閑話 1894(明治27)年霜降:出張報告と説得
※地名を修正しました。(2020年5月14日)
1894(明治27)年10月28日日曜日、午後3時。
「ただいま戻りました」
東京府渋谷村にある、赤十字社病院の院長室。その扉をノックして開けたのは、帝国大学医科大学内科学の前教授で、今は赤十字社病院の内科部長を務めている青山胤通だった。
「おお、戻ったか、青山君、入り給え」
前国軍医務局長の石黒忠悳院長が鷹揚に声を掛けると、青山医師は室内に歩み入り、机の前に立った。
「心配したよ、青山君。本当に地震が発生したというから、直ちに交代要員を派遣したが……」
「お心遣い、ありがとうございます。一段落ついたら、また交代をしに酒田に行こうと考えていますが……もしかしたら、必要がないかもしれません」
青山部長は頭を軽く下げた。
今から3年前……東京専門学校で行われた脚気討論会で、脚気菌存在説を唱えていた青山部長と石黒院長は、栄養欠乏原因説を唱えていた、東京帝大のベルツ医師と森林太郎軍医中佐との論争に敗れた。青山部長と石黒院長にとって不幸だったのは、観客席に、現役閣僚の殆どすべてと、今上の第4皇女である増宮章子内親王がいたことである。それを知らなかった彼らは、誤って章子内親王の逆鱗に触れてしまった。
――たとえアスクレピオスや大国主命が許しても、この章子が許さぬ!
父である今上を思わせる威厳にあふれた美しい内親王の、激しい怒りを乗せた叱責の言葉が脳裏に蘇ると、今でも石黒院長の背筋には冷や汗が流れる。観客席にいた現役閣僚たちからも激しい叱責を受け、石黒院長と青山部長は、壇上から這う這うの体で立ち去ったのだった。
もちろん、その顛末は新聞紙上に載せられ、“内親王殿下を罵倒するなど、不敬極まりない”と紙上で攻撃された青山部長と石黒院長は、ともに職を退かざるを得なかった。また、石黒院長は、それまで山縣内相や大山東宮武官長、児玉参謀本部長とも懇意にしていたのだが、脚気討論会以降、交流は完全に途絶えてしまい、国軍医務局への影響力も失ってしまったのである。
だが、医療技術が発展途上にあるこの国では、高い医療技術と学識を持っている彼らは、まだまだ必要とされていた。そして、赤十字社に職を得た彼らは、日々、日本の医療の発展に尽くしているのであった。
「死者や負傷者はどのくらいだね?」
石黒院長の質問に、
「例の噂によって、避難が完璧に完了していたので、山形県側では、死者は数名しか出ていません。負傷者も、ざっと500人程度でしょうか。住民が避難していなかったら、夕食時の地震でしたから、火事も起こって焼死者も出たでしょうが」
と、青山部長は答えた。
「ほう」
石黒院長が目を瞠る。「夕食時に起こったのか。しかも、日にちも22日……あの予言と一致するな」
「即身仏の予言、ですな」
青山部長は軽く頷いた。
“10月22日の夕方5時半過ぎに、酒田で大きな地震が起こる。その時に火を使ってはならん。広い野原に出て、揺れが収まるのを待っておれ”……とある寺に安置されている即身仏が急に動き出し、住職にこう告げたという噂が山形県と秋田県で流れ始めたのは、今月の初めだった。噂は瞬く間に広がり、“この寺の即身仏も同じことを言った”“あの寺の本尊が動き出して、同じような予言をした”などという話も出て来て、両県、特に山形県の北部と秋田県の南部では、予言された22日が近づくにつれ、蜂の巣をつついたような大騒ぎになった。20日の時点から“予言に従うのだ”と言って畑の真ん中に居座る者も出現し始め、両県では、おりしも23日から、酒田町付近で対抗演習を行う予定だった国軍に騒動の鎮静化を依頼し、22日午後から、山形県北部と秋田県南部の住民に避難指示を出すことにした……という顛末が、東京の新聞でも伝えられていた。
「“22日に強烈な地震が起こった”と、24日の午後に佐野社長に言われて、本当に予言が当たるものだと驚いたが……しかし、即身仏とは一体何だね?」
石黒院長が質問すると、
「衆生の救済を目的に、行者や高僧などが生きながら土中に入り、後から掘り出されたものが寺に安置されるとか。五穀断ちはもちろん、過酷な行の末に土中に入るということですから、行の途中で即身仏になるのを断念する者も多いそうです」
青山部長は、現地で聞いてきた情報を、そのまま院長に伝えた。
「ふうん。つまり、エジプトの木乃伊に、自らなるようなものかな」
「でしょうな」
青山部長は頷いて、
