閑話 1895(明治28)年寒露:What’s happening in the Palace?(2)
1895年(明治28)年10月12日土曜日、午後4時40分。
「……」
皇居・表御殿の一室で、嘉仁親王は手持ちぶさたと言った体で、椅子に掛けていた。
皇后は、更に奥の部屋で休んでいる。もう2時間ほど経つが、“入って来ないでほしい”と嘉仁親王に言って奥に入ったきり、動く気配がない。
(無理もない……)
嘉仁親王は思った。自分も、愛しい妹と、その妹が心から信頼する臣下とが、あのような言い争いを演じるなど、未だに信じられないのだ。優しい母には、その光景自体が耐えられなかったのだろう。
しかし、もっと問題なのは、自分の妹のことである。
確かに、伊藤議長や父の言うように、妹の振る舞いは、主君が取るべき態度ではない。
それに、“前世の年を合わせれば36才だ”という妹の主張も、正しくはないと親王は感じていた。知識の量や頭の回転はそれに相応すると思うけれど、心は……前世の辛い経験で、その一部を固く閉ざしてしまった彼女の心は、漸く、今の身体相応に、成長を始めたばかりだ。そう思う。
(そこに武官長が、あのように梨花を侮辱しては……また梨花は、心を閉ざしてしまうのではないだろうか)
今すぐ花御殿に帰って、愛しい妹を抱き締めたい。抱き締めて、心に受けた傷を癒してやりたい。しかし、母のことも心配だし、父帝も“伊藤が戻るまでは動くな”と自分に命じている。これでは、動くにも動けない。
(議長はまだ戻らぬのか……)
親王がそう思った時、
「失礼いたします」
と廊下から声がかかった。
「堀河侍従か。入ってくれ」
嘉仁親王の声に応じて、廊下と部屋を隔てていた障子が開けられ、黒いフロックコートを着た堀河侍従が入ってきた。
「皇后陛下のお具合は?」
尋ねる堀河侍従に、
「部屋に入られてから、ずっと休んでおられる。梨花と武官長の争いが、よほど堪えられたようだ」
嘉仁親王は溜め息をつきながら答えた。「仕方がない。わたしも辛いのだ。梨花の心が傷付いているのではないかと思うと」
「そうですか」
堀河侍従は静かに答えた。その顔には、微笑が湛えられている。それを見て、
「心配ではないのか?」
嘉仁親王は堀河侍従に尋ねた。
「確か侍従は、梨花が幼い頃、輔導主任をしていたではないか。梨花のことが心配ではないのか?」
「そこまで心配してはおりません」
堀河侍従は微笑を崩さずに答えた。
「俗に、ケンカするほど仲がいい、と申します。もちろん、増宮さまも大山どのも、言葉づかいが良かったとは申しませんし、あの場はケンカをするにふさわしいとは言えませんが、あれは心を許しあっているからこその言い争いだと、元輔導主任としては思いますよ」
「心を許しあっているからこその、言い争い……」
「はい」
堀河侍従は、微笑を保ったまま頷く。
「するとわたしは……まだ梨花に、心を許されていないということか?」
考え込んだ嘉仁親王に、「そうではありません」と堀河侍従は静かに首を横に振った。
「頼りになるお兄様と……増宮さまは本当に、皇太子殿下を慕っていらっしゃいます。それに、増宮さまは、陛下とともに、皇太子殿下を守ることを第一に考えていらっしゃいます。ですから、殿下とケンカをするという考え自体が湧かないのでしょう」
「……」
「仲の良さの形は、それぞれでございます。増宮さまと大山どの、増宮さまと皇太子殿下、それでまた違うのです。きっと、今ごろは伊藤どのの仲介で、増宮さまと大山どのは、仲直りされておられるでしょう。私はそう思います」
「そうか、仲直りしているか……」
嘉仁親王は寂しげに微笑した。
「堀河侍従。……梨花の心も、癒されているだろうか?」
「恐らくは」
堀河侍従は答えた。「大山どのもおやりになるでしょうが、それで足りなければ、殿下もおやりになればよろしかろうと思います」
「そうだな」
嘉仁親王は軽く頷くと、更に口を開いた。
