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転生内親王は上医を目指す  作者: 佐藤庵
第25章 1899(明治32)年立秋~1900(明治33)年穀雨
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課題

 1900(明治33)年4月21日土曜日、午後1時半。

「ふふ、章子はやはり、まだ馬に乗られておるな」

 皇居の奥御座所の一室。食後のコーヒーを飲みながらこう言ったのは、お父様(おもうさま)である。

 今日は、私が花御殿を出て、英照皇太后陛下が生前住んでいた青山御所――今日から、“青山御殿”と改称されるけれど――に引っ越す日である。青山御殿は、花御殿と同じ敷地内にはあるけれど、医学書や、梨花会の皆が時折私に献上してくれる全国のお城の模型など、荷物を運ばなければならないし、それらをきちんと整理して配置しなければならない。それから、花御殿で私が使っていた区画も、きちんと掃除しなければならない。小さいころ、爺の家から花御殿に引っ越した時には、私の身体は幼児だったから、手伝えることが何もなかったけれど、今回は私もきちんと仕事をしなければ……と思っていたら、

――来週の土曜日は、朝から嘉仁と一緒に、皇居に参れ。

と、先週14日の梨花会の最後に、お父様(おもうさま)が私に命じたのだ。

――お父様(おもうさま)、引っ越しをしないといけないので、それはちょっと……。

 そう言って、辞退しようとしたら、

――そなた、繊月(せんげつ)を引っ越しの騒動に巻き込む気か?

と、お父様(おもうさま)に言われてしまった。

――引っ越しが始まれば、繊月の厩まで騒ぎが届いて、繊月が苛立ってしまうだろう。だから、引っ越しは大山と花松に任せて、そなたは繊月に乗って、皇居に参れ。日中は皇居にいて、夕方に御殿に入ればよいだろう。そなたの馬術、見てみたいから、楽しみにしているぞ。

 お父様(おもうさま)がそう言ってニヤリと笑ったので、もうこれ以上の言い訳は無駄だと悟った私は、今日の引っ越し作業の指揮を大山さんと母に任せて、桃色のディバィデッド・スカートを穿いて繊月に乗り、朝から兄と一緒に参内した。参内するなり、お父様(おもうさま)に馬場に連れていかれ、馬術を披露させられてヘトヘトになったので、美味しい料理でお腹いっぱいになった今、食後のコーヒーの力を借りなければ、椅子に座ったまま寝てしまいそうなほどの眠気に襲われている。

「それでも、梨花の馬術は、だいぶ上手になったと思います」

 私の隣に座った兄が、お父様(おもうさま)に向かって微笑した。

「2年前に、御料牧場から一緒に馬に乗って、佐倉城と本佐倉城に行きましたが、あの時よりは、繊月は梨花に気を遣っていません」

「ふむ、そうか……。しかし、繊月はまだ、章子に本気を出していないな」

(いや、むしろ、お父様(おもうさま)が乗ったときに、繊月がやんちゃ過ぎたような……)

 繊月に乗った私がお父様(おもうさま)の前で馬術を披露した直後、急にお父様(おもうさま)が繊月に乗ったままの私に寄ってきて、

――章子、馬から降りろ。

と命じたのだ。その言葉に素直に従って繊月から降りたら、お父様(おもうさま)は繊月の鞍にひらりと跨がった。

――それっ!

 展開についていけない私をよそに、お父様(おもうさま)が繊月に合図すると、いつも穏やかな繊月が、物凄い速さで走り出した。

(ちょ……繊月、一体どうしちゃったの?!)

