三賢堂
1894(明治27)年4月7日土曜日、午前8時。
「どこ行っちゃったかな、伊藤さん……」
大磯にある伊藤さんの本邸の庭を、私は一人で歩き回っていた。
一昨日の夜、横須賀から伊藤さんの本邸に入って、今日は3日目だ。
昨日は伊藤さんに誘われたので、伊藤さんの散歩に、伊藤さんの娘のような顔をして付いていき、大磯の町を歩き回った。伊藤さんは私と手をつなぎたがったのだけれど、後ろから護衛として付いてくる大山さんがじろりと伊藤さんを見た瞬間、「町の者にいらぬ誤解をされてしまいそうですから、手をつなぐのは遠慮しておきます」と、要望を慌てて撤回した。
去年の秋、本邸の完成とともに、大磯町に本籍と住所を移した伊藤さんは、すっかり大磯の町になじんでいるようだった。すれ違う町の人が、「大将、元気そうだねえ」などと声を掛けると、伊藤さんはニコニコしながら応対し、時には、畑仕事をする農民や商店の店番のおばさんと話し込む。
――大将、綺麗なお嬢さんだけど、娘さんかい?
伊藤さんの後ろについて歩く私を、町の人たちが不思議そうに見たけれど、
――隠し子なのよね。ねぇ、お父様?
と冗談めかして答えて、誤魔化しておいた。
今日も伊藤さんと散歩に行きたいと思ったのだけれど、朝食の後、気が付くと伊藤さんの姿が見えなくなっていた。大山さんは、東京で用があるとかで、昨夜一度東京に引き返したので不在だ。それならば、兄と過ごそうと考えたけれど、兄は、私たちについてきた御学問所の講師の三島先生と一緒に漢籍を読むというので、謹んで遠慮することにした。兄が三島先生と読んでいる漢籍は難し過ぎて、私の学力では付いていけないのだ。なので、姿の見えない伊藤さんを探すついでに、伊藤さんのお屋敷を探検することにした。侍従さんが付きそうと言ったのだけれど、「一人で歩く」と言って待機してもらった。
伊藤さんの秘書さんに聞くと、伊藤さんは庭に出たというので、私も編み上げブーツを履いて外に出た。
伊藤さんの本邸の庭は広い。“史実”では、もっと広かったらしい。
――皇太子殿下と増宮さまが同時にお泊まりになっても手狭にならぬように、屋敷を前回より広くしたゆえ、庭は狭くなりましたな。
と、伊藤さん本人は言っていたけれど、それでも、屋敷の敷地は海岸まで広がっていて、庭の向こうの松林を通り抜けると、砂浜に出ることも出来る。庭は大きく二つに分けられていて、西側には、奥さまの梅子さんが世話をしている花壇があった。今はチューリップとヒヤシンスが咲いている。温室ではランも栽培しているそうだ。
花壇の中には、伊藤さんの姿は無かった。松林の中を通る、海に続く小道の入り口まで行って、地面を観察してみたけれど、そこにも足跡は無かった。草地を歩いていたら仮定は崩れるけれど、どうやら伊藤さんは海までは出ていないようだ。
視線を陸側に移すと、大きな茅葺き屋根の日本館が見える。ここに伊藤さんの奥様とご両親が住んでいて、伊藤さんは隣の西洋館で寝起きしている。私と兄、大山さんが泊っているのも西洋館の方だ。私と建物の間、左側には花壇が、右側には梅の林が広がっている。この梅は、伊藤さんがこの本邸を立てるにあたって引き払った小田原の別荘から植え替えたものだそうだ。私は梅の林に入ってみることにした。
梅は花を終えていて、枝の至る所に葉を芽吹かせている。周囲を見渡しながら歩いていると、林の奥に、小さなお堂が建てられているのに気が付いた。梅林の中にざっと目を走らせて、伊藤さんの姿が無いことを確認してから、私はお堂に近づいてみた。
お堂の入り口の戸は、大きく開け放たれていて、その中に、伊藤さんの後ろ姿が見えた。それが目に入った瞬間、私は足を止めてしまった。
――輔導主任の申し上げることが、聞けませぬか。
