ドイツからの縁談(1)
1899(明治32)年6月10日土曜日午後2時10分、皇居。
「嘘でしょう?」
思わず、眉をしかめてしまった私に、
「いえ、嘘ではありません」
輔導主任の伊藤さんは、冷静な表情を崩さずに、首を横に振った。
今日は6月の第2土曜日、定例の梨花会の日だけれど、兄と威仁親王殿下はこの場にいなかった。一昨日から、兄はご学友さんたちと一緒に、横須賀に本拠地を置く艦隊に乗り込み、日本沿岸を巡航していて、それに威仁親王殿下も同行しているのだ。
――日本を1周して、佐世保や呉、舞鶴にも寄るようだ。……ああ、動く軍艦に乗れるぞ!いい卒業記念になりそうだ!
兄は、出発前日の剣道の稽古の後で、ご学友さんたちと子供のようにはしゃいでいた。
ちなみに、お母様も、今日は赤十字社に行啓している。お父様の他、出席している皇族は私だけという、少し珍しい形の梨花会だった。
「最初は、私、ハインリヒ殿下には会わなくていいっていう話でしたよね?」
伊藤さんに確認すると、私は唇を尖らせた。
ハインリヒ殿下……あの、ドイツの皇帝・ヴィルヘルム2世の弟である。現在、満36歳だそうだけれど、若いころにも日本に来たことがあり、ドイツでは知日家として知られているそうだ。そんな彼が、今月末、世界一周旅行の途上、日本にやって来る。お父様とお母様には会うと聞いていたけれど、私に会う予定はないと聞いていた。
「それなのに、ハインリヒ殿下と会わなくちゃいけないだなんて……皇帝の関係者とは、余りお近づきになりたくないんですけど」
伊藤さんに文句を言うと、
「恐れることはありませんよ、殿下」
立憲自由党総裁の陸奥さんが、末席から微笑みながら私に声を掛けた。「“史実”では、ちょうど今時分、ハインリヒ殿下はドイツの東洋艦隊の司令官だったということですが、日清戦争が起こらなかったことにより、ドイツが中国での権益に興味を失った結果、東洋艦隊は解隊され、ハインリヒ殿下も、ドイツ海軍の一将官にしか過ぎません」
「そうかもしれませんけれど……」
あの皇帝の実の弟、ということ自体が問題だ。兄の薫陶を悪い方向に受けてしまって、滅茶苦茶な性格をしているのではないだろうか。
「まさか、“史実”と同じ日程で、我が国にやって来るとは思っていなかったが……それとは、別の問題が発生しまして、それでハインリヒ殿下とお会いいただかなくてはならなくなりました」
伊藤さんはそう言って、ため息をついた。
「別の問題?」
尋ねると、
「実は……昨日、ドイツの皇帝が、増宮さまに婚約を申し込んだのです」
……伊藤さんは、とんでもない言葉を発した。
「は?!」
私は思わず立ち上がった。「そんな、皇帝が、私に婚約を申し込むって……皇帝って何歳ですか?しかも、奥さんも子供もいましたよね?!お、奥さんが亡くなったんですか?それとも、私に、あ、愛人になれとか、そういう……」
「梨花さま、落ち着いてください」
パニックに陥った私を、隣に座った大山さんが優しい声でたしなめる。ただ、彼の眉の付け根には、珍しく皺を寄っていた。
「ドイツから、梨花さまの婚約相手として望まれたのは、皇帝ではなく、その御子息……ヴィルヘルム皇太子殿下で、梨花さまより1歳年上の方です」
「ヴィルヘルム皇太子……」
記憶にない。確か、“史実”では、第一次世界大戦後にドイツの帝政が倒れた時の皇帝は、今と同じヴィルヘルム2世だったはずだ。だから、“史実”では、彼が即位する前に帝政が崩壊してしまったのだろう。
「……って、それで、私が“はい、婚約します”って言うと思った?!」
私は、有能な臣下を睨み付けた。「ドイツの皇太子妃になんてなっちゃったら、日本を離れなきゃいけなくなるから、お父様と兄上を守れないじゃない。それに、あの皇帝の嫁になるなんて、胃と心臓がいくつあっても足りないわ!しかも、ドイツになんて嫁いじゃったら、第一次世界大戦が起こってドイツが負けたら、帝政が廃止されちゃう。帝政廃止にならなかったとしても、ヒトラーと対決しなきゃいけない可能性もあるのよ!……だから、ドイツはダメ!絶対ダメ!」
(それに、ドイツは……行くのは、私……)
胸の奥に、微かに痛みを感じた瞬間、
「この話を聞いた斎藤も、言葉は違いますが、猛烈に反対していました」
参謀本部長の児玉さんが苦笑した。
「当然です。昨年、我輩が、増宮殿下の素晴らしさを、たっぷり教えましたから」
末席にいた後藤厚生次官が、こう言って胸を張る。
「いや、増宮さまを崇めているから、という理由ではないのですが……」
児玉さんは首を軽く横に振ると、
