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転生内親王は上医を目指す  作者: 佐藤庵
第17章 1895(明治28)年立秋~1895(明治28)年冬至
121/803

ドッキリ大成功?

 1895(明治28)年10月12日土曜日、午後3時5分。

「全く……主治医どのも、大山閣下も、人が悪い」

 花御殿の私の居間に入るなり、呆れたように呟く原さんに、

「私の時代の言葉で、“ドッキリ大成功”ってやつですね」

椅子に座った私は満面の笑みを向けた。

「ふふ」

 私の隣で、大山さんも悪戯っ子のような笑みを浮かべている。

「迫真の演技でしたぞ、2人とも」

 原さんの後ろで、伊藤さんが肩をすくめる。

「大山さんに進路を邪魔された時にバラされなければ、増宮さまと大山さんが、本当に仲違いをしたのかと信じてしまうところでした」

「伊藤さん、私と大山さんが、仲違いするわけがないじゃないですか。大山さんは私の大切な臣下なんですから。でも……未熟な主君に対する日頃の鬱憤は、さっきのお芝居で少し晴らせたかな、大山さん?」

 大山さんの方を振り向いたけれど、彼は返事をしなかった。

 原さんを陸奥さんの代わりに、ハワイに派遣する……。その案が陸奥さんから出されて、梨花会の全員が騒然としたけれど、その時、私の脳裏に閃いたのは、“陸奥さんが、原さんの秘密をかぎつけたのではないだろうか”という疑問だった。

 原さんは、皆の前では、“有能だが謙虚な内務次官”として振舞っている。本人も細心の注意を払っているけれど、鋭い陸奥さんが、秘密を察してしまった可能性もある。だから、原さんのハワイ派遣案という、突拍子もないことを言い始めて、彼や周りの反応を見ようとしたのではないだろうか、そう考えたのだ。このままだと、原さんがハワイに派遣されることがこの場で決まってしまう。その前に何とか、原さんの秘密を知る4人で、話し合いの機会を持たなければならない。

 私は、手元の紙に鉛筆で、大山さんに見えるように“原さんと伊藤さんとあなたと、4人ですぐに相談したい”と書いた。もちろん、メモを取っているかのように見せかけながらだ。大山さんもすぐさま、“その通りです。今日これから”と手元の紙に書いた。

“集める方法と、兄上の足止めをどうする?”

“2人で喧嘩をしましょう。陛下に叱られるくらいの”

“騒ぎを大きくして私は出ていく。それから花御殿で合流かな?”

Oui(はい)

(こんな時にフランス語……)

 内心そう思ったけれど、私も9月から、華族女学校(がっこう)でフランス語を習い始めたから、きっと練習のためだろう。そう考えながら、私はわざと鉛筆を床に落とした。そして、あの口論を演じたわけだ。会議室を出ていく時に、陸奥さんの方を振り返ろうかと思ったけれど、やめた。未熟な私が、下手に陸奥さんの方を見てしまったら、陸奥さんがこの企みに感づいてしまうかもしれないと思ったからだ。そして、私が宮殿の玄関で、馬車の用意を待っていると、すぐに大山さんが追い付いた。手に持っていたのは、私と大山さんがやり取りをしていた紙である。流石、私の有能で経験豊富な臣下は、私がお芝居に夢中で忘れてしまっていた“証拠隠滅”を、きちんとやっていた。

――大成功です。

――そう。

 2人で微笑みあっていると、馬車の用意が出来、大山さんは控えている職員さんに何事か言い付け、私に続いて馬車に乗り込んだ。私は車中から、そして、自分の居間に入ってからもずっと、“芝居とは言え、大山さんのやっていることを否定してしまって申し訳ない”とひたすら謝り続けた。そこに、“増宮を叱責する”という名目で花御殿にやって来た伊藤さんと原さんが合流した、と言うわけだ。

