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転生内親王は上医を目指す  作者: 佐藤庵
第20章 1897(明治30)年大寒~1897(明治30)年処暑
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山梨の孫文

 1897(明治30)年7月17日土曜日、午後2時。

「あのー、増宮殿下?」

 花御殿の食堂に向かって歩く私に、後ろから新任の東宮亮(とうぐうのすけ)・牧野伸顕さんが声を掛けた。東宮亮……要するに、東宮大夫の下、この花御殿の事務を取り仕切るナンバー2である。

「何でしょうか?」

 私は立ち止まって、牧野さんを振り返った。

「やはり、今日、孫文先生にお会いになるのは、お止めになる方がよろしいのでは……」

「嫌です」

 私は満面の笑みを牧野さんに向けながら、キッパリと言った。「山梨県民を悩ます“地方病”の正体が、とうとう判明したんですよ。研究しているご当人の口から、詳しい説明を聞かなければ」

「お気持ちはよく分かります」

 牧野さんは、軽いため息をつきながら言った。「しかし、山縣閣下は、“孫文先生と殿下が会うのは止めるべきだ”とおっしゃいました。一体どういうことか……。私も分からないのですよ」

(それは、私も同じなんだけれどね……)

 愚痴る牧野さんを眺めながら、私も内心で苦笑していた。

「何があっても大丈夫なように、警備は厳重に致しましたが……」

「厳重過ぎるぐらいですよ。食堂の隣の部屋に、警備の人を潜ませてるんでしょうけれど、ここまで殺気が流れてきてます」

 警備の都合があるので、私の居間ではなく、食堂で孫文さんと会うこと。その場には、医科分科会の面々だけではなく、後藤さん、原さん、山縣さんも立ち会うこと……牧野さんが各方面と調整して、こんな条件の下で、私は孫文さんに会うことになった。警備の人間を付けたのは、多分山縣さんのリクエストだろうけれど、ロシアの皇帝の暗殺に関わったヴェーラと、私は厳重な警備なしに会っているのだ。それなのに、なぜ孫文さんと会うのに警備が必要なのか、私には理解できなかった。

(朝鮮の前の国王みたいに、私が暗殺されるとでも思ったのかな?)

 牧野さんにそう言おうと思ったけれど、止めた。朝鮮の前国王が、朝鮮の今の国王と袁世凱に暗殺されたことは、まだ公表されていない。昨日花御殿にふらっと現れた大山さんによると、朝鮮国内にも、もちろん外国にも、前国王死亡の報は漏れていないそうだ。

――来月の半ばごろに、“夏の盛りに病死して、死体があっという間に腐敗した”と発表する手はずになりそうです。

 大山さんは怖いことをさらっと私に報告して、薄く笑ったのだけれど……。

「ですが、あのように山縣閣下が警戒されるのです。増宮殿下の身に、万が一のことがあれば……」

 牧野さんは眉をしかめた。牧野さんは、梨花会のことも、もちろん私に前世があることも、何も知らされていない。牧野さんに、この国を支えられる実力があると分かれば、いつかは話さなければいけないのだけれど、今、彼にそのことを打ち明けたら、間違いなく卒倒してしまう。

「牧野さん、落ち着いてください。大体、孫文先生が、私に危害を与える理由がないじゃないですか」

 私は牧野さんに微笑んだ。「こんなに警戒しなくても大丈夫です。私だって、腕に覚えはありますからね。何かあっても、相手を無力化するぐらいはできます。剣道で五級上をいただいた私をなめないでほしいわ」

「本当は、それもおかしいのですが……」

 牧野さんの額に、深い皺が刻まれる。

 剣道の級位が貰えたのは、私と兄が無理を押し通したことによる。もちろん、実力が無いのに級位を貰った訳ではない。“皇族が剣道の級位審査を受けるなど前例がない”と渋る牧野さんを、私と兄、そして兄のご学友さんたちが押し切ったのだ。牧野さんが私たちを止めようにも、花御殿の他の職員は、私と兄のやんちゃに慣れっこになっていて、全員が私と兄の味方をする。御学問所総裁の勝先生と宮内大臣の土方さんも、私と兄に全面的に賛成する。牧野さんが困って相談した松方さんも、“殿下がたのおっしゃることはもっともだ”と言う……。

