表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
転生内親王は上医を目指す  作者: 佐藤庵
第25章 1899(明治32)年立秋~1900(明治33)年穀雨
181/803

ヴァルデマー殿下の来訪(2)

 1900(明治33)年3月10日土曜日、午後2時。

「あの、大山さん」

 桃色の無地の着物に、海老茶の袴を付けた私は、隣に立つ大山さんに声を掛けた。

「いかがなさいましたか、梨花さま」

 歩兵大将の正装をまとっている大山さんは、私にいつもと同じような微笑みを向けた。

「兄上がちょっと怖いんだけど……」

 囁き声だったし、周りにいた侍従さんたちにも聞こえた様子はなかったけれど、私から3mほど離れたところに、伊藤さんと一緒に立っていた兄は、私が大山さんに囁いた気配を敏感に感じ取ったらしい。

「何だ、梨花。武官長にコソコソと……」

 海兵少佐の正装姿の兄は、私に苛立ったような目を向けると、つかつかと私に歩み寄った。夏から伸ばし始めた口ひげは立派になり、今や完全に兄の顔の一部となって、兄をより大人に見せている。

「俺が怖いとでも言ったのか?」

「……その通りよ」

 身体から立ち上る殺気を隠そうともしない兄に、私はため息をつきながら答えた。

「戦争を始める訳じゃないんだから……。一応、向こうには私に危害を加えるつもりはないんだし、友好的に、ね?」

「その通りです」

 大山さんが兄に微笑する。「先方が敵対的な態度を取らない限りは、あくまで友好的にお願いします、皇太子殿下。ですが、もし、先方が、梨花さまを傷つけるような態度を取ったならば……」

 次の瞬間、私の感覚を、物凄く嫌なものが襲った。これは、大山さんのフルパワーの殺気だ。

「大山さん、落ち着いて!あなたの殺気の方が、兄上より断然ひどいから!」

 思わず、我が臣下の身体にしがみつくと、

「ああ、失礼いたしました」

彼はすぐに殺気を収めてくれた。けれど、兄は身体を一歩引いたし、周りにいた侍従さんたちも、一様に怯えた顔になっている。侍従さんたち全員が、それなりに腕に覚えがあるにも関わらず、である。

(やりすぎだよ、大山さん……)

 大山さんの身体にしがみついたままため息をつくと、

「物騒な悪戯ですな、大山さん」

伊藤さんがこちらにやってきた。

「ヴァルデマー殿下がいらっしゃいましたよ」

 その声と同時に、車寄せの方が騒がしくなる。そして、宮内省の職員さんに先導されて、デンマーク海軍の正装に身を包んだヴァルデマー殿下が玄関に入った。今年で満41歳の殿下は、頭髪が少し薄く、41歳という年齢より少し老けて見える。兄と伊藤さんは今週の5日に、ヴァルデマー殿下と宮中の晩餐会で顔を合わせているけれど、私は彼と初対面なので、丁重に初対面の挨拶を交わした。

(なんか、滅茶苦茶見られてる気がする……)

 ヴァルデマー殿下に応接間に入ってもらい、当たり障りのない話を始めたけれど、ヴァルデマー殿下の視線は私にほとんど固定されていた。恐らく、私が甥のゲオルギオス王子に相応しいか、じっくり観察しているのだろう。

(見た目だけで、結婚相手に相応しいかどうか、判断できるものかねぇ……)

 首筋のあたりがチクチクするのに耐えながら思った瞬間、

「ところで、貴女の年頃ですと、結婚などという話も出てくるでしょうが、貴女ご自身は、将来のご結婚について、何か考えていらっしゃるのですか?」

とヴァルデマー殿下が言った。……もちろん、先方はフランス語で言ったのだけれど、通訳さんがそれを日本語に訳してくれる前に、私の隣に座った兄が、ものすごい目つきでヴァルデマー殿下を睨んだ。