 普段と全く違う繊月のやんちゃぶりに、私はハラハラしていたのだけれど、お父様(おもうさま)は危なげなく繊月を乗りこなし、やがて繊月の脚を止めると鞍から降りた。

――馬の気晴らしに付き合うのも、たまにはいいな。

 お父様(おもうさま)はそう言いながら、悠然と馬場から去っていったのだけれど……。

「言っておくが、梨花」

 兄が私の方を見て、微笑しながら言った。「先ほど、お父様(おもうさま)が乗っていらした時の繊月が、本来の繊月だ。いつもは、馬をまだ乗りこなせぬお前に合わせて、繊月はおとなしくしているのだぞ。前にも言ったことがあったが」

(嘘でしょ……)

 私はがっくりと頭を垂れた。

「だが、お前の馬術は、確実に上達している。3、4年前なら、俺はお前が繊月に乗って参内するのを止めていたぞ」

「そっかぁ……」

 私はため息をついた。確かに、馬に乗るのに大分慣れた今ならそんなことはないけれど、3、4年前の私だったら、繊月に乗って参内すると聞いたら、ガチガチに緊張して、繊月に適切な指示が出せなかっただろう。

「あらあら」

 お父様(おもうさま)の隣に腰かけているお母様(おたたさま)が、私と兄の方を見て微笑した。

「本当に、明宮さんはよいお兄様ですね。増宮さんのことをこんなに心配なさって」

「当たり前です、お母様(おたたさま)。梨花が怪我などすれば一大事ですから。梨花の馬術が上手くなるのは本当に嬉しいですが、危なくないように上手くなってもらわなければ困ります」

「しかし、時間はかかったが、章子も馬に慣れてきたようだ」

 なぜか熱のこもった兄の言葉に、お父様(おもうさま)がこうかぶせた。「あとは修練あるのみだ。医師免許を取るのも大事だが、馬術も怠るなよ、章子」

「はい」

 私はお父様(おもうさま)に一礼した。馬術も、淑女(レディ)のたしなみの一つだ。上医になるためにも、きちんとマスターしておかなければならない。

「では、腹ごなしに、皆で散歩するか」

「はい、お(かみ)

 お父様(おもうさま)が立ち上がるのに合わせて、お母様(おたたさま)が椅子から立つ。私と兄も立ち上がって、お父様(おもうさま)に頭を下げた。


 午後2時、皇居・吹上御苑。

「兄上……兄上ったら!待ってよ、お願いっ!」

 息を切らしながら、全速力で駆ける私に、

「待たぬ!」

兄はちらりと振り返って返事をする。脚は全く止まらない。

(なんで……なんで、馬術の次は、鬼ごっこをする羽目になってるんだよ!)

 必死に走りながら、私は前方を走る兄に心の中でツッコミを入れた。

 お父様(おもうさま)お母様(おたたさま)と兄、それからそれぞれのお付きの侍従さんや女官さんたちと、御苑の入り口まで来た時だ。

――競争するか、章子。

 兄がそう言うや否や、突然御苑の中に向かって、全速力で走り始めたのだ。

――ちょ、ちょっとっ!

 慌てて兄の背中を追いかけたけれど、足の速い兄に追いつけるわけもなく、全速力で走っても、じりじりと距離を広げられていく。

(ていうか、どこまで走れば気が済むのよ、兄上は……。なんで引っ越しの日に、運動会みたいなことをやらなきゃいけないのよ!)

 私が心の中で叫んだ時、速力を緩めずに走り続けていた兄が、突然速度を落として立ち止まった。

「よし、この辺でいいか。……梨花、止まれ」

 ひょいとこちらを振り向く兄の側に、私も徐々に速力を落として止まった。

「兄上……いきなり、走り出して、どうしたのよ……。もう、私、へとへと……」

「そのようだな。供の者もまけたし、少し、池のほとりで休むか」

 兄は前方にある池を指さすと、私の右手をさっと取る。兄に引っ張られるようにして、私も池のほとりに歩いていき、岸辺に座り込んだ。

「と、供をまけたって、兄上……まさか、わざとやった?」

 荒い息を整えながら質問すると、

「ああ、最近、結婚の準備で忙しくて、お前と2人きりで話していないと思ったからな」

兄はいたずらっ子のようにニヤニヤしながら、私の右隣りに腰を下ろした。「追って来る気配もないようだ。皆が気を遣ってくれたかな。まぁ、気配を感じたら、また逃げるまでだが」

