葉山の医科分科会
※あとがきを修正しました。(2019年7月19日)
1894(明治27)年7月28日土曜日、午後2時。
「北里先生、お帰りなさい。お疲れさまでした!」
いつもの医科分科会だけれど、実は、開催されている場所は花御殿ではなく、私が22日から滞在している葉山の南御用邸だ。香港で緒方先生とともにペストの調査を終え、先日帰国した北里先生に、私は最敬礼した。
「いえ、誠に、増宮殿下のおかげでございます。御礼申し上げます」
北里先生が私に頭を下げた。
「早速で申し訳ないが、発見の経緯を簡単に説明してくれないか、北里君?」
森先生が目をキラキラさせながら、北里先生を見る。
「はい、……実は、最初は確信があったわけではなかったのです」
北里先生は静かに話し始めた。
「え?」
「ペスト患者の血液と臓器からは、殿下のおっしゃったグラム陰性桿菌が検出されましたが、それと別の双球菌が検出される場合もあったのです」
一瞬驚いた私だけど、
「ああ……ペスト菌で抵抗力が弱ったところに、双球菌に二次的に感染したのかな?」
すぐに推論が頭の中に出てきた。
「はい、殿下から、“そのようなこともある”と伺っていたので、私もそのように考えました」
北里先生は頷いて、更に続けた。
「一方、ペスト患者の家では、ネズミが大量死している事例がやはり多かったので、患者の家で死にかけていたネズミを緒方先生がもらい受けて分析した結果、血液からは、グラム陰性桿菌しか認められませんでした。ネズミに付くノミも、緒方先生が分析しましたが、そちらから出たのも同じグラム陰性桿菌でした。ですので、双球菌は単に2次感染した菌であり、グラム陰性桿菌であるペスト菌に感染したネズミの血液を吸ったノミが、更に人間も吸血することでペスト菌を人間に感染させる、という推論を成り立たせるに十分な証拠が揃ったのです。パスツール研究所からもイェルサンという学者が派遣されていましたが、こちらの余りに鮮やかな結果に仰天していました。しかも、菌を発見したのはこちらが早かったようです」
「なるほど、グラム染色が、菌の識別に役立った訳だね」
ベルツ先生はそう言って、感慨深げに頷いた。
「それは当然です。だって、私の時代でも、グラム染色って大事ですから」
細菌は、グラム染色で紫色に染まる“グラム陽性”と、赤っぽく見える“グラム陰性”に大まかに分けられる。患者さんの痰や尿などの検体に潜む細菌をグラム染色して、感染症を起こした細菌をある程度類推し、それに従って、最初に投与する抗生物質を決める、というのは、私が生きていた時代でもよく行われることなのだ。私も前世で働いていた頃、何度かやった。そのグラム染色の方法が、この時代でも既に確立されていた。ペスト菌はグラム陰性の桿菌……つまり、グラム染色で赤っぽく見える、細長い棒状の細菌だと覚えていたので、北里先生たちには出発前、グラム染色の道具はもちろん、試薬も十分に準備するように勧めたのだ。
「とにかく、無事にペストの件が解決できてよかったです。防疫の対策も終わりましたか?」
「そちらも滞りなく。調査団の中に、ペストに感染した者も出なかったのは幸いでした」
「緒方先生とも仲良くやれました?」
「はい、そちらも大丈夫です。……ご心配をおかけして、本当に申し訳ありません」
香港はイギリス領なので、ペスト菌発見の第一報は、まずイギリスの医学雑誌に載せられるようだ。なので、連名で論文を書いた北里先生と緒方先生は、英語の論文をイギリスの医学雑誌に、ドイツ語の論文を「ドイツ医事週報」に投稿した。菌株は、コッホ先生の研究所にも送付したとのことだ。
「素晴らしい、北里君。あとは、ペスト菌に抗生物質が効くかも考えなければ……」
森先生が腕を組む。
「うーん、それも考えたいのはやまやまだけれど、まず抗結核薬の方を考えたいです。人的資源には限りがあるし……」
私が考え込むと、
「アルコールのように、東京帝大の学生に実験をさせてもいいかもしれませんよ?学生が論文を書いて海外の雑誌に投稿してはいけない、という法はありませんし」
三浦先生が穏やかな微笑を湛えながら言った。
「いや、それが本当にできるのは、三浦先生と志賀さんぐらいですよ……」
私はため息をついた。
今の時代で手の消毒に使う石炭酸では、皮膚炎が起こってしまうから、私の生きていた時代で使っていたような消毒用のアルコールを、この時代でも使えるようにしたい。そう思っていたけれど、なかなか実行に移すことが出来なかった。医科研に所属している医学者たちも、それぞれ重要な研究に従事していて、消毒用アルコールの実験が出来る余力のある人がいなかったのだ。
すると、
――その実験は、学生の指導題材としても、ちょうどよいかもしれません。
と三浦先生が言い出し、ベルツ先生も賛成したので、お願いしてみることにした。それが去年の夏だったのだけれど……。