「ちょ、ちょっと、兄上!国賓を睨んじゃダメだって!」

 囁きながら、兄の軍服の左袖を引っ張ると、兄は「あ、ああ」と私を見て、穏やかな表情に戻った。

「すまんな、つい」

「つい、じゃないわよ……結婚が何とかって言ってたのは分かったけれど……」

 私がため息をついた瞬間に、通訳さんがヴァルデマー殿下の言葉の内容を教えてくれた。

「……少なくとも、医師免許を取るまでは、結婚のことは考えないことにしました」

 私は落ち着いて、ヴァルデマー殿下に返答した。

「医師免許?」

「ええ、我が国では、医師免許を得るのに、2回試験を受けなければいけないのですが、その第1回目の試験を、今年の秋に受けようと考えています」

「ほ、本当なのですか?!貴女なら、医者にならなくとも、結婚して幸せになる道もあるでしょうに……!」

 ヴァルデマー殿下の顔面が蒼白になった。どうやら、彼は、進歩している女性がお嫌いなようだ。

「その道も確かにありますけれど、私、父と兄を病から守りたいのです」

 私は顔に微笑を浮かべながら、なるべく穏やかな声で殿下に説明し始めた。

「この国には、天皇である父の身体には、たとえ治療のためであっても、臣下が傷をつけてはいけない、という古いしきたりがあります。しかし、皇族の私が医者になれば、そのしきたりを越えて、父に侵襲的な治療ができます。もし、私が男であるならば、父と兄を守るために軍人になっていました。けれど、この国ではまだ、女性が軍人になることはできません。だから私は、父と兄を病気から守るために、医師になろうと考えているのです。もし、私と結婚したいという人がいるならば、その私の志を理解してくれる方でないと困りますわ」

 先月から、大山さんに散々練習させられたフレーズを、セリフの締めに使ってみると、私の左隣に座った大山さんが、微かに頷いた。どうやら、私の回答は合格点をもらえたらしい。ほっとしていると、ヴァルデマー殿下がフランス語で質問する。

(医者になるように、誰かにそそのかされたのか……?)

 通訳さんより前に、頭の中で殿下のフランス語を訳し終えた瞬間、私の感覚に、物凄く嫌なものがまた引っかかった。

「大山さん!」

 私は思わず立ち上がって、凄まじい殺気を発する我が臣下の身体にしがみついた。「ダメよ、国賓に危害を加えちゃ!間違いなく国際問題になるから!」

 そう言っている傍から、

「……いい度胸だ。俺の自慢の優秀な妹が、そんな愚かな人間に見えるとは、貴様の目は節穴のようだな」

兄が不気味な笑みを湛えながら、椅子から立とうとする。

「だから兄上もだめ!デンマークと戦争してどうするの!」

 私は叫ぶと、「今の、訳しちゃだめですからね!」と通訳さんに念を押した。通訳さんが首を何度も縦に振った瞬間、私の頭が優しく撫でられた。

「見苦しいところをお目にかけてしまい、申し訳ありませんでした、梨花さま」

 そう囁いた大山さんの身体からは殺気が消え、顔にはいつもの穏やかな微笑が湛えられていた。

「そう、ならよかった……」

 私はホッとして、笑顔を大山さんに向けると、彼の身体から離れて、ヴァルデマー殿下に深々と一礼した。

『見苦しいところを見せてしまってごめんなさい。今の殿下の質問の答えですが、これは、誰かにそそのかされたわけでも、強制されたわけでもありません。私自身が考えて出した結論です』

 フランス語は、ドイツ語や英語に比べて出来るという訳ではないけれど、ここは私が直接、殿下に答える方がいいだろう。そう思って、私はフランス語で話し始めた。両頬を紅くしたヴァルデマー殿下は、ぼーっと私を見つめていた。

『こういう“進んだ女”を嫌う方が、たくさんいらっしゃるのは、よく知っています。でも、私、自分の志に嘘はつけませんの』

 ニッコリとヴァルデマー殿下に微笑むと、

『わかりました。あなたの容姿をもってすれば、ヨーロッパの社交界の人気を独り占めし、しかるべき王侯と結婚して、栄華を極めることもできるでしょうに……非常に残念です』

ヴァルデマー殿下は、眉をしかめながら答え、また私をぼーっと見つめた。

(うーん、向こうの気分を害しちゃったかな。ここは、もう少し軽くて、日本らしい話題を……)