「で、肝心なのは、陸奥さんに、この芝居が感付かれていないかですけれど……どうですか?」

 私は伊藤さんと原さんを交互に見た。

「あの場にいた全員、騙せただろう。もちろん、陸奥先生も含めてだ、主治医どの。わたしも伊藤さんから聞かなければ、完全に騙されていた」

「ああ、間違いなく、陸奥君も騙せただろうな。……大きな犠牲が払われましたが」

「?」

 伊藤さんの言葉に首を傾げた私の横で、

「まだそこに、手を回させていただけないのですが……後で何とか致します、伊藤さん」

大山さんが微笑んだ。

「そうですか。しかし、問題が増えた可能性はありますが……」

「それより、兄上は足止め出来てますか、伊藤さん?」

 よく分からないことを言っている伊藤さんの口を、私は質問で封じた。

「兄上に、この会議を邪魔されたくないんです。兄上の足止めがどのくらい出来るかが、ここで使える時間を決めますから」

「大丈夫です。この伊藤が皇居に戻るまでは、皇居で待機するよう……陛下もそのように皇太子殿下に命じられました」

 伊藤さんがほくそ笑む。

「もしかして、大山さん、お父様(おもうさま)が兄上にそう命令することも、伊藤さんが私に追いすがることも読んでた……?」

「はい」

 私の質問に、大山さんは頷いた。「きっと伊藤さんは梨花さまを追おうとする。そして、伊藤さんが梨花さまの叱責に出向くと言えば、陛下は“皇居で待つように”と皇太子殿下にお命じになる。それが分かりましたから、喧嘩をしましょう、とご提案したのですが……」

 そう言った大山さんは、困ったような、悲しいような、解釈に困る表情を見せた。

「大山さん、申し訳ないが、そちらは後回しにせざるを得ない。話し合いを始めよう。この4人がどうするべきか、という話を」

 伊藤さんが言った。

「そうですね。この秘密を共有している4人が、どう行動するか決めないと」

 私の声に、伊藤さんも原さんも大山さんも、黙って首を縦に振った。


「まず、皆に聞くけれど……この冬にハワイに行くのが原さんっていうのは、適任なのかな?」

 4人分のお茶を手早く用意した私が、椅子に掛けながら訊くと、

「やれる自信はある」

 原さんは短く答えた。「ただし、一度だな。財務に関しては、実はそこまで自信が無い。先生のやっている方針を引き継ぐことだけならできるが、方針転換が必要な案件が出てくれば、そこは専門家の助けを求めるしかない。わたしは、大規模な予算を作る側に回ったことがなくてな」

「経験してもいいかもしれんぞ、今回は」

 伊藤さんがニヤリと笑うと、

「政治が好きなので、困ったものです。組閣した時も、財務は高橋(ダルマ)さんにまかせっきりでしたから」

原さんは低い声で笑った。

「じゃあ、もしかして、高橋さんと一緒にハワイに行くという手はありますか?」

「高橋君の成長具合によっては、有り得る手ですな」

 私の質問に、伊藤さんが頷く。「ただ、高橋君は、わしらのように“史実”の記憶を持っておりませんから、原君が組閣した時のような実力は、まだ無いと考えなければなりません。松方さんに相談が必要ですな」

「しかし、悪くはない。珍しくいいことを言うな、主治医どの」

「うう、“珍しく”って言われてしまった……」

 原さんの毒舌はいつものことだけれど、今日はその言葉が、心にストレートに突き刺さってしまう。

(ちょっと、痛いなあ……)

 そう思った瞬間、私の感覚に、よからぬものが引っかかった。

「大山さん?!」

 私は、原さんに向かって殺気を放っている大山さんの腕を掴んだ。

「ちょっと待って!殺気は出さないで!原さんがこういう物言いをするのは、いつもでしょ!」

「しかし、今はいけません」

 そう言いながら、大山さんは、殺気を孕んだ視線で原さんを見つめるのを止めない。流石に、いつか私がぶつけられたようなフルパワーの殺気ではないけれど、原さんの口の動きは止まり、額に脂汗がにじんでいた。

「さよう。この4人で話すときは、増宮さまが咎めぬゆえ、原君には注意はしておりませんでしたが……今はいけません」

 伊藤さんも左手で顎髭を扱きながら、原さんに硬い視線を送っている。

「く……申し訳なかった、主治医どの」

 原さんは苦り切った表情で、私に向かって頭を下げる。

「いや、私は別に構わないですけれど……」

(この2人がなぁ……)

 私は伊藤さんと大山さんを交互に見やった。原さんが謝罪したのを見て、2人とも平生の態度に戻ったけれど……一体、今日はどうしたというのだろう。

「あの、もし、原さんと高橋さんがハワイに行く、となったとして……、内務次官の後任というか、代理というか、誰にするんですか?」

 話題を切り替える必要性を感じた私は、一同にこう問いかけた。原さんが内務次官になってから、山縣さんは胃痛に悩まなくなった。もし、原さんがいなくなってしまったら、山縣さんの胃痛が再発してしまうのではないだろうか。