「梨花はわたしの誇りだ。自分が大きく傷ついていても、わたしのことを第一に考えようとする。……しかし、梨花の心を支える者がいなければ、梨花はずっと傷付いたまま、今生を過ごすことになってしまう。そんなことには、なってほしくないのだ。今ならわたしが梨花の傷をすぐ癒せるが、わたしが節子と夫婦になれば、そう言う訳にはなかなかいかない。だからこそ、将来、梨花には、心から愛せる夫君と夫婦になってほしい。そして、夫君に梨花の傷を癒してもらいたいのだが……」
と、
「殿下、こちらにいらっしゃいましたか」
堀河侍従の後ろから、伊藤枢密院議長が現れた。
「議長!」
嘉仁親王は、椅子から立ち上がった。「いかがだ、梨花は!」
「多少は苦言を申し上げましたが」
伊藤枢密院議長は、重々しい口調で言った。「しかし、すぐにご反省されました。そして、大山さんを呼んで、わしの仲介で仲直りしてもらいましたゆえ、もう安心でしょう」
「そうか、仲直りしたか!」
嘉仁親王は大きく息を吐くと、また椅子に身を預けた。
「ならばよい。ただ、梨花が傷付いていないか、それが心配だが……」
「私もです」
不意に、ここの部屋にいた三人のものではない言葉が響いた。
「お母様?!」
部屋の境目の戸を開けた皇后に、嘉仁親王は駆け寄った。
「お加減は大丈夫なのですか?!」
「大丈夫です」
皇后はしっかりした声で答えた。
「ただ、増宮さんと、大山どのが心配で……」
「それなら、大丈夫です。万が一、梨花の心が傷付いていれば、俺が梨花を……」
すると、
「私も参ります」
皇后は言った。
「え?」
「私も参ります」
キョトンとした嘉仁親王に、皇后は再度繰り返した。
「では、日を改めて花御殿に、ということでしょうか?」
そう尋ねた堀河侍従に、
「いいえ」
皇后は首を横に振ると、
「今日、これから参ります」
と力強く答えた。
「?!」
嘉仁親王も、伊藤枢密院議長も、堀河侍従も目を丸くする。
「お、恐れながら皇后陛下、花御殿への行啓は、前例がございませんが……」
恐る恐る、堀河侍従が問い掛けると、
「前例など、これから作ればいいのです」
皇后はこう言って、少し笑みを零した。
「私は増宮さんの所に参ります」
「確かに、前例などこれから作ればよい。いや、今我々が行うことこそが前例。まあ、我々が作った前例に、縛られ過ぎる未来には、なってほしくはありませんが……」
伊藤議長が深く頷く。
「ならばお母様、行きましょう、ともに」
親王の声に、皇后はハッキリと頷いた。
一方、同時刻、花御殿の庭園。
「いたぞ……」
庭園の一角にある欅の木を遠巻きにするようにして、何人かの男たちが茂みに潜んでいた。欅の木の下には、増宮章子内親王と、大山東宮武官長がいる。
「普段の2人と、変わりがないような……」
小声でつぶやく黒田総理大臣の視線の先では、増宮内親王が木の根元にハンカチーフを広げている。
「そうじゃなぁ」
黒田総理の隣で、西郷国軍大臣がのんびりと言った。
「む?殿下がお座りになられましたな、三条どの」
松方大蔵大臣が前方を伺いながら、横にいる三条公爵に囁く。
「そやねぇ。えらい人数の垣間見になってしもたけど……」
「あ、松方閣下、増宮殿下が何かおっしゃっておられます」
松方蔵相と三条公爵の後ろで、高橋氏が報告した。
「身振りからして……“ここに座れ”とでも……」
大隈逓信大臣がそう言った瞬間、大山東宮武官長が、辺りを睥睨した。
「「「「「「……っ!」」」」」」
潜んでいた全員が、一斉に息を殺す。しかし、数秒後、大山東宮武官長は、何事もなかったかのように、増宮内親王のすぐ隣に腰を下ろした。
「近いな、お身体が」
「ああ、近い」
黒田総理と西郷国軍相が小声で言い合っているところに、彼らの後ろから、数名の男たちがやって来た。
「黒田さん、西郷さん」
「ああ、山縣さん」
黒田総理が振り返った先には、息を切らしている山縣内務大臣が立っていた。その後ろには、井上農商務大臣、山田司法大臣とともに、後藤衛生局長、勝伯爵の姿がある。その更に後ろから、陸奥外務次官が歩いてやってきた。
「まぁ、ご覧ください」
黒田総理は、大山東宮武官長に察知されないように気を付けながら、少し身体をずらして、山縣内相のために場所を作った。山縣内相が前方の欅の木の根元を見た瞬間、大山東宮武官長が、増宮内親王の右手を取った。
「……!」
呆然とする山縣内相の横で、
「ああ、よかった、仲直りされたな」
井上農商務相がほっと息を吐く。