 必死に考えた私は、

『あ、そうだ!』

ポン、と両手を打った。

『お詫びとして、名古屋城の話をしましょうか!』

『え……?』

 キョトンとするヴァルデマー殿下に、

『あ、姫路城の天守閣についての方がいいですか?それとも、もっと総合的に、我が国の築城における石垣の発展についてお話ししましょうか』

私は笑顔で更に提案した。

「おい、落ち着け!そんな話をされても、俺も分からんぞ!」

「お待ちください!」

 私の左右から、顔色を変えた兄と大山さんが、同時に私の身体を掴む。

「は……?」

 フランス語が分からない伊藤さんは、キョトンとしている。

「な、なんで?!お城は日本の貴重な文化遺産なのに?!」

 兄と大山さんに本格的に抗議しようとすると、宮内省の職員さんが、ちょうど約束の30分が過ぎたことを告げた。私たちは頬を紅く染めたまま、私を惚けたように見つめ続けているヴァルデマー殿下を玄関まで連れていき、押し出すように送り出した。

「そういえば、この手段もあったのでした。これで間違いなく、我々の目論見は成功するでしょう」

「大山さん……。成功するんだったらそれでいいけれど、何でお城の話、最後まで話させてくれなかったのよ……。」

「一体、フランス語で何をおっしゃったのですか、増宮さま?」

「知らない方がいい、議長。“まにあ”な話だ」

 ヴァルデマー殿下を送った後の花御殿の玄関で、大山さんも私も、そして伊藤さんも兄も、ほっと息をついたのだった。


 1900(明治33)年3月17日土曜日、午後4時。

「先ほど、職員から連絡が入りまして……」

 私は花御殿の自分の居間で、我が有能な臣下から報告を受けていた。彼が“職員”と単に言う時は、花御殿の職員のことではなくて、彼が統括する諜報機関・中央情報院の職員のことを指している。

「ヴァルデマー殿下は、ゲオルギオス殿下に、梨花さまとのご婚約をあきらめるように勧告する電報を出したということです。また、同様の電文を、実の姉君である、ロシアのマリア皇太后陛下にも発したとのこと」

「つまり、僕たちの策略は、見事に当たったという訳ですか。……殿下の城郭鑑賞の御趣味という、予想外の手助けもありましたが」

 結核治癒後の経過観察という名目で、相変わらず私の所にやって来る、立憲自由党総裁の陸奥さんがニヤリと笑った。「デンマーク王家は、ロシアとギリシャだけではなく、イギリスとも姻戚関係があります。そのあたりに話が伝われば、オーストリアにも、殿下が本気で医師を目指していることが伝わるでしょう。そうすれば、殿下の志を理解せずに、求婚しようとする馬鹿者はいなくなります。これで、殿下のご夫君探しの質も、より一層上げられるというものです」

「はぁ……」

 私はため息をついた。相変わらず、陸奥さんの言うことはよく分からない。

「あのさ、大山さん?」

 私は、非常に有能で経験豊富な臣下に声を掛けた。

「何でしょうか、梨花さま」

「ヴァルデマー殿下は、気分を害してないわよね?」

 すると、

「……何を理由に気分を害されるとお考えになりましたか、梨花さま?」

と大山さんは逆に私に質問した。

「いや、大山さんも兄上も、ヴァルデマー殿下に殺気をぶつけてたし、私も、その……お城の話をしようとしたら、あなたに止められたし……」

 こう答えると、

「ああ、それならば、よろしゅうございます」

大山さんはそう言って頷き、顔を私の耳もとに近づけた。

「梨花さまが、不必要にご自分を卑下なさるのであれば、またご教育が必要なのではないかと心配致しました」

「そんなの、しないわよ……もう、“教育”はされたくないし……」

 微笑して囁きかける大山さんに、私はため息をつきながら答えた。

(あんなこと、毎日言われちゃったら、私、自分を甘やかしすぎてダメになっちゃう……)