 その状況を見て、牧野さんも覚悟を決めたらしい。牧野さんは私たちの剣道の師匠である橘周太中尉とも相談して、皇宮警察の皆さんに剣道の指導をしている、警視庁の剣道師範を花御殿に招いた。そして、私と兄が、ご学友さん共々、級位を認定してもらったのが、今月の頭のことである。ちなみに、警視庁の剣道は段位ではなく、一級から七級の級位で格付けがされる。一番強い一級と、六級・七級は伝統的に認定がされず、五級と四級は更に“上・中・下”に、三級は“上・下”に分けられるのだそうだ。私と兄は“五級上”、甘露寺さん・従義さん・徳川さん・南部さんは“五級中”と認定された。ちなみに、毛利さんだけは“三級下”に認定された。流石の剣の実力である。

「おかしくなんてありません。医者になるにしても、家庭に入って子供を生むにしても、女子が武術をして身体を健康に保ち、体力を付けることは重要です。それに、“剣を学べ”というのは、お父様(おもうさま)のご命令でもあります」

 そう言うと、牧野さんは慌てて頭を下げた。お父様(おもうさま)の命令……それは牧野さんにとっては絶対だ。

「安心してください。例え孫文先生が何かをしても、議論でも格闘でも、返り討ちにしますから。牧野さんは、大船に乗ったつもりでいてください」

 私の力強い言葉に、牧野さんは大きなため息をついた。


「……そして、地方病の流行地域に、地方病の患者さんと同じように、お腹の膨れた猫が多いことに気が付いた。それで、その猫の解剖をしたら、門脈から寄生虫が見つかったんですね」

「はい、そうです」

 午後2時45分。花御殿の食堂で、私の質問に孫文さんが頷いた。フロックコートを着た彼は、辮髪は結っておらず、髪型はいわゆる七三分けになっていた。聞けば、清では、2、3年前に、“辮髪をするように”という昔から出ていた法律が廃止され、皇帝陛下が真っ先に辮髪を止めたそうだ。

「そして、こちらが寄生虫の標本になります」

 頬を紅潮させた孫文さんは、流暢な日本語で説明しながら、小さなガラス瓶を取り出す。中にはホルマリン付けにされた、体長1、2センチほどの細長い日本住血吸虫の標本が入っていた。

「ほうほう」

 私の横から、後藤さんがずいっと首を突き出し、標本を覗き込む。その後ろから、ベルツ先生や北里先生など、医科分科会の面々が興味深げにガラス瓶の中を見ている。今日は東京帝大の緒方先生と、東京帝大医科大学を卒業し、今年初めから医科研に勤務し始めた志賀潔先生も参加していて、ノートを取りながら、住血吸虫の標本を熱心に観察していた。そんな光景を、原さんが壁際から恐々眺め、私の隣に座った山縣さんは、厳しい視線で注視している。

(何で、こんなに人数が来るかな……)

 私は内心、ため息をつきたかった。

(朝鮮のこともあるし、熾仁(たるひと)親王殿下も亡くなったから、忙しいでしょうに……)

 実は、今月の11日に、体調を崩していた有栖川宮熾仁親王殿下が、突然亡くなられたのだ。明日行われる熾仁親王殿下の葬儀の準備のため、各省ともにバタバタしている中、内務大臣と内務次官、衛生局長がこの場に顔をそろえられたのは、牧野さんの手腕のなせるところなのだとは思う。ただ、山縣さんは殺気を発する寸前だし、襖を隔てて隣の部屋からは、複数人の気配と殺気が漏れ出ていて、とても居心地が悪い。孫文さんの側に通訳として控えている内務省の職員2人も、それを感じ取ったのか、顔を強張らせていた。

「孫文先生、私は大丈夫ですから、列席の皆さんに、標本を回してあげてください」

「かしこまりました」

 私に一礼すると、孫文さんは標本の入ったガラス瓶を後藤さんに渡した。後藤さんはガラス瓶の中をじっくり見ると、ベルツ先生にそれを渡した。

「この寄生虫の虫卵は、見つかっているんですか?」

「解剖した猫の肝臓と腸管にも、この寄生虫のメスの卵巣にも見つかりました。地方病患者の便にも見つかっています。そして、地方病で苦しみ、死後解剖を希望されて先月亡くなった女性の肝臓と、腸管の標本にも……」

「そうでしたか……」

 孫文さんの言葉に、私は目を伏せた。この時代、日本では病理解剖はまだまだ普及していない。ヴェーラと三浦先生に担当してもらっている、忍のコホート研究でも、病理解剖に応じてくれる人は、年に2、3人いるかどうかだ。