「これで一安心だな、狂介。……狂介?」
すると、潜む一同の耳に、
――私、あの、前世の失恋以来、女性らしいことは一切排除していたから、恋愛なんてものも、前世では考えたことがなくて……。
という、増宮内親王の声が届いた。
「失恋?」
「何ですか、それは?」
首を傾げた高橋氏と後藤衛生局長に、
「あー、そういや、フランツ殿下がいらした時、お前ら、まだ増宮さまのことを知らなかったな」
勝伯爵が、手短に増宮内親王の前世の失恋のことを説明した。
「なるほど、そのようなことが……」
陸奥外務次官が、顎髭を撫でた瞬間、
――そ、それに、あなたと捨松さんの馴れ初めを聞いて、私、その……。
増宮内親王の上ずった声があたりに響き、一同は一斉に前方を見た。そっぽを向いた増宮内親王は、恥ずかしさからか、頬どころか、耳まで紅く染め、微かに身体を震えさせていた。
「お美しい……」
山田司法大臣がポツリと言うと、「ああ」「さよう」「実に愛らしい」などと一同が返答する。その視線の先で、大山東宮武官長が、美しく愛らしい内親王の頭を優しく撫でた。
――た、馬鹿……。
大山武官長に頭を撫でられる増宮内親王が、顔を真っ赤にして呟く。
「なんでぇ、その、たーけ、ってぇのは?」
勝伯爵が周りに尋ねると、
「確か、名古屋や岐阜方面のお国言葉だったかと……“馬鹿”という意味ですよ」
後藤衛生局長が答えた。
「確か、前世は名古屋で生まれ育ったっておっしゃってたからねぇ……」
三条公爵のつぶやきに、
「しかし、我々の前では、一度も仰せられたことがない」
松方蔵相が重々しく返答した。
「それはつまり……大山殿に、非常に心を許していらっしゃる、ということではないでしょうか」
陸奥外務次官が冷静に指摘すると、
「でしょうな。く……羨ましいですが、仕方ありません。吾輩の命の恩人でいらっしゃるとは言え、やはり、大山さんと増宮さまの君臣の絆は特別なもの」
大隈逓信相が寂しげに微笑する。
「ですな……」
大隈逓信相に返答する山縣内相の目には、涙が光っていた。
「あのように仰せられては……“大切な大山に相応しい主君になる”、と、あのように仰せられては、わしの出る幕はありませんな……」
「ま、気を落とすな、狂介。何があっても、俺たちは増宮さまの幸せを願う。それでいいじゃないか」
井上農商務相が、山縣内相の肩を軽く叩いた。
「そうですな、聞多さん。互いを切り刻むような喧嘩をなさった後で、ご自分のことより、大山どのを癒すこと、それを第一に考えられるようなお優しいお方……わしは、その方を、何があっても守らなければなりません。一介の武辺として……」
山縣内相と井上農商務相が話している横で、
「や、弥助どん!」
西郷国軍相が息を飲んだ。
「そこで、その話題を振るか?!」
「だな、信吾どん。まさか、ご結婚のことを言い始めるとは……」
そう言った黒田総理の耳に、
――私が今生でやりたいことと、私の置かれた立場を考えると、結婚するという選択肢はあり得ない。
増宮内親王の、とんでもないセリフが飛び込んできた。
「?!」
驚愕する一同に、
――邦芳王殿下か恒久王殿下と結婚と言うのも、無くはないだろうけれど、愛情なんて全然芽生えないだろうし、私もそんな状態で結婚したり、子供を産んだりしたくないしなぁ……。相手も辛いと思う。それなら、一生独身でいる方が気楽だし、兄上とお父様を助けることに集中できるよ。だから、結婚は、私にとっては、何ら利益を見いだせないことなんだ。万が一、結婚話が出て来ても、全力で潰そうと思ってる。
増宮内親王の信じがたい言葉が更に届いた。
「な……なんやて……さっきの梨花会で言われたことは、売り言葉に買い言葉で、御本心やないと思っていたのに……」
三条公爵が地面に両手をついた。「わしは大病にかかって以来、増宮さまが華燭の典を挙げられる、その日を楽しみに生きてきたのに……」
「わしもです、三条どの。こんなことがあっていいものか……」
松方蔵相が沈痛な表情で言う。
「ってかよう、無理だぜ、そんなん。増宮さまにゃ、将来、増宮さまの心を支える家族が、絶対に必要だぜ?」
勝伯爵はこう言うと、茂みの陰で歯ぎしりする。