「まさか大学院生でもない学生が、単独で“ドイツ医事週報”に投稿するなんて思ってもみなかったし、しかもその著者が志賀潔さんだし……驚いたのなんのって……」
水と混合して、70重量パーセントにしたアルコールが、殺菌には最も有効である。そう結論付けた論文が、志賀潔さんの名前で“ドイツ医事週報”に掲載されたのは、今年の6月のことだった。彼が論文を投稿した、ということは三浦先生から聞いていて、三浦先生かベルツ先生と共著にするのだろうな、と思っていたのだけれど、誌面には志賀さんの名前しか載っていなかったので仰天した。確かに志賀さんは、“史実”では、赤痢菌を発見したのだけれど……。
――私も大学生の時に、論文をドイツの雑誌に投稿して掲載されたことがありましたから。
志賀さんのことを報告してくれた後、三浦先生が付け加えた一言で、私が返す言葉を失ったのは言うまでもない。
「今、志賀君は、夏季休暇を利用して、緒方先生と一緒に秋田に行っていますね。ツツガムシ病の研究のために」
ベルツ先生が微笑する。
「もしかして、田中先生の研究が進んだんですか?」
「ええ、アカツツガムシの幼虫の中に、細菌のようなものを見つけた、ということです」
「細菌のようなもの……って言うと、リケッチアは、グラム染色だと染まりにくかった気がするけれど……」
「ええ、緒方染色の方です」
「おが……ああ、ギムザ染色ですね」
緒方先生はマラリア原虫を発見するにあたって、まず染色法の開発を試みた。私も、私の生きた時代では、ギムザ染色がマラリアの診断によく使われるということは覚えていたけれど、流石に染色液の組成は覚えていなかった。緒方先生が試行錯誤の末に開発した染色法で染めた血液標本は、私の知っているギムザ染色の血液標本そのものだった。だけど、この時の流れでは、開発者は緒方先生なので、この染色法は“緒方染色”と名付けられた。今、こちらの染色法も、世界から問い合わせが来ているそうだ。
「でも、私の時代のリケッチアの診断は、免疫学的な方法でしていたから、緒方染色でリケッチアが染まるかどうかまでは知らないんですよね。それに、リケッチアって、生きた細胞の中でしか増殖しないから、研究がすごく難しいかも。細胞を生かしたまま、その細胞の中でリケッチアを培養する技術までは、流石に私もわからないから……」
「それでも、ツツガムシ病の患者で、その“細菌のようなもの”が見つかれば、感染経路を証明することにはなりましょう」
こう言ったのは大山さんだ。兄が沼津で避暑をしているので、今は基本沼津にいるけれど、今日は葉山にやって来た。
「は……確かにその通りです」
森先生が頭を下げ、残りの一同もそれに倣う。
「昔からそうだったけれど、大山さんには、ますます頭が上がらなくなっちゃったわね」
軽く下げた頭を上げると、私は苦笑した。
春に大磯から戻った後、ニワトリでの壊血病実験で説明不能な結果が出たのは、私の時代でいうビタミンCが、ニワトリの体内で合成できるからだ、という大山さんの推論を医科分科会の皆に伝えたところ、
――確かにそうだ……。
――なぜその可能性に気が付かなかったのか……迂闊でした。
大山さんと私以外の全員が頭を抱えた。
――さすがは増宮さま。逆転の発想でございます。
そう言った森先生に「いいえ、これは大山さんに指摘されました」と告げたら、みんな目を丸くした。それ以来、大山さんの発言は、医科分科会の皆が畏まって聞くようになった。もちろん、私もである。
「そう言えば、ウサギが壊血病にかかるかどうかの実験、上手く行っています、森先生?」
「開始して1か月たっていますが、まだ目立った症状は出ていないですね」
今、森先生は医科研の施設を借りて、ウサギに玄米だけを与えて、壊血病にかかるかどうかを観察している。玄米にはビタミンB……私の時代でいうビタミンCは無いはずだから、ウサギがビタミンを作れなければ、壊血病になるはずだ。
「少し暇になって来たので、どこかの研究を手伝いたい、と思いますが」
「どこか……って言っても、今、どの部署も人が足りてないですからね……」
抗結核薬の方は、静岡県の土壌から見つかった放線菌の分泌物質の臨床試験が、もう少しで終了する。症状もレントゲンの所見も、最初の数か月は明らかに改善するけれど、数か月経つと、耐性菌によって症状が再燃する患者がやはり出現した。高橋さんがヨーロッパから持ち帰った新種の放線菌が出す物質の方は抽出が出来、4月から、結核の患者とハンセン病の患者での臨床試験が始まった。もしこれが、結核にもハンセン病にも効果があるリファンピシンだったら、抗結核薬の併用療法の臨床試験を、即刻始める予定だ。
(静岡の放線菌、ストレプトマイシス属なのは確かだけど、全部の菌の学名なんて覚えてないからなあ……。ストレプトマイシス属が分泌する物質って、“マイシン”という語尾を付けることが多かったから、物質の仮の名前、“シズオカマイシン”って単純に付けちゃったけど……それでいいのかな?)