「“欧州情勢は、各国の利害と同盟関係が複雑に絡み合っているがゆえに、一度どこかが崩れれば、欧州全体のみならず、世界を騒乱に巻き込んでしまう。そんな危険なところに我が国の皇族を嫁がせてしまえば、余計な争いに巻き込まれて、我が国の進路を危うくする”と……まさにその通りだと、私も思いました」
そう一同に向かって言った。
「確かにその通りだ。斎藤実……わしが“史実”で殺されたときも、海軍大臣をしていたが、この時の流れでは、“史実”以上に力を付けているようだ。流石、“史実”で総理大臣になる男。いずれ、この会に入れなければならないな」
頷いた伊藤さんに、
「だが俊輔、その前に、増宮さまのご縁談を、どう断るかを考えなければならんな」
総理大臣の山縣さんがこう言って、ため息をついた。
「さよう。増宮さまのおっしゃることは非常によく分かりますが、それをそのままドイツ側に返すわけにはいきませんからな」
松方さんが重々しく頷きながら指摘する。
「そうですよね……」
“舅の性格に問題があるから”という言い訳は、そのままドイツ側に返したら、先方の怒りを招いてしまう。それに、“帝政廃止になる危険性がある”とか、“ヒトラーと対決しなければいけない可能性がある”とかいう理由は、“史実”を知らないドイツ側には、全く理解できないだろう。
「うーん、松方さん、私が医者になりたいから、というのはダメですか?」
そう言ってみると、
「皇太子妃が医師になることを、先方がどう思うか、それ次第ではありますが、“皇太子と結婚されたのち、我が国の進んだ医学を学んでほしい”と先方が言ってくる可能性はあります」
厚生大臣の原さんが冷静に指摘した。
(あ、そう来るか……)
私は肩を落とした。確かに原さんの言う通りだ。日本の医学は急速に進んでいると、世界での評判は高くなってきているけれど、現時点で一番の医療先進国であるドイツに追いつけない部分は、まだまだ多い。“ドイツ医事週報”を読んでいると、それがよく分かるのだ。
「……じゃ、じゃあ、“増宮は、実は邪悪な悪魔だ”って噂を流すとか?」
とっさに思い付いたことを提案すると、
「なんでそうなるんですか!」
井上さんが渾身のツッコミを入れた。
「さようでございます。どうして、増宮さまが邪悪な存在になるのですか!」
「かようにお優しいお心をお持ちのお方が邪悪であるとしたら、世界の法律の大元にある正義は崩れ去ります」
「“醜い”とおっしゃらなかったのは進歩だとは思いますが、そうでなければ、自分をいくら傷つけてもよいという訳ではありませんぞ!」
黒田さん、山田さん、桂さんが、次々に反論を加える。
「えー……」
考え込んだ私は、とっておきのネタを思い出して、一同を見渡した。
「じゃ、これはどうかしら。今日、大兄さまがいないから言えるけれど、実は……」
「先日、仕込み傘を抜かれて、栽仁王殿下と輝久王殿下を襲おうとした白袴隊を懲らしめられたことですか?」
隣に座った我が有能な臣下が、私のセリフを先回りして奪ってしまった。
「ちょっ……?!」
「ドイツ公使が先月、“増宮さまのお話を”と求めてきたので、救った相手が皇族だということを伏せて伝えました。しかし、昨日確かめましたら、皇帝は“何と勇敢な少女であることか!”と称賛していたそうです」
「な、何で知ってるのよ、大山さん!」
私は思わず立ち上がって、大山さんを睨み付けた。「関係者には口止めしたのに!」
「何、すぐに耳に入って参りましたよ。梨花さまが、あまり触れられたくない様子でしたので、黙っておりましたが」
大山さんは私の視線を物ともせず、微笑している。そう言えば、この非常に有能な臣下は、諜報機関のトップなのだった。いくら私が秘密を隠し通そうとしても、彼の前では不可能なのだ。
と、
「……朕も美子も、そなたをドイツになど、嫁がせたくない」
上座から、お父様が私に声を掛けた。
「だが、上手い言い訳を考えねば、我が国とドイツとの関係が崩れてしまうこともまた事実だ」
「……」
私は俯いて、お父様の言葉を聞いていた。確かにその通りだ。今、ドイツと戦って、勝てる力は日本にはない。
「先方は、そなたがハインリヒ殿下に面会した時に、そなたの口から答えを聞きたいと言っている。頼むぞ、章子。そなたに掛かっておる」
(って言われてもさぁ……)
私は、大きくため息をついた。
1899(明治32)年6月17日土曜日、午後8時。
「なるほど、そういうことが……」
私は、自分の居間に母を招き入れ、先週の土曜日からのいきさつを話した。本当は、すぐにでも母と話したかったのだけれど、母が私の新しい着物と女袴を縫うのに熱中していたので、時間をきちんと作れたのが、1週間後の今日になってしまったのである。
