびりした調子で私を呼んだ。
「あ、はい」
反射的に返事をすると、
「手術、となると、執刀するのは東京帝大の近藤先生ということになりましょうが……増宮さまは、近藤先生を信じておられますか?」
と西郷さんは私に尋ねた。
「ええ、それはもちろん」
私は頷いた。近藤先生は、医科研の野口先生の左手の手術も成功させている。そして、胃がんの手術を執刀した数は、今の日本で一番多く、技量ももちろん、日本一である。
すると、
「なら、俺も近藤先生を信じます」
西郷さんは微笑んだ。
(あ……)
軽く目を見張った私に、
「増宮さま、手術の件、話を進めてください」
西郷さんは穏やかに声を掛け、軽く頭を下げた。
「了解です……」
私は、西郷さんに向かって深々と下げた頭を、上げることが出来なかった。
※大正時代の医学書を見ると、既に胃の造影検査が行われていたようです(「内臓レントゲン診断学」藤浪剛一、福光廉平)。今の胃のエックス線撮影で一般的な二重造影法(バリウムを飲んで、更に発泡剤を飲む)は、1905年に開発されたようです。(「医用画像電子博物館」ホームページの「放射線医学年表」による)ただし、いつごろから二重造影法が日本のがん検診において行われていたかについては、調べる手が追い付きませんでした。申し訳ありません。
※ちなみに、胃のエックス線撮影で最初に飲む発泡剤は、現在では水で飲む施設とバリウムで飲む施設、両方あるようです。
※大腸がん検診でよくやる“便潜血検査”は、検査の原理自体は1864年に発見されていたようなのですが(元文献に当たれていません)、行われるようになったのは1980年代に入ってからのようです。
※「日本消化器外科学会データベース委員会2009年度調査報告」の表によると、2008年、一般的な胃がんの手術として行われる胃切除術・胃全摘術の死亡率は、それぞれ0.58%、1.28%でした。(同学会ホームページに元報告があります)