昨年の1月、この大磯で、伊藤さんが私に初めて見せた厳しさ……。今の彼の背中からは、それが静かに放たれていた。その侵しがたさに、私はくるりと方向転換して、すぐそばにある梅の木の根元に腰を下ろした。
(ここで待つか)
幹に寄り掛かって、ほっと息をつく。とにかく、今の伊藤さんに近づいてはいけない。私は、伊藤さんがお堂から出てくるまで、ここで日向ぼっこすることにした。
(いい天気だなあ……)
一人でこんなにのんびりした時間を過ごすのは、いつぶりだろう。いつもは勉強や習字やピアノで忙しいし、側に侍従さんや花松さんがいることが多い。前世なら一人で過ごせたけれど、学生時代は勉強とバイトと城郭巡りで忙しかったし、勤めていた最期の3か月は、30連勤やら2日連続当直やら、労働基準法なんてすっ飛んでしまっているような状態で過ごしていたから、もちろんゆっくりなんてできなかった。
(気持ちいい……)
暖かい春の陽光を浴びているうちに、いつの間にか眠気に襲われたらしい。
「増宮さま、増宮さま」
肩を軽く揺さぶられて目を覚ました時、目の前には、和服姿の伊藤さんが屈んでいて、じっと私を見つめていた。先ほど垣間見た厳しさは消え、いつもの明るく、どこかひょうきんな雰囲気が彼を包んでいる。
「ああ……伊藤さん」
「いくら天気がよいとは言え、こんな所で寝入ってしまっては、風邪を引きますぞ」
「ごめんなさい。伊藤さんを待って、日向ぼっこしていたら、つい」
私は軽く頭を下げた。
「わしを待っておられた、と?」
「伊藤さんがいなくなったから、探していたんです。そのお堂の中にいるのを見つけたけれど、……伊藤さんの背中が“近づくんじゃない!”って言っていたから、ここで待っていました」
「さようでございましたか」
伊藤さんは微笑した。「ちょうどよろしい。ご案内いたしましょうか」
「案内?」
「あの堂の中を、ですよ」
立ち上がってスタスタと歩き始めた伊藤さんの後ろを、私は慌ててついて歩いた。
お堂の中には、小さなテーブルと一脚の椅子があった。テーブルの上の花瓶に活けられているのは榊だ。その奥の壁に、額が3つ掛けられている。
「増宮さま、どうぞお入りください」
入り口で草履を脱いだ伊藤さんが中に入り、私を手招きしている。ブーツを脱ぐと、私は恐る恐る、お堂の中に足を踏み入れた。
中に入ると、額の中が見えて、私は足を止めた。
「これ……この写真……」
「ご存知ですか」
「前世の歴史の資料集で見たことがあります。木戸孝允、大久保利通、岩倉具視……」
全員、初期の明治政府で功労のあった政治家だ。そして、……全員、もうこの世にはいない。
「みな、わしの尊敬する先輩です。そして、わしの献策を用いてくれた方です」
伊藤さんはそう言って、「増宮さまは、どの程度ご存知ですか?」と尋ねた。
「通り一遍のことしか知らないです。あ、岩倉さんは、亡くなった時の話をベルツ先生に聞いたことがあります」
がんに侵され衰弱した岩倉さんは、“自分の状況を包み隠さず話してほしい”とベルツ先生に迫り、ベルツ先生からがんの告知を受けた。ただ、闘病そのものは非常に絶望的なものだった。がんに対する手術方法などほとんど確立されておらず、その後に行われるべき化学療法や放射線療法なども、もちろんない時代である。それでも岩倉さんは懸命に病と闘い、いよいよ危篤となった時、井上さんを枕元に呼び寄せ、枯れた声で一言一言、最後の力を振り絞って遺言を託し、事切れたそうだ。
――あの方は、“鉄の意志の人”と呼ぶべきでしょう。
ベルツ先生はそう話を締めくくったし、話を聞いた私もそう思った。自分の絶望的な病状を冷静に把握し、病気と闘うことは、医療技術が発展した私の時代でも難しいことだ。
「でも……私にとっては“歴史の教科書に出てくる人”だけれど、伊藤さんにとっては、“お世話になった、尊敬する先輩”なんですよね……」
「その通りです」
伊藤さんは3人の写真に相対したまま答えた。