「献体してくれた方……本当に、素晴らしくて、ありがたい志です」

 私は軽く頭を下げた。「その方の志を無駄にしないように、地方病を根絶しなければいけませんね」

「はい……」

 孫文さんが目を伏せた。後藤さんも、医科分科会のメンバーも頭を垂れる。

「ところで孫文先生、この寄生虫の卵から孵化した幼生は、見つかったんですか?」

 私が尋ねると、孫文さんは「いえ、まだ……」と首を横に振った。

「そうですか。猫から成虫も卵も見つかっているなら、幼生が解剖した猫から見つかってもおかしくないのに……」

 もちろん私は答えを知っている。水中に落ちた虫卵が孵化して、水田や小川に生息するミヤイリガイという巻貝に寄生し、更に成長してセルカリアになる。それが水中に出ていき、ヒトや猫の皮膚から体内に侵入して成虫になるのだ。だけど、それを全部言ってしまうと、孫文さんに不審がられてしまう。

「確か、地方病の感染者って、川や水路沿いに住んでいる人が多いんですよね……」

「はい、そうです」

「虫卵が水の中で孵化して幼生になって、それが猫やヒトに感染するのかもしれない。感染経路も、経口なのか経皮なのか……」

「経皮ですか?!」

 孫文さんが目を丸くする。

「緒方先生が研究しているマラリアだって、蚊が媒介しますけれど、蚊がヒトを刺さないと感染が成立しないから、大雑把に言えば、皮膚を介した感染じゃないですか。それに、地元に、“蛍を捕ったら腹が膨れる”とか、“セキレイを捕ったら、腹が膨れる”とかいう言い伝えがあるんでしょう?もし、水を飲んだら感染するのなら、もっと別の言い伝えが残っていると思うんです。だから、幼生が皮膚から体内に侵入する可能性はあると思います」

「……」

「なんなら、次は猫をたくさん連れてきて、感染確立実験をしたらどうかしら。経皮感染を防いだ猫、経口感染を防いだ猫、両方防いだ猫、両方とも防がない猫、4群の猫を作って、経過を見るんです。猫だと難しいなら、もっと大型の動物……犬とか羊とか、牛でもいいかもしれません」

「なるほど、流石、増宮殿下!」

 後藤さんの叫びに、孫文さんの横に控えた内務省の職員さんが、目を輝かせながら激しく頷いた。

「……まだ、水中で虫卵が孵化するか、それを確かめられておりません。それが確かめられたら、殿下のおっしゃる実験は非常に有用なものと考えます」

 孫文さんは慎重に言った。

「是非やりましょう、孫文先生!」

「山梨に戻ったら、早速手配を!」

 通訳役の内務省の職員さんが、2人とも意気込みながら孫文さんに声を掛ける。

「ええ、虫卵が水中で孵化することが確かめられば、すぐにでも」

 頷く孫文さんを見ながら、私は内心ほっとしていた。“史実”で日本住血吸虫が発見されたのが、原さんによると1904(明治37)年。それよりも7年早く、日本住血吸虫が発見されたことになる。次は、ミヤイリガイを孫文さんに見つけてもらわなければならない。そして、ミヤイリガイを駆除する決定的な証拠を世間に示し、大々的にミヤイリガイを駆除するのだ。

(生石灰の散布が、ミヤイリガイの駆除に効くんだっけ……。それと、貝が生息できるような湿地をあの地域で無くして、小さい溝や水路もコンクリート製にして……)

 地方病の撲滅に向け、取り得る手段を考えていると、

「しかし、あなた方の言う通り、本当に御聡明な御方だ」

孫文さんは、通訳役の内務省の職員さんを交互に見ながら日本語で言った。「増宮殿下は、医学に理解が非常におありになる。脚気予防となる麦飯は、この国では、高貴な方々が食べるものではないそうだが、率先してお召し上がりになっているとか。それは、増宮殿下が、医学に強くご興味をお寄せになっているからでしょう」

(うわー……山梨まで広まってたか……)

 私は苦笑した。実は、3月の梨花会以降、私と兄が花御殿で麦飯を食べている話が、時々新聞に乗るようになった。そのせいか分からないけれど、ここ1、2ヶ月、東京の麦の値段が上がっている。今は麦の収穫の直後で、大量に麦が出回る時期で、麦も不作ではないのに、である。特に押麦は、お米とほぼ同じ値段になってしまっているのだ。