「山縣さんと後藤さん、仲が悪そうだし……」

 去年、後藤さんと梨花会で初めて顔を合わせた時、山縣さんが後藤さんに殺気を飛ばしていた。今は、山縣さんと後藤さんが対立しているという話は聞かないけれど、原さんが2人の間に入って、上手く事をさばいてくれているから、関係の悪さが表に出ていない可能性もある。

 すると、

「山縣と後藤の仲は悪くない」

原さんが答えた。「ただ、後藤がやらかしただけだ」

「やらかした?国土調査委員会の方で、ですか?」

 “国土調査委員会”は、後藤さんが立ち上げた、国勢調査や土地利用調査を行うチームだ。メンバーは、各省庁の有望な若手で構成されているそうだけれど、その選抜の過程か、実際の仕事の過程で何かがあったのだろうか。

「いや、それとは別件だ。全く……」

 原さんは私を見ると、深いため息をついた。

「え、ちょっと待ってください、原さん。私のせいなんですか?」

「まぁ、そうとも言えるし、そうとも言えない」

「?」

 私が首を傾げると、

「自覚がないか。まぁいい。話を戻すが、わたしの後は、確かに今の後藤だと荷が重いだろう。だから、牧野さんと一緒にすればいいのではないかと思う」

「牧野……どちらの牧野さん?」

 聞いたことがあるような、ないような。

「大久保さんの息子の、か」

 伊藤さんがニヤリとする。「確かに、政界への人脈という点では、今の後藤にないものを持っている。それに、“史実”では今時分、文部次官だったはず。力を伸ばすために臨時の内務次官をやらせるのも、悪くない」

「ああ……」

 牧野伸顕。大久保利通の次男だ。確か、第一次世界大戦の後のパリ講和会議に、西園寺さんと一緒に全権として出席している。

「それ、二人同時に、となると、どんなふうに任せるんですか?」

「外向きの仕事は牧野、内向きの仕事は後藤。数ヶ月なら何とかなるだろう」

 原さんが微笑すると、

「梨花さま」

我が臣下が私を呼んだ。「陸奥さんがハワイに行く場合は、どうなさいますか?」

「陸奥さんがハワイに……ってなると、青木さんを補佐するのを誰にするか、かな」

 私は腕を組んだ。「小村寿太郎さんって、今の時代でいいんですよね?」

「小村か。あの偏屈者に、青木さんを補佐できるかな。内田さんの方がまだよい。幣原は……まだ学生でしたか、伊藤さん?」

「いや、東京帝大を卒業して、確か、農商務省に入ったばかりだな」

「ちっ、外交官試験に受かっていないか。受かっていれば即刻使うのだが。となると、あとは林さんか……」

「加藤はどうだ、原君?わしも外相として使ったこともあったが……」

「悪くはないかもしれません」

(ええと……)

 原さんと伊藤さんのやり取りを、私は茫然としながら眺めていた。幣原さん、というのは、“幣原外交”で有名な、幣原喜重郎さんのことなのだろうか。加藤さんは……。

(たしか、友三郎さんは海軍出身だった記憶があるから、高明さんの方?林さんって……銑十郎さんは陸軍出身だった気がするし、内田さんって、誰……?)

 頭が混乱したところに、

「主治医どの、分かっているか?!」

突然原さんの声が飛んできた。

「ごめんなさい、今の話に出た人の大半が、誰だかはっきりしなくて……せめて、フルネームで言ってくれるとありがたいんですけれど」

 力なく首を横に振ると、「しっかりしてくれ」と原さんがため息をついた。

「恐らく、主治医どのが将来、直接関わることになる連中ばかりだぞ。……しかし、いい機会だ。それぞれの人となりと、“史実”での経歴をきちんと教えるから、しっかり覚えておけ」

 私を軽く睨み付ける原さんの眼は、真剣そのものだった。覚悟した私は、黙って頷いた。


「つまり、結論から言うと、原さんがハワイに行っても、陸奥さんがハワイに行っても、不在中の代理については困らないから、原さんがどうするかは、話の流れで決めていい、ということですね?」