「前回も、これと同じように、尊敬する先輩方の霊を祀る堂を作りました。そして、同じように、先輩方の霊に相対して、考え込むことがありました。どのようにすれば、この国のため、先輩方に恥じぬ方略が取れるか、と」
「さっきも考え込んでいたんですか?」
尋ねると、伊藤さんがちらりと私の顔を見た。
「不思議そうな顔をしておられますな」
「だって……あなたたちなら、考え込まなくても、それこそ“天眼”を持つかのように真実を見通せて、鮮やかな策略が出てくるんじゃないかと……」
「そういう訳ではありませぬよ」
伊藤さんは私に向き直って、微笑した。
「大山さんも、一昨日言っていたでしょう。自分の頭で、新しいことをしっかり考えなければならない時期だ、と。この伊藤とてそうです。“史実”の状況と現在の状況とは、大きく異なります。特に、日清戦争が起こらぬこの先、我が国の情勢や世界の情勢は、“史実”と更に大きく変わることとなるでしょう。“史実”の知識と経験は、わしを多少は助けてくれますが、あくまでそれだけ。新しい状況に対しては、新しく考えなければならないのです。それは、“梨花会”の皆も同じでございますし、増宮さまも同じでございます」
(ああ……)
不意に、昨年の私の誕生日のことを思い出した。伊藤さんが交通事故に遭い、“史実”の記憶を得た直後のことだ。
――しかし、我々の歴史は、増宮さまが“授業”をなさった瞬間から、既に変わっているのです。ですから、今と、そして未来が最善になるように、皆で力を合わせて尽くすべきでしょう。でなければ、このうっかり拾ってしまったような“史実”の記憶に、ただ振り回されてしまうだけになります。
確か伊藤さんは、お父様にこう言っていた。
“史実”の記憶に振り回されないこと……それは、“史実”の記憶を持っている伊藤さんと原さんだけではない。同じく“史実”の記憶を持つ私も、心しなければならないことなのだ。でなければ、ミカンのビタミン実験のように、中途半端な知識に翻弄されてしまうことになる。
「そうか……私も、自分の知識に振り回されないようにしなければいけないということですね」
「さようでございます。それにさえ気を付ければ、増宮さまの前世の記憶と経験は、きっと増宮さまを助けてくれましょう。いや、増宮さまだけではない、他の者も助けることになりましょう」
伊藤さんは右手を伸ばして、私の頭を撫でた。
「そして、今生で、もっとたくさんの経験を積まれ、世の事象の表裏に対して洞察を深められれば、陸奥君の言う“天眼”を、政治の世界でも持たれることになりましょうな。そうなれば、増宮さまは本当に、世界に通用する“上医”におなりになる」
「そうか、聞いてたんですよね、私と陸奥さんの話」
私は苦笑した。あの時、気配を感じ取る余裕は全く無かったから、“恐らく聞いているだろう”という推測しかできなかった。
「ただ、政治とは決して机上の学問ではありません。生きております。“史実”の陸奥君の言葉を借りれば、“政治は科学にあらず、芸術なり”ですかな。だからこそ、知識だけではなく、経験と洞察が必要になるのですよ。それに裏打ちされているからこそ、何も知らぬ他人には、わしらが“天眼”を持ち、鮮やかな策を立てているかのように見えるのです」
「経験と、洞察、ですか……」
私は両腕を組んだ。「経験はともかく、洞察ですか……」
事物に対して、その表裏を考えることなど、前世でも今生でもしたことがない。
「したことがないなら、訓練すればよろしいのです。ご聡明なのですから、増宮さまならきっとお出来になります。……出来ることはする。それが堀河どのから、教わったことではないですか?」
「その通りです。出来ることをすればいい、と……」
恐らく、“上医”になるための道は、とんでもなく果てしないだろう。それでも、一つずつでも、失敗しながらでも、出来ることをしなければならない。兄を守るためにも。