「疲れたから、誰も来ないことを祈りたい……。もう、運動会は勘弁だよ……」

 ため息をつくと、兄がクスリと笑った。

「これで、皇居を出たら、別々の家に入る訳だ。……梨花、寂しいか?」

 兄の問いかけに、私は頷いた。

「そりゃあね。だって、兄上とは、10年以上一緒に暮らしてたんだもの」

 私が爺の家から花御殿に引っ越したのは、1889(明治22)年の紀元節の後だから、今から11年も前になる。同居し始めた当初から、兄は私に優しく接してくれていたけれど、兄に私の前世のことがバレてからは、よりその関係は親密になった。

「爺と一緒に過ごしていた時間より、兄上と一緒にいた時間は長い。だから、本当は、兄上と離れたくないって思ってしまう」

「そうか……」

「でも、これからは、兄上の側には節子さまがいて、私の代わりに兄上の心を受け止めてくれる。それに、兄上には、かけがえのない仲間もいる。だから、私、そろそろ、兄上の心を受け止める役目は他の人に譲って……」

 すると、

「許さん」

兄は私の言葉を、バッサリと斬り捨てた。

「え?」

「心を受け止めてくれる、かけがえのない愛しい妹を、俺の誇りの妹を失うなど、俺は許さんぞ」

 兄は私の目を見つめる。まっすぐな光が、私の身体を貫いた。

「それに、そう言うお前とて、自分の心を受け止められる人間を、失いたくはないだろう」

「そ、そりゃ、そうなんだけど……」

 うつむくと、兄が空いている右手で、私の頭を撫でた。

「今生の別れではないのだ。しかも、同じ敷地内に移るだけだから、その気になればすぐに会いに行ける」

 確かに、兄の言う通りだ。兄のことだから、自分が必要だと思えば、青山御殿の玄関からでも、庭からでも、私の所にやって来るだろう。

「それに、お前の側には、お前の母上も、武官長も……いや、もうすぐ、武官長では無くなるのだったな。何と呼べばよいか……」

「“大山大将”でいいんじゃない?“史実”だと、今の時期は元帥になってた、って伊藤さんは言ってたけれど」

 私の青山御殿への引っ越しに伴って、大山さんは青山御殿の“別当”……御殿の総責任者のような役職に就くことになった。兄は、これから節子さまと共に、地方を視察することが増える。当然、東宮武官長は、兄に付いて地方を回るから、東京を空ける時間が多くなってしまう。そうなると、大山さんの裏の役職・中央情報院の総裁の業務に支障が出る……という訳で、この人事が決定した。正式に発令されるのは、清の海軍との合同演習が終わる今月末になる。

「うん、……大山大将も、お前の側にいる。きっと、お前の心を受け止めて、支えてくれるに違いない。だがな、梨花」

 そう言うと、兄は真剣な表情になった。

「何?」

「お前は、心を預けられる家族以外の人間を、もう少し増やす方がよい」

「心を……預けられる、人間っ?!」

 私は目を見開いた。「ちょ、ちょっと待って、兄上。増やすって……1人だけならともかく、複数人ってなると、そ、それって、よろしくない行為じゃ……」

 すると、兄が大きな声で、本当におかしそうに笑い始めた。

「兄上!笑い事じゃないよ!私、不倫とか、略奪愛とか、そういう……そういうものは……」

 顔を真っ赤にした私に、「すまんすまん」と兄は笑いを収めて謝ると、

「もちろん、お前が心を預けたいという男なら、大山大将の他にはお前の夫君しかいないだろうが、心を預けたい、まことの心を打ち明けたいという思いを、恋愛ではなくて、友情の中で遂げてもいいわけだ。例えば、華族女学校の同じ組の者だとか」

と優しく言った。

「つまり、……同じ年代の、同性の親友ってことかな?」

「そういうことになるか」

 兄の言葉を聞いた私は、考え込んでしまった。華族女学校のクラスメートたちとは仲良くしている。下級生の中には、なぜか私に憧れている子もいるらしく、今年のバレンタインには、下級生一同から、お菓子のプレゼントをたくさんもらってしまった。けれど……すべての悩みを打ち明けられるような、心を受け止めてくれるような友達は、華族女学校の中にはいない。