こんなことを考えていると、
「確かに、医科研のどの部署も、人が足りていません」
北里先生が深刻そうな表情を作った。
「そうですね。あまりに人が足りないゆえ、清からも人を呼んでいますからね。孫文先生……でしたか」
三浦先生の言葉に、
「え、ええ、そうですね……」
私は頷いた。若干、顔がひきつっていたかもしれない。
実は、ハワイで陸奥さんが見つけた孫文さんだけれど、香港で医学を勉強して、医者として働いていたことがあるそうだ。彼は中央情報院の職員に連れられて、ハワイから日本にやって来たのだけれど、その時、「中国と同じ奇病が、日本でも流行しているが、解明に人手が足りないから協力してほしい」という言葉で日本に誘われたらしい。日本に着いて、大山さんに初めて会った時、
――で、我が国と同じ奇病が流行している“山梨”という地域は、一体日本のどこにあるのですか?
挨拶もそこそこに彼はこう言い出したそうで、6月の中旬から、彼は山梨の日本住血吸虫が流行している地域に入り、まず患者数と分布の調査に乗り出した。
(確かに、前世で、中国にも住血吸虫症が発生するって習ったし、住血吸虫やフィラリアのことをやる医者がいないのも、医科分科会の皆で悩んでいたけど、それを、孫文を日本に招く理由に使うなんて……)
「孫文を、山梨の住血吸虫症の調査に派遣しますよ」と大山さんと山縣さんに告げられた時、余りの驚きで、私は机に突っ伏したのだった。
「孫文先生は、日本語は大丈夫なのですか?」
北里先生が私に尋ねる。
「確か、内務省の衛生局の職員が何人かついて、通訳をするって山縣さんから聞いています」
私は出来るだけ平静を保つよう努力しながら答えた。
私が心配したのが、孫文さんが、日本国内で中国を革命する勢力を作り出すことだったのだけれど、大山さんと山縣さんによると、「衛生局の職員が通訳をしながら監視して、そのようなことが起こらないようにする」とのことだった。しかも、大山さん曰く、衛生局の職員たちは「ある方法で選抜した上に、中央情報院で、その手の訓練を集中的に施した腕利きですからご心配なく」ということだ。彼らを孫文さんに怪しまれずについて行かせるために、孫文さんの調査は医科研ではなくて、内務省が主導して行うことになった。今は地元の医師たちと協力して、調査に取り組んでいるらしい。
――それ、やっぱり孫文さんに、中国で革命してもらった方がいい、って場合になった時、どうするの?