 先月から連日のように続いた“教育”のことを思い出すと、思わず寒気がしてしまう。あんな風に自分を肯定する言葉を囁かれ続け、自分でも言うように強制されてしまうと……。

(恥ずかしい。恥ずかし過ぎる。もしまた、あんなことをされるんだったら、私、穴を掘って埋まりたい……)

 思わず、背筋を強張らせた私を見やると、大山さんはクスリと笑った。

「……そ、それより、私の質問に答えてよ、大山さん」

「ああ、ヴァルデマー殿下なら大丈夫です。特に気分を害されたということはありません」

 大山さんが答えると、

「本当だろうな、大山さん」

陸奥さんの隣に座った輔導主任の伊藤さんが、珍しく大山さんに厳しい声を投げた。

「ええ、それは保証いたしますよ、伊藤さん」

「ならばよいが……」

 伊藤さんはため息をついた。「わしはフランス語が分からないから、こういう時に不便だ。突然、大山さんと皇太子殿下が、ヴァルデマー殿下に向かって殺気を放った時は、どうなることかと肝を冷やしたぞ」

「ああ、ヴァルデマー殿下が、“医者になるように、誰かにそそのかされたのか”と殿下に質問したことですか」

 陸奥さんが伊藤さんに言った。

「全く、失礼しちゃうわよね。私が物事を考えられない子供だと見下して……。でも、今の時代の女性に対する男性の意識って、やっぱりそういう感じなんですかね、陸奥さん?」

 私が陸奥さんに尋ねた時、

「何……ですと?」

伊藤さんが、顔にひきつった笑いを浮かべた。

「そんな無礼なことを、ヴァルデマー殿下はほざいていたのか……。増宮さまが、そんな愚かな女性である訳がなかろう。少し、思い知らせてやる方がいいかもしれんな」

「あのー、……伊藤さん?」

 伊藤さんに呼びかけると、「何、増宮さま、ご安心ください」と彼はひきつった笑いのまま私に言った。

「命までは取りませぬから」

「いや、ちょっと落ち着く方がいいですよ、伊藤さん?!命を取らなかったら、何やってもいいってもんじゃないと思いますよ?!」

 明らかに怒りを発している伊藤さんに、私は慌てて叫んだ。

「おや、ヴァルデマー殿下が梨花さまを侮辱するような問いをしたことは、陸奥どのにしか話しておりませんでしたが……伊藤さんも把握していなかったですか」

「通訳が、その言葉は訳しておらんかったし、増宮さまがあの直後、会話をフランス語に切り替えられたからな。増宮さまのご成長は喜ばしいことだが、……水臭いですぞ、大山さんも増宮さまも」

 大山さんがのんびりと確認すると、伊藤さんは怒気に染まった声で言った。

「かくなる上は、閣議にも持ち帰って、ヴァルデマー殿下に何らかの報復を……大山さん、手伝ってくれるか?」

「伊藤さんの頼みならば、やむを得ませんな。中央情報院も協力いたしましょう」

「ちょっ……?!」

 思わず目を見張った私に、

「ふふ……さて、僕はどうしましょうかね。立憲自由党の諸君と共に反対するのも一興、伊藤殿と大山殿と一緒になって、世界を引っ掻き回すのもまた一興……」

陸奥さんの本当に嬉しそうな声が降って来る。

「いや、ていうか、あなたたち……これ以上事態を悪化させないでよっ!!!」

 私の魂からの叫びは、ちょうど将棋の対局をしていた兄と原さんのところまで届いたようで、

「今回ばかりは、主治医どのの言うことが正しい!大山閣下も伊藤さんも先生も、少しは自重なさったらいかがか!」

慌てて駆け付けた原さんが、大山さんと伊藤さんと陸奥さんにお説教を食らわせたのだった。

 

 こうして、ヴァルデマー殿下の来訪以降、私に対する海外への嫁入り話はピタリと無くなった。

 そして、私は医術開業試験の受験勉強に邁進する日々を送り始めたのだけれど……それはまた、別の話である。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
[一言] いやー、ホント現代から見れば腹立たしいことこの上ない ここまで神経逆撫でなこと言われると、頭に血が上りますよこれ
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