 原さんの長い長い話を聞き終わった後、私はすっかりぬるくなったお茶を啜った。

「ただ、青木さんを補佐する人に関しては、要求をねじ込むのが得意な人よりは、バランス感覚に優れている人の方が、今回の人事の場合はいいということでしょうか?」

「その通りだ」

 原さんは頷いた。「だから補佐役として一番いいのは、牧野さんか林さん。加藤高明や小村でもいいかもしれないが」

 牧野さんは今、茨城県の知事だそうだ。林さん……(はやし)(ただす)さんは、“史実”では日清戦争中、外務次官として陸奥さんを助け、日英同盟の締結にも尽力した人で、今は外務省の政務局長をしている。加藤高明さん……“史実”では大正時代末期に内閣を組閣し、普通選挙法と治安維持法を成立させた人だけれど、今は清の公使をしているそうだ。その加藤さんの下で、“史実”の原さんの内閣で外務大臣を務めていた内田康哉さんが、書記官として働いている。

「小村さんは、外務省の翻訳局長か……。順当にいけば、林さんが陸奥さんの不在中の代理をすればいい、ということですか?」

「ですな」

 伊藤さんが言う。「ただ、小村も使いどころを間違えなければよい人材だ。この機会に、もう少し融通が効くように鍛えるのもよいかもしれん」

「それは伊藤さんにお任せしましょう」

 原さんが微笑んだ瞬間、廊下から「増宮さま」と声がかかった。花松さんだ。

「国軍省の児玉さまと山本さまと、それから桂さまがいらしていますけれど……どうなさいます?」

「え……?」

 “国軍三羽烏”が、私に何の用だろう。障子を開けた私が首を傾げた瞬間、

(おい)が出ましょう」

大山さんがすっと席を立ち、私が止める間も無く、花松さんの案内で居間から出て行った。

「大丈夫ですかな?確か、大山さんは“自宅に帰る”と言って皇居を出たはずだが……」

 伊藤さんが両腕を組んだ瞬間、私の感覚に、物凄く嫌なものが引っかかった。これは……大山さんの、フルパワーの殺気だ。

「どうした、主治医どの?」

 動きを止めた私に、原さんが尋ねる。

「い、いやその、大山さんが……」

 察知したことを、上手く口に出せずにいるうちに、大山さんが涼しい顔で居間に戻ってきた。

「大山さん!あなた、一体何をしたの!」

「何、と仰せられても……“帰れ”と児玉さんたちに言っただけですが」

「い、いやいや、それ、殺気を放ちながら言うことじゃないってば!」

 私の渾身のツッコミにも、大山さんは表情を毛一筋ほども変えず、

「少し、悪戯心がわきまして」

と答えて、にこりと笑った。

「悪戯で、フルパワーの殺気を出しちゃダメでしょ……」

 ため息をついた私に、

「それよりも、人事の相談が落ち着いたところで、今後、我々がどうするかを話し合わなければなりませんな」

伊藤さんがこう声を掛けた。

(おい)たちがどうするか、というよりは、陸奥さんへの対応をどうするか、ということでしょうか」

「確かにその通りね」

 大山さんの指摘に、私は頷いた。

「まず、大元の問題だけれど、陸奥さんが今回の案を、原さんの秘密を暴くために出してきた、という可能性はありますか?」

「否定はできないな」

 私が質問すると、原さんがため息をついた。「しかし、なぜそう思った、主治医どの」

「言葉を放り投げて、相手の反応を見て、そこから真実を暴いていくのが、陸奥さんのやり方なのかな、と思ったからです」

 初対面の時は、それで彼に散々にやられてしまった。

「ほう。そこまで見られる者は、なかなかいないな」

「原さんに褒められると、何か怖いですね……」

「わたしも褒めたくはないのだが……大山閣下と伊藤さんが怖くてな」

 原さんがそう言った瞬間、大山さんと伊藤さんが、原さんをジロリとにらんだ。

「冗談はともかく、主治医どのの言う可能性をわたしも考えた。だからあくまで、降って湧いた大任に、怯えるふりをしていたのだ。あのまま陸奥先生との問答が続いていれば、わたしもボロを出したかもしれぬ。主治医どのと大山閣下が騒ぎを起こして話が紛れたから、本当に助かった」