大山さんにそう尋ねたら、
――むしろ、日本の奇病の研究に従事し、中国の奇病の撲滅に邁進する医者、という箔がつく方が、清での知名度が上がって、革命がやりやすくなるかと。いずれにしろ、そのような事態にならぬことを期待しておりますが。
と、凄みの漂う微笑を見せられたので、それ以上訊かないことにした。
(まあ、いいか、ヴェーラも三浦先生のコホート研究を手伝ってる訳だし……。あとは沖縄のフィラリアだけど……国内の医学者もいないし、京都帝大は、もうちょっと落ち着くのに時間が掛かるだろうし、国外から医学者を連れてくるのも、お金が掛かるしなあ……)
京都に帝国大学が去年の9月に出来たので、そちらの医科大学の教員にも医学者が回されている。開学して1年、附属病院の診療体制を整えるのが手一杯で、調査研究をする余裕はまだないようだ。ある程度状況が落ち着いたら、京都帝大の教職員たちも、研究に集中できるようになるだろうか。京都には、エックス線撮影装置を開発した村岡先生たちがいる。だから、京都帝大の教職員の先生方には、エックス線撮影を使った消化管造影検査の手法を確立してもらいたいのだけれど。
「今、森先生は医科研で実験をしておりますし、余裕があれば、石神先生たちの放線菌の研究の手助けをしてもらえばよいのでは?」
ベルツ先生はそう言って、
「本当は、鴎外先生の作品が読みたいところではあるのですが」
と寂しげに微笑した。
「ベルツ先生、何をおっしゃいますか。私はもう、心から医学者ですよ」
森先生がムキになって反論する。それを見ながら、
(ああ……そのまま、エリーゼさんのことは、心に封じ込めるつもりか……)
私はこう思った。
西園寺さんの“宿題”に邪魔をされたけれど、兄に漢詩の読み方を教わりながら、何とか「水沫集」を読み終えたのは、今年の春のことだ。
――恐らく、森先生の心にある女は、この作品の中にいるのであろうよ。
兄は「水沫集」の中にある「舞姫」という作品を指して言った。私が、森鴎外の著作だと知っていた唯一の作品だ。その中に出てくる女性が、森先生のかつての恋人……エリーゼさんという人を投影した人物なのではないか、と兄は指摘したし、私も読んでいてそう思った。
――だけどさあ……これ、エリーゼさんと森先生、小説と同じ結末をたどっちゃったの?
――それはないだろう。もし実際に、小説のままの結末であったら、森先生は軍にいられないだろうし、この小説も書けないだろう。
――だよねえ……。
春のある日、「水沫集」を読み終えた兄と私は、その本を間に置いて考え込んだのだけれど……。
森先生は、日本に帰った後、周囲の勧めもあって結婚し、ご長男を儲けたそうだけれど、すぐに離婚した。現在は独り身だそうだ。離婚したのは一体何が原因か、そこまで詮索するつもりはないけれど、ヴェーラの偽名の「エリーゼ・シュナイダー」を聞いて動揺したのは、まだ彼の中に、「エリーゼ」という名のドイツの恋人が棲んでいるからではないだろうか。
と、
「増宮さま」
廊下から花松さんの声がした。
「そろそろ、本邸の方に御成になるお時間です」
「あ……」
私は椅子から立ち上がって、廊下に面した障子を開けた。夏の陽射しが、蝉時雨とともに私に降り注ぐ。
「もうそんな時間ですか、花松さん」
「はい、増宮さま。お支度をお願いします」
廊下に立った花松さんが一礼する。
「わかりました。……皆さん、ごめんなさい。私は、今日はこれで」
部屋の中に向かってお辞儀をすると、
「では、我々も戻りましょうか」
ベルツ先生が微笑した。実は、ベルツ先生の別荘が葉山にあり、ベルツ先生は夏季休暇を利用して葉山に避暑に来ているのだ。森先生と北里先生と三浦先生は、今日はそこに泊まり、明日東京に戻るそうだ。
「北里君、今夜は君の香港での仕事を、じっくり聞かせてもらおう」
「ええ、それは覚悟しています、森先生」
「私も楽しみにしているんです。講義の時、この世界的な快挙を、学生にも説明したくて……」
森先生、北里先生、三浦先生が次々に発言する。今夜はベルツ先生の別荘で、夜通しの論議になるのかもしれない。
「皆さん、無理しないようにお願いしますね。では、ごきげんよう」
私は女袴の裾を翻し、廊下を歩き始めた。
※葉山御用邸の南隣、「葉山南御用邸」が宮内庁に買い上げられたのは、実際には1896(明治29)年です。(「葉山町の歴史とくらし」より)
※ペスト菌には、実際には発見者の認定に紆余曲折あった挙句、パスツールにちなんだPasteurella pestis、ついでイェルサンにちなんだYersinia Pestisという学名が付けられ、現在に至っています。
※アルコールに水をある程度混合すると殺菌によい、という結果は、1897年のEpsteinの実験あたりから出てきたようです。(エタノールの殺微生物作用.環境管理技術.8,319-328)ちなみに、志賀先生は1896年に帝国大学を卒業しています。
※リケッチアはギムザ染色で染まるようです。(笠原四郎「リケッチア病研究の歩み」より)そして、ギムザ染色が開発されたのは20世紀に入った直後になります。(原島三郎「Giemsa,May − GrUnwald− Giemsa およびWright 染色法の歴史的考察」より)なのでこういう展開にしてみました。
※シズオカマイシンは、エンビオマイシンを想定しています。
※なお、ウサギではこの状態の場合、壊血病は起こらないはずです。