「我々の進退についても、即身仏が予言してくれればよかったのですがね」
と苦笑した。
「そうだな。せめて、あの場に増宮殿下がいらっしゃることが分かっていればな……」
石黒院長もため息をついた。
ドイツのコッホ医師による追試がなされ、更に、米ぬかからビタミンAが抽出された今となっては、自分たちが当時唱えていた説が誤りであると分かる。だが、増宮内親王を、彼女と知らずに罵倒してしまったことが、全ての運命を変えてしまった。それさえなければ、自分も青山も、退職などせずに済んだだろう。
「しかし、増宮殿下は本当に、医師になろうと思われているのかね?皇族の女子ならば、しかるべき宮家か華族に嫁がれるのが、一番幸福であると思うが……」
両腕を組んだ石黒院長に、
「私は構わないと思いますがね」
青山部長は答えた。「小学校を卒業されていないはずですが、算術は既に、大学生並みにお出来になると聞いています。本当に、医術開業試験に合格なさるかもしれません。そうなれば、是非この赤十字社の社長になっていただいて、増宮殿下の下で働きたいものですよ」
「ずいぶんと、進んだ考え方をするね、君は」
微笑を浮かべる青山部長に、石黒院長は少し呆れたように言った。
「恐れながら、増宮殿下は、森さんにたぶらかされているだけですよ」
青山部長は上司の言葉を無視して言葉を吐いた。「我が国が世界に誇るべき増宮殿下、その殿下を教導して差し上げるのは、森さんではなく、日本の最高学府の教授であったこの私であるべきだ」
「それには全面的に賛成するがね、青山君……増宮殿下は医者ではなく、女子としての幸せを追求すべきであることを忘れないでくれよ」
「もちろんですよ」
青山部長は頷いた。
「ふふふ……威厳あふれる殿下の号令の下で動ければ、どんなに気持ちがよいだろう。よし、私はその日のために研鑽を積むぞ!そして、この赤十字社病院を、増宮殿下の厳しいご指導を受けながら、日本一の、いや、世界一の医療機関にしますよ!」
決意を新たにし、バラ色の未来予想図を脳内に描く有能な部下を前に、石黒院長は深い深いため息をついたのだった。
同時刻、皇居・吹上御苑。
「どうした、大丈夫か?」
苑内に建てられた数寄屋造りの休憩所の一室で、小さなくしゃみをした妹の方を、明宮嘉仁親王は心配そうな表情で見た。
「あ……大丈夫だよ、兄上」
彼のすぐ下の妹・増宮章子内親王は、そう答えると、青色の無地の着物の襟をきつく合わせ直した。
「本当か?風邪を引いたのではないか?」
「大丈夫だってば。くしゃみしただけだよ。誰かが噂でもしてるんじゃないかな?」
「いや、それだけではないかもしれぬ。ほら、羽織を着ろ。日が少し傾き始めたから、気温が下がっているのかもしれない。風邪の引きはじめだと厄介だ」
妹が傍らに置いていた空色の羽織を、慌てて掴んで肩から掛けようとする嘉仁親王に、
「だからって、着せ掛けないでよ、兄上!」
当の章子内親王は抗議した。
「自分でやるよ……もう、本当に心配性なんだから、兄上は」
そう言いながら羽織に腕を通す章子内親王に、
「お前も、俺が咳一つしただけで、“咽頭を見せろ、聴診器を胸に当てさせろ”と大騒ぎではないか。他人のことは言えぬぞ」
嘉仁親王は反論した。
「だって、嫌だもん。兄上が病気になるなんて。私が兄上を守るんだから!」
「あらあら」
兄妹のやりとりを聞いて、部屋の奥に正座する皇后が、にっこり微笑む。「仲が本当によろしいこと。ねぇ、常宮さん、周宮さん」
「お兄さまとお姉さま、仲がよくてうらやましい!」
皇后の斜め前でちょこんと正座する、6歳の常宮昌子内親王が少し頬を膨らませ、その隣で正座する4歳の周宮房子内親王も、「うらやましいの!」と姉に続いて言った。
「はは、すまんすまん」
異母妹たちに、嘉仁親王が軽く頭を下げる。
「寂しがらせちゃってごめんね。お姉さまは、昌子さまとも房子さまとも、仲がいいものね」
章子内親王が美しい笑顔を見せると、「はい!」と昌子内親王も房子内親王も頷いた。
「だからね、お姉さまと一緒に、お父様を説得するのに協力してちょうだい」
こう言った章子内親王に、
「な、なんだ」
皇后の隣で正座する黒のフロックコート姿の天皇が、警戒の目を向けた。この部屋の中には、天皇皇后とその子女、合わせて6人だけがいる。それぞれの従者たちは、部屋から離れたところで待機していた。
「今日こそ了承していただきますよ、お父様。来年から、夏は、1週間でもいいから、葉山でお母様と一緒に過ごすこと」
章子内親王が正座し直すと、