「そうなんだよ……」
一通り事情を話し終えた私は、大きなため息をついた。
「私、まだ16歳だよ?確かに、今の時代だと、この年で結婚するのも普通だし、華族女学校の同級生でも、“結婚するから退学する”って子も出始めてるけれど……私の時代だと、初婚が30歳台ってことも普通だったから、結婚だの婚約だのって言われても、全然実感が湧かないし、すごく戸惑うんだ」
「そうですか……」
「本当は、母上の他にも、相談したい人がたくさんいるんだ。兄上や、大山さんや……でも、兄上が巡航から帰って来るの、来月の5日だし、大山さんも、梨花会が終わったら、兄上の付き添いをしに、急に佐世保に行っちゃったからさぁ……。伊藤さんも、枢密院の議事が忙しいから花御殿に来ないし、今日は陸奥さんと原さんも“忙しいから”って来なかったし……」
お母様にも相談したいけれど、外国公使の拝謁が相次いでいるとかで、参内するタイミングをなかなか掴めない。ハインリヒ殿下が私に会いに花御殿にやって来るのは、来月の1日……あと2週間ほどしか時間が無い。それまでに、私だけで、ヴィルヘルム皇太子殿下との婚約を辞退する理由を考えなければ……。そこまで考えを進めて、
(あれ?)
私は首を傾げた。似たような状況を、どこかで経験したことがある。確かあれは、陸奥さんが、シズオカマイシンの注射をわざと拒否した直前……。陸奥さんが、原さんと私に意味深なセリフばかり吐いてプレッシャーをかけ、私と原さんを精神的に追い詰めていたころ、伊藤さんはロシアからの帰国の途上にあり、大山さんはわざと出張に出かけ、私と原さんは、他の誰にも相談できないまま、事態を乗り切るために2人で考えなければならなかった。
(この、誰にも相談できない状況って、あの時と似てるけれど、まさか……)
「章子さん?」
考えを深めるに夢中になってしまって、口を閉じた私に、母が心配そうに呼びかけた。
「どうなさったの?」
「ああ、ごめん、母上。大丈夫、こっちのことだから」
私は母に微笑むと、「あのさ、母上」と改めて尋ねた。
「この時代で、婚約を断るとしたら、どういう理由があるかな?」
「そうですねぇ……」
母は少しだけ首を傾げて、「外国の方と結婚すること自体、問題になってしまうかしら」と言った。
「北白川宮の親王殿下、最初、ドイツの女性の方と婚約なさったんです」
「は?!」
「けれど、政府の皆様の説得でお止めになって、結局婚約を破棄なさったんですよ」
(うわー……)
北白川宮の親王殿下と言えば、私が叩きのめしかけた能久親王殿下である。確かに、お妾さんは何人もいる上に、隠し子までいたのだけれど、まさか、外国人の女性にまで手を出そうとしていたとは……。
「それから、結納金が払えない、とか、男性女性のどちらかが病気になってしまった、とか、家長の許可が下りない、とか、家風に合わない、とか……。もちろん、相手に密通行為があったとか、仲が悪くなったという理由でも、婚約破棄や離婚の理由になるでしょうね」
「そうか、私の時代で通用しそうな理由もあるし、通用しない理由もあるし、色々あるんだね。ここまで来ると、何だっていい気が……」
(ん?)
「どうなさったの、章子さん?」
母が、私をまた心配そうな目で見た。「やはり……苦手な話ですから、避けたいと思っていらっしゃるの?」
「それもあるけれど、……それとはちょっと違うの」
私は苦笑した。「母上……これ、皆が、私のことを試してるんじゃないかと思うの。私が、ハインリヒ殿下に、どう回答するかって」
「え?」
不思議そうな顔をする母に、
「多分、婚約を辞退する言い訳なら、いくらでも作れるし、私が上手く出来なくても、多分皆なら、ちゃんと取り繕ってくれる」
私はこう言った。一人一人が経験豊富できちんとした実力を持ち、協力し合えば、世界を謀略で手玉に取ってしまう“梨花会”の面々だ。外国から持ち込まれた内親王の縁談を、先方の気分を害さないように断るなど、簡単に出来るに違いない。
「でも、それをわざわざ私に投げた、ということは、……皆が、私を試験してるんじゃないかなって、そう思うの」
「章子さん……」
母が目を見張った。「すごいことを考えつくのですね。でも、説得力があります」
「へへ、ありがとう、母上」
微笑した私に、
「ですけれど、……もし、そうだとしたら、章子さん、ハインリヒ殿下には、一体どんな回答を返されるのですか?」
と母は言った。
「そう、だなぁ……」