(私と兄上が麦飯を食べている話が全国に広まるのも、時間の問題かなぁ……まぁ、これで、東北・北海道地方での米から麦への作物転換が促進されればいいけれど……)

 と、

「……増宮殿下、お願いがあります」

孫文さんが私を見つめた。何故か、彼の目は輝いていた。

「なんでしょうか?」

「今日の記念に、写真を撮らせていただきたいのです」

「はぁ、別に構いませんけれど……」

 頷くと、孫文さんだけではなく、通訳の職員さんたちの顔まで明るくなり、

「ああ、素晴らしい!苦節3年、いつかは殿下に会うことが出来ると耐え忍んだ甲斐があった!」

「これで、山梨に残っている同志たちも喜ぶでしょう!ありがとうございます、後藤局長!」

意味不明な言葉を叫び始めた。

(ど、同志?)

 戸惑っている私の身体が、急に誰かに抱き寄せられた。私の隣に座っていた山縣さんだ。

「ちょ……急に何するんですか、山縣さん!」

 私の抗議にも関わらず、

「ならん!ならんぞ、貴様ら!」

山縣さんは私を横から抱きながら、通訳の職員さん2人と孫文さんに、殺気を向けている。

「大山どのがいない今、一介の武弁として、増宮さまはこのわしが守る!」

「何なんですか、一体?!今の状態、全然守られてないんですけど、山縣さん!」

 山縣さんを睨み付けると、

「はっ、失礼いたしました!こうでしたか!」

彼はなぜか、私を離さず、ますます強く私を抱き寄せる。

「だから違う!離して!はーなーしーてー!!!」

 私が山縣さんの腕の中でジタバタ暴れているうちに、

「殿下、御無事ですか?!」

「誰だ、不審者か?!」

食堂の異変を察して、隣室から皇宮警察の方々が飛び込んでくる。

「どうした?!」

 更に、御学問所から花御殿にちょうど戻ってきた兄が、この騒動を目の当たりにして、血相を変えて私の側に駆け寄る。

 ……食堂は、あっという間に、蜂の巣をつついたような大騒ぎになってしまった。


 午後3時半。

「えー?!そういうことだったんですか?!」

 医科分科会の面々や孫文さんたちには、とりあえずお引き取り願い、皇宮警察の皆さんと牧野さんに、食堂の片づけをお願いして、私は兄と、その場にいた梨花会の面々と、応接間に移動し、騒動の裏側にあった事情を聞いていた。

「その隠し撮りした、称える会の人たちに、スパイとしてのイロハを叩き込んで、孫文さんの側に監視として置いていた、と……。だから、山縣さんはその人たちがまた私を隠し撮りするんじゃないかと警戒してた、ってことなんですね?」

「はい……」

 後藤さんが、本当に済まなそうな表情で私に頭を下げた。「まさか我輩も、写真をドイツに送るよう催促した結果、同志たちが増宮殿下の隠し撮りに及ぶとは思いもせず……」

(こっちは、そんな会が内務省に出来ていたとは思いもしなかったわよ……)

 後藤さんと山縣さんが話してくれたのは、なぜか内務省内に出来ていた、私を称える会のことだった。後藤さんもその一員だったのだけれど、留学したため、私に会うことはおろか、写真に接する機会も皆無になってしまった。そこで、写真を留学先のドイツに送るよう、日本にいる会員に催促した結果、彼らが私を隠し撮りしたのだそうだ。

「覚えている。3年前の1月だ。あの時、武官長と一緒に捕まえた連中か」

 制服姿の兄が、両腕を組んで、硬い視線を後藤さんに投げた。

「え?そんな連中がいたの、兄上?」

「買い物をしている時に、俺と梨花が店に入るところを撮ろうとしていた。お前は気が付いていなかったが」

「待って、私の時代のカメラならともかく、今の時代のカメラって、小さいカバンぐらいの大きさはあるわよ?そんな大きなカメラを、どうやって隠していたの?」

 前世の父の見ていたスパイアクション映画だと、隠し撮り用の小型カメラなんてしょっちゅう出てきた。だけど、今の時代で隠し撮りなんて、どうやるのだろうかと思っていると、

「写真家よろしく、店の側でやっていた大道芸を撮っているふりをして、お前にレンズを向けていたのだよ」

兄が答えた。「俺とお前が回る店は大体決まっているから、下調べをしていたのだろうな。不審に思われないよう、俺たちが店に寄る時間帯に、店の側に大道芸をわざと呼んできたらしい」

(うわぁ……)