――ですから、今から、ご結婚の可能性を、すべて否定することはしなくてよいと思うのです。
「そうです、その通りです、大山さん!」
山田法相の言に、一同が一斉に頷く。
――とても愛らしく、年々増していかれるお美しさ。ご聡明で、学問にも剣道にも優れ、その身に未来の医学の知識を有しておられる。そして、お優しいそのお心。
「ううっ、流石大山閣下!分かっていらっしゃる!」
後藤衛生局長はすすり泣いていた。
「あ、また、顔を紅くされた……」
「非常に戸惑っておられるように見えますが……」
高橋氏と陸奥外務次官が指摘するように、増宮内親王の頬はまた紅く染まった。嫌々をするように頭を横に大きく振ると、頭の高い位置でまとめられたおさげ髪が、根元を飾る赤いリボンと一緒に激しく揺れる。
――このお可愛らしくて美しい姫君のお心を射止めて、心を互いに許して愛し合う殿方は、本当に幸せ者でしょうな。
「その通りだ、弥助どん。しかし、増宮さまの、何と愛らしく美しいことか……」
黒田総理が、熱い眼差しを増宮内親王に向ける。彼だけではない。増宮内親王を見守る男たちは、彼女の姿にじっと視線を送っていた。
その集中点で、
――そ、そんな、宝くじ……はまだなかった、富くじの一等が当たるような話、あるわけが……。
増宮内親王が頬を紅くしたまま、上ずった声で叫んだ。
すると、
「富くじの一等に当たるような話……ですと?」
山縣内相の右眉が跳ね上がった。
「ああ、……そんな訳ないでしょう、増宮さま?」
井上農商務相が、不気味な笑みを見せる。
「幸せなご結婚の確率など、ドシドシ進めていけば、無限大に上げられる!」
大隈逓信相が右手で拳を作りながら、小さく叫んだ。
「そうじゃ。国軍三羽烏には、頑張ってもらわねばなぁ」
西郷国軍相が顎を撫でる横で、
「ですな。芳之王殿下と正雄王殿下の他に、北白川宮殿下に隠し子がいないかどうかも、更に探す必要がありましょう」
松方蔵相が重々しく頷いた。
「菊麿王殿下は、先日ご結婚されましたし……」
「山田閣下、守正王殿下はいかがですか!」
後藤衛生局長が、山田法相にかみつくと、
「いや、それより邦彦王殿下は!それか、多嘉王殿下か博恭王殿下は!」
高橋氏が横から提案する。
「あきませんよ、多嘉王殿下は、京都から動かんって言うてはる……」
三条公爵が優雅に首を左右に振る。
「博恭王殿下も、経子さまと婚約が決まっちまってるよ……。こればっかりは動かせねぇ、陛下の内々のご命令だからよぉ」
勝伯爵がため息をついた。
「ふん、国内で無理なら、海外ですな。陛下を説得して、増宮さまの婿に相応しい海外の王族を招いても……」
黒田総理がそう呟いた瞬間、一同を、凄まじい殺気が襲った。
「……っ!」
「大山どのに気取られた!」
勝伯爵と山縣内相の顔が青ざめる。
「逃げるぜ、皆!」
井上農商務相が脱兎のように飛び出すと、潜んでいた面々がその後に続く。
「ふふ……」
その最後尾を、陸奥外務次官が悠然と歩いていた。激しい運動が病身に堪える、というのもあるが、大山東宮武官長が、自分たちを追っては来ないと確信していたからである。
(僕らに聞かせたかったのでしょう、大山殿は……。殿下が、ご自身のご結婚について、どう思っていらっしゃるかを)
この大人数の気配なら、皆が揃った時点で、彼には容易く察知出来ていたはずだ。しかし、彼はその時点で、自分たちを追い払わなかった。それは、先ほど、“結婚なんてしなくていい”と父帝の前で言い放った増宮内親王が、……特異な魂の遍歴をたどった彼女が、自身の結婚について、本当はどのように考えているか、それを自分たちに聞かせたかったからではないか。そう陸奥外務次官は考えたのだ。
(ですが、それはあくまで、話の流れの結果……。一体、当初は何を目的とされていた?)
「……見えませんね、殿下」
陸奥外務次官は、首を軽く左右に振った。
「ですが、僕はもう決めましたよ、殿下。僕の病が治った暁に、殿下に差し上げる謝礼は、聡明なれども、繊細で奥手なあなた様の、人生の道連れを見つけて差し上げること……」
(そう、僕にとっての、亮子のような……)
陸奥外務次官の唇に浮かんだ微笑みは、迫る夕闇の中、誰にも気づかれることは無かった。