「強いて言えば、節子さまなのかな……。でも、節子さま、私の前世のことを知らないから、話題を選ばないといけないんだよね。フリードリヒ殿下のことは話せるけど、前世の失恋のことは話せないし……」

 私がうつむくと、

「しかし、俺と節子が結婚したら、節子にはお前の前世のことを話すから、梨花も節子に前世のことが話せるようになるな」

と兄は微笑んだ。

「そう……?驚いちゃって、私のことを避けるようになるんじゃないかなぁ」

「俺の嫁を見くびってもらっては困るぞ、梨花」

 私の言葉に、兄は少し唇を尖らせた。「節子は、そんなことで怯えはしないよ。それは、お前も知っているだろう?」

 確かにそうだ。節子さまは優しくて、芯が強い。そして、誰にでも分け隔てなく接する人だ。私に前世があると知っても、怖気づいてしまうことはなく、今までと変わらずに接してくれるだろう。

「……逆に、怯えられるどころか、前世のことを根掘り葉掘り聞かれるかもね」

 私が苦笑すると、

「きっとそうだろうな」

兄はニヤリと笑った。「前世の同じ年ごろの女子に流行していた髪型や服装はどうだ、化粧の技法はどうだ、……お前の苦手なことばかり聞かれるかもしれん」

「それ、キツイや……。前世じゃ、女であることを捨ててたから、節子さまの満足できる回答ができないよ……」

 両肩を落とすと、兄が私の頭を、また優しく撫でた。

「梨花、お前がどうしようもなく辛くなったら、俺はお前の所に行ってやる。大山大将と一緒に、お前の心を支えてやる。だが、お前も、心を預けられる者を、まことの心を打ち明けられる者を増やしておけ。きっと、その者たちは、俺や大山大将と同じように、お前の心を支えてくれるだろう。俺にとってのお前や節子、それに学友たちのようにな」

(心を預けられる人、心を支えられる人、か……)

 私は軽くため息をついた。前世でも、今生でも、家族と臣下(おおやまさん)以外に、そんな人がいたという記憶があまりない。前世の小学生時代、一番の仲良しだった奈津美(なつみ)ちゃんは親友だったと思うけれど、私が前世で失恋して心を閉ざしてから、全く連絡を取らなくなった。だから、私が前世で死んだときには、親友と呼べる人間はいなかったわけだ。

「ありがとう、兄上。確かに、そう言う人を増やしてもいいのかもしれない。生涯の親友と呼べる人と、それから、これは絶対に1人だけだけど、生涯のは、……伴侶、って、呼べる、人……」

 最後の方は、小さな声でしか言えなかった。熱でいっぱいになって、回転を止めてしまった私の頭に、兄は自分の顔を近づけた。口ひげが耳朶に微かに触れ、柔らかいような、チクチクするような感触が皮膚を刺激する。

「心を支えてくれる者が側に、しかも何人もいれば、きっとお前は、力を存分に発揮できる。俺はそう思う」

 兄の囁きに、私は反射的に頷いた。

 そうだ。この人を……兄を守りたい。私の持っているすべての力を使って、兄をあらゆる苦難から守りたい。そのためには、後の世に大悪人や逆賊と、罵られても構わない。それが、私が今生でやりたいこと、成し遂げたいことなのだ。

(それなら……この課題は、きちんとクリアしなきゃいけないな)

「兄上」

 私は、兄に視線を向けた。「私、この課題、頑張って達成する。兄上を守るためにも、は、伴侶に、なる人、探して……」

 またうつむいてしまうと、兄は苦笑した。

「いきなりそちらを目指さなくても大丈夫だぞ。奥手なお前が、そこまで言えただけでも進歩だからな」

「ん、じゃ、じゃあ、まず、親友を探せばいいのかな?」

「そうだな。課題なら、まず達成しやすい方から取り組む方がよいからな」

「ん……わかった……」

 頷くと、兄の手が、私の頭にまた触れた。凍り付いた心を溶かすような、とても優しくて、暖かい手だった――。

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