「そうですよね、果てしないけれど、出来ることをすれば、一生懸命すればいいのですよね……。陸奥さんにも、“未熟だけれど、やってみなければ分からない”って言いましたもんね……」
私がこう呟いた時、
「ところで増宮さま、一つお願いがあります」
伊藤さんが突然こう言った。
「なんでしょうか?」
「この堂……“三賢堂”の扁額を書いていただきたいのですよ」
「へ、扁額?」
私は目を丸くした。「それって……お寺の門とか、神社の鳥居に掲げてある、あれ?」
「さようでございます」
「あれって、偉い人が書くことが多いんじゃ……」
「何を仰せられますか。内親王殿下であらせられますのに」
私の言葉に、伊藤さんが苦笑する。「前回は、皇太子殿下に“四賢堂”と扁額を書いていただきましたが、今回は増宮さまに書いていただきとうございます」
「いや、だったら、兄上に書いてもらう方がいいんじゃないですか?字は兄上の方が上手いし……」
必死に断ろうとする私に、
「いいえ、増宮さまに書いていただきます。“四賢堂”を“三賢堂”にしたのは、増宮さまですからな」
伊藤さんはこう言って、悪戯っ子のような笑みを浮かべた。
「伊藤さん、また変な言いがかりを……身に覚えがありませんよ」
「ほう。三条どののインフルエンザを治されたのも、身に覚えがないとおっしゃいますか?」
「!」
私は伊藤さんを見つめた。「まさか、“三賢”が木戸、大久保、岩倉として、“四賢”の4人目は、三条さん……」
「増宮さまのおかげで、寛仁に富み、曇りなき白璧のような、尊敬する先輩の帝王学の講義を、わしは今、皇太子殿下とともに聴講出来ているわけです。前回は、叶えようと思っても叶えられなかったこと……実に幸せですな」
伊藤さんが満足そうに笑った。
「逃れることは、できないみたいですね」
私はため息をついた。「一発勝負じゃなくていいんですよね?何回か練習して、字を伊藤さんと大山さんと兄上に見てもらってから、本番を書いていいですか?あまりに汚い字だと、伊藤さんの先輩たちに失礼になるから……」
「もちろんでございますとも」
伊藤さんが頷いてくれた。
「よし……じゃあ、今日は散歩はなしですね。頑張って、扁額の字を練習します」
「かしこまりました。……わしも輔導主任として、増宮さまのお書きになる字を、確認させていただきましょう。では、屋敷に戻りましょうか」
「はい」
差し出された伊藤さんの左手を、私は素直に取った。
そう言えば、伊藤さんの手には、ほとんど触れたことがない。手を繋いで歩くなんて、初めてのことだ。
磐梯山の噴火の後、伊藤さんに初めて会った時、彼に手を押し頂かれたけれど、私の手は本当に小さかった。突然伊藤さんに小さな手を掴まれた私は、初代総理大臣が一体何をやっているのかと、驚き呆れたのを覚えている。
それから5年以上の月日が流れ、私の手は、身体の成長に従って、順当に大きくなった。
けれど、伊藤さんの手は、あの時と変わらずに力強くて、――今日の陽射しのように、とても暖かかった。
※伊藤さんが実際に大磯に本籍を移したのは、1897(明治30)年です。
※チューリップとヒヤシンスは、1863(文久3)年にフランスから輸入されたことがあったようなので咲かせてみました(大正時代の園芸書「新選四季の草花」より)。「滄浪閣の時代」(大磯町郷土資料館)に載せられている大正時代の写真を見ると、ユリらしきものは咲いているようですが……。明治末期の庭園の写真も同書に載っていましたが、写真が小さいのと、作者に植物の知識がないのとで、何の花か判別できませんでした。
※なお、三賢堂内の描写は、「藤公余影」を参考にしています。「滄浪閣の時代」では“中の円座に座って考え込んでいた”となっていましたが……。