 原さんは肩を竦めた。

「わしは、君のことを、陸奥君はまだ知らないと見るがな」

 伊藤さんは言う。「わしも殺されるまでの“史実”を知っている。もし、陸奥君が原君を疑うのであれば、わしにも何らかの反応をしてきそうではあるが……それがない」

「でも、陸奥さんのことだから、その予想も読んでいる可能性はありますか?」

「無いと言えないのが、陸奥君の恐ろしいところですな」

 伊藤さんは私にそう答えると、ため息をついた。

「そう恐れさせて、相手に精神的な負担を掛け、ボロを出すのを狙う、という手段もあります」

 大山さんが静かに指摘する。

「つまり……裏の裏を考えるほど、陸奥さんの策にはまる可能性もある、ということ?」

「その通りです、梨花さま」

 有能な臣下の答えを聞いて、私は椅子の背もたれに背中を預けた。

「ふはぁ……これは、陸奥さんの裏をかくなんてことは、余り考えない方がよさそう……」

「確かに、キリがありませんな」

 伊藤さんが苦笑する。「ひとまずは、原君の秘密がバレぬように4人で結束する。そこまでで考えを留めておく方が、かえってよいでしょう」

「了解しました、伊藤さん。一番ボロを出しそうなのは私だから、頑張ります」

「自覚があるのは結構なことだ、主治医どの」

「いや、君も危ないと思うが、原君?うっかり、“先生”と呼ばんようにしろよ?」

 偉そうな原さんに伊藤さんがツッコミを入れると、大山さんが黙って笑った。

「否定できないのが辛いですね……」

 ツッコミを入れられた原さんも、苦笑いを浮かべた。

「それで、陸奥さんに秘密を知られた場合は、陸奥さんをこちら側に引き入れる、ということでいいんですよね?」

 私が尋ねると、

「それ以外の選択肢がどこにある?」

原さんが答えた。

「いや、あなたにとってはそうかもしれないけれど、陸奥さんが山縣さんに情報を売り渡すって可能性もゼロじゃないでしょう?“史実”とは、あなたと陸奥さんの関係性も違うんだから」

 私が原さんに呆れながら指摘すると、

「それはないでしょう」

と伊藤さんが言った。

「陸奥君の頭の中の将棋盤にも、今の盤面は“史実”と違って見えているはず。増宮さまが心配している事態にはなりません」

(おい)もそう思います。いずれにしろ、梨花さまにも、この日本にも不利益になる行動を、陸奥どのは取らないでしょうし、この(おい)が取らせはしません」

 大山さんはそう言って私に頭を下げたけれど、次の瞬間、少し顔色を変えて、「庭に出て来ます」と言って居間から出て行った。

「え……?」

(何があったの?)

 開け放たれた障子の先をぼんやり眺めていると、

「げ?!」

「お、大山閣下っ……?!」

 庭の方から、聞き覚えのある声がした。親王殿下と、西園寺さんだ。

「な、なに?何が起こってるの……?」

 恐々と庭を見つめていると、大山さんが戻ってきた。

「ネズミがいましたので、追い払いました」

 大山さんは、やはり涼しい顔で、私にこう報告した。

「い、いやいやいや、大兄(おおにい)さまと西園寺さんはネズミじゃないでしょ?!ていうか、なんであの2人、庭にいるのよ?!」

「青山御所の方から、こちらに侵入したようですな」

「い、いやそうじゃなくて、なんで玄関から入ってこないのよ、あの2人は?!」

 私が大山さんにツッコんでいると、

「これは、もう時間がないな……」

伊藤さんが苦笑した。

「原君、君はまだ花御殿にいたまえ。何か聞かれたら、……そうだな、“伊藤と大山が、増宮さまに会わせてくれず、別室で待機させられていた”と言っておけばよい。それで皇太子殿下と将棋を指して、帰ればよろしい」

「では、そうしましょう。……山縣たちが動いたのでしょうか?」

「恐らく、そうじゃろう。事がここに至れば、次は狂介本人が動く」

「は、はい?」

 伊藤さんと原さんの言っていることが、よく分からない。2人を交互に見た私に、

「わしは皇居に戻ります。増宮さまは、誰かに今の時間のことを問われたら、“伊藤に説教されて、その後大山がやって来て、伊藤の仲介で仲直りした”と答えておいてください」

伊藤さんはそう言いながら、椅子から立った。

「ええと、私は、これから山縣さんに会えばいいの?」

 こう伊藤さんに質問すると、

「いえ、大山さんと一緒に、庭の散歩でもしてください」

伊藤さんはよくわからない答えを返した。

「その間に、犠牲の埋め合わせも出来るでしょう、大山さん。しっかり頼みますよ」

「承りました。では梨花さま、参りましょうか」

 キョトンとしている私の右手を、いつの間にか握った大山さんは、私を促して玄関へと歩き始めた。

※若槻礼次郎さんや浜口雄幸さんなど、人材は探せばまだいますが、今回はこの辺で。なお、今回名前が出てきた方の現在所在地は、一部実際とは変わっています。

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