 私は頭を抱えた。これは、なかなかに手の込んだ、本格的な犯行だ。

「そこまでして、私なんかの写真を撮ってどうするのよ……」

 そう呟いた瞬間、

「「「“私なんか”?!」」」

兄と山縣さんと後藤さんが、同時に眉を跳ね上げた。

「何を仰せられますか!愛らしく美しい増宮殿下のお写真は、海外でも喜ばれるのですぞ!」

 後藤さんが勢いよく叫べば、

「そこまでになってしまっているのか……嬉しいのは嬉しいが……わしはどうやって、増宮さまをお守りして、お心を慰めればいいのだろうか……」

山縣さんはそう言って、哀しそうにうつむく。

「梨花、前に言っただろう。お前は俺の誇りだ、と。俺の誇りが、自らを必要以上に卑下して、己を傷つけてどうするのだ」

 兄はそう言って、軽く私を睨み付けた。

「皇太子殿下のおっしゃる通りです。“自分を傷付けないように頑張る”と、増宮さまは大山どのにおっしゃっていたではありませんか」

「確かにそうだけど……今のが、自分を傷付けるようなことなの?」

 山縣さんの言葉に首を傾げると、

「ええ」

「ああ」

「さようでございます」

山縣さん、兄、後藤さんが、同時に頷いた。

「もし、またご自身を傷付けられるなら、大山どのを呼び出さなければなりませんが……」

「そ、それはだめ、山縣さん!」

 私は思わず叫んだ。今は朝鮮の動静を注視していかなければならない時……そんな時に、彼の邪魔をする訳にはいかない。

「ならば、この山縣にお約束いただきたい。ご自身を傷付けるような言動は、もう2度とお取りにならないと」

「その前に……」

 私は咳ばらいを一つすると、疑問に思ったことを指摘した。「なんで山縣さんが、そのことを知ってるんですか?私がそう言ったの、確か、私と大山さんが梨花会で喧嘩した直後でしたけど……周りには、大山さん以外の人はいませんでしたよ?」

 山縣さんの顔が、一瞬ひきつった。

「い、いや、それは……」

「ま、まさか山縣さん、あの時の会話を盗み聞きして……それって、内務省の職員さんたちと同類じゃないですか」

「ち、違います、増宮さま。誤解です!」

「そうです!あの時我々は、増宮殿下と大山閣下が仲違いされたのではないかと心配で、様子を見守ろうと……」

 言い訳しようとする山縣さんと後藤さんに、

「大義名分を付けたって、私は誤魔化されないですよ!」

私は叩きつけるように言った。「今日という今日は、言わせてもらいます!大体、あなたたち、私のことを色々監視しすぎなんです!盗み聞きはしょっちゅうされるし……それに先月だって、大山さんが、フリードリヒ殿下に送ろうとした手紙を盗み見て……本当に、いい加減にしてくださいよ!」

 ……こうして、話は更にややこしくなってしまったのだけれど、原さんと、“結核の経過観察受診”に現れた陸奥さんが間に入ってくれて、今後、梨花会の面々は私の会話を盗み聞きしたり、手紙を覗き見たりするなど、私のプライバシーを侵害しないこと、そして、私は自分を傷付けないように努力することで、ようやく合意が成立した。とは言え、盗み聞きや盗み見は、現場を押さえないと注意しようがないし、今までも梨花会の面々は、私に気付かれずに盗聴や盗み見をやってのけているから、意味は無いかもしれない。それを陸奥さんに指摘すると、

「殿下がご自身を傷付ければ傷付けるほど、皆様心配になられて、盗聴も覗き見もなさるでしょうから、まずは殿下がご自身を大切になさることです」

と言われてしまった。そう言われれば、確かにそうかもしれない。私は渋々ながら、矛を納めることにした。

 そして、孫文さんは日本住血吸虫の発見についての論文を執筆し、地方病撲滅のため、研究を更に続けていくことになるのだけど……それはまた別の話である。

※作中のこの時点では、実際には大日本武徳会も出来ているので、剣道の級位認定はそちらでもよかったのですが、警視庁の方にしました。級位については「警視庁武道九十年史」の記述を採りました。


※清で辮髪が廃止になるのは、実際には辛亥革命後です。


※なお、“地方病”……日本住血吸虫症については、ウィキペディアの当該記事を参考にしています。しっかり勉強したいという方は、拙作よりもそちらをお読みください。(なお、かなり読みごたえがありますので、作者はスマホよりPC閲覧を勧めます)

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