「そうです。お父様の健康のためにも、絶対に必要なことだと俺も思います」
すぐ下の妹の言葉に、嘉仁親王も援護射撃した。
「何を言う。朕は健康だ。避暑など必要ない」
むくれた顔をする天皇に、
「甘いです!」
章子内親王はピシャリと言った。
「“自分は健康だから大丈夫”……そう言って病気になっていく人を、私は何十人も見てきました。言っときますけれど、3か月で、ですよ!それと同じ轍を、お父様には踏ませたくありません!」
「そなたの気持ちは分かるがな……」
天皇は眉をしかめた。「朕が動けば、色々と面倒が起こるゆえ、行幸はしていないのだが……」
「国軍の大演習の時は、行幸しているじゃないですか。その時より、手間はもっと省けるはずです」
「むむ……しかし、書類の決裁が滞る。葉山だと、新橋から片道3時間はかかるゆえ、書類を届けさせるために、侍従を往復させるのは……」
「3時間?片道2時間もかかりませんよ。それに、この年末には、横浜のスイッチバックが無くなるんだから、新橋からの時間はもっと短くなります。侍従さんたちも、交代で葉山に来れば、いい息抜きになって、仕事が効率的に出来るようになります」
天皇の反論を、章子内親王は次々と封じていく。そのたびに、天皇の額に刻まれた皺が深くなった。
「お父様」
章子内親王は、黙り込んだ自分の父親のすぐ前に正座すると、深々と頭を下げ、小さいがハッキリとした声でしゃべり始めた。
「これは、単にお父様だけが心配だから言っているのではありません。今の日本の国民、そして、未来に生まれる日本国民のために言っています。私の生きていた時代では、上司が休まないと部下が休めない、という風潮がありました。それがために、たくさんの働き盛りの労働者たちが、過重労働の末に命を落としていました。私だって、きちんと休めていれば、前世で階段から落ちて死ぬことは無かったでしょう。適切な休養を取ることは、仕事を続けるためには必須です。将来の悲劇的な、理不尽な過労死を防ぐためにも、私、お父様に適度な休養を取っていただきたいんです!」
章子内親王が下からキッと睨み付けると、天皇は「うーむ……」と唸った。
「お姉さま、“かろうし”ってなーに?」
昌子内親王が、あどけなさの残る声で質問すると、
「働きすぎて死んでしまうことよ」
章子内親王は、少し頭を上げて、異母妹たちに寂しげな微笑を向けた。
「お姉さまは、お父様がそうなってしまうのではないかと怖くて、そうならないように、休養を取ることをお願いしているの」
「そんなの、昌子もいや!」
「でしょう?だから、昌子さまも房子さまも、お姉さまと一緒に、お父様にお願いして」
すると、昌子内親王は、きちんとその場に正座し直し、
「お父様、お願いします!」
と、父親に向かって頭を下げた。隣で、房子内親王も「お願いします!」と言い、すぐ上の姉に倣って頭を下げている。
「お父様、梨花の言う通りだと俺も思います。どうか」
嘉仁親王も深々と一礼し、
「お上」
皇后も、天皇を視線で促していた。
「ああ、もう、計算づくか……!」
天皇が、苦虫を噛み潰したような表情になる。「昌子や房子まで呼んだのも、御苑に散歩に行こうと言って、この6人だけにしたのも、美子と章子の策略か……?」
「正確に言うと、兄上もだし、伊藤さんも大山さんも佐々木伯爵もだし、それから、爺も、勝先生も、徳大寺さんも、宮内大臣の土方さんも」
章子内親王は父親に微笑した。「みんな、お父様のことが心配なんです。働きすぎて、身体を壊さないかって。だから、私とお母様の相談に、協力してくれたんですよ」
「そこまで、手を回されていたか……」
天皇は、大きなため息をついた。
「わかった……仕方がない。来年からは、美子と避暑に行くことにしよう」
「ありがとうございます!」
深々と頭を下げる自分の長女に、
「なるほどな……大山と伊藤の掌の上で転がされる時のそなたの気持ちは、このようなものであったか」
天皇はニヤリと笑いかけた。
「!」
頭を下げたまま、顔を赤くする章子内親王に、
「ほう、この程度で揺さぶられるとはな。まだまだ修行が足りないようだ」
天皇はこう言って、クスクス笑う。
「もう、お父様ったら。分かってますよ、そんなことは……」
顔を上げた章子内親王は、唇を尖らせた。
「でも、頑張ります。今は未熟でも、たくさん経験を積んで、私はお父様と兄上を助けて、国を医す上医になるんですから」
きっぱりと言い切った娘に、天皇は無言で頷くと、微笑した。




