85.閑話 第一次ベントー大戦 後篇
空模様は相変わらずの灰色一色。
雨音は弱いまま、ただただ続いている。
表面上は何も変わらない、ただの一日が過ぎていく。
だが、時折感じる強い視線や痛烈な敵意は、昼休みに近付くに連れて、多く感じられるようになる。
これはまずい、と乱刃戒は思った。
募る想いは、良かれ悪しかれいつかは許容量を超えるものだ。現に身に収まりきれない感情が、乱刃戒に向けられる視線に含まれている。
弁当は一つ。
それを狙う者は約十名。
自身が負けるつもりなどさらさらないものの、どうあれ確実に大多数の者が弁当を食いっぱぐれることになる。
こういった感情は、いずれ邪道を生むものだ。
闇討ち、抜け駆け、フライングに近い先制攻撃と集中攻撃。募った想いが恨みとなり、込められる力が必要以上になることもあるかもしれない。
こんなことで大怪我をする者が現れたら。
それも自身の拳が作ってしまったら。
それこそ、諍いの種にして正当な権利である弁当を作ってくれた貴椿千歳に、顔向けできなくなる。
教室内が微妙にギスギスしているのも、弁当争奪戦が控えているからだろう。隣の橘理乃なんて「おはよう。弁当くれ」だの「宿題やってきた? 弁当持ってきた?」だのと、二言目には弁当に関する情報を挟んでくるという露骨な意識の高さを見せている。正直面倒臭い。
一度、ちゃんと話をまとめる必要がある。
全てに納得しているわけではないが、全てに一応の決着がつけないと、皆も乱刃戒自身も精神衛生上確実によろしくない。
――納得できていないと、「点拳」の使用をためらってしまう。
本当に人を、クラスメイトを「点拳」で仕留めるなんてしたくないのだ。そんな本音が拳に迷いを生み、、使うと決めたくせにギリギリで拳を鈍らせるかもしれない。
迷ったせいで「点」を打ち損ねたら、それこそ痛い想いをさせてしまう。
まずは話し合いを。
密かにそう決め、決戦の時を待つ。
水曜日の、昼休みが始まる。
いつものように貴椿千歳と北乃宮匠が、昼食を取りに食堂へ向かうため席を立った。
――気付いているのかいないのか。
皆、巧妙に取り繕っているが、雰囲気はだいぶ悪い。
あらゆる意味で隙を見せない北乃宮匠はきっと気付いているだろうが、貴椿千歳の方はあやしいものだ。彼に「気づいていながら気づかないふり」などという小器用な演技ができるとも思えない。
誰もが乱刃戒の鞄――の奥に眠る宝にさりげなくもギラギラした意識を向けていた。
彼らが教室を出て行くと、乱刃戒の周りに魔女が群がった。
ともすれば攻撃さえ仕掛けてきそうな勢いの彼女らを、一言「待て!」と断ずることで止めた。まるで水流をせき止めるダムのような無視することを許さない声だった。
「少し待て」と、乱刃戒は鞄の奥からケダモノを呼び寄せる弁当を取り出す。見た目も中身も本当に普通の弁当なのに、これは面白いように魔女を狂わせる。魔性の弁当と言ってもいいかもしれない。
問題の弁当を持って、乱刃戒は教壇の前に立った。
男子二人と、早々に教室を出て行った風間一、そして教員に呼ばれた花雅里明日と星雲ささめ以外のクラスメイトが残っていた。
弁当が発覚した一昨日はともかく、昨日はすでに戦闘らしい戦闘をしている。
そして今の彼女らの様子から、やはり今日も、そして明日も、同じことを繰り返すだろうことは明白である。
だからこそ、早めに話す必要があるのだ。
このまま続けたら、それこそ個人的事情や個人的怨恨などの要素が絡まって、簡単に修復できなくなる。その前に状況を整理しておくべきだ。
乱刃戒は、まだこの弁当について話をしていないのだから。
「言っておく。この弁当は――」と、乱刃戒は弁当の説明をする。
曰く、あくまでも隣人の厚意であること。
そこに好いた惚れたの生々しい感情は含まれないこと。
受け取る正当な理由として、食費を収めていること。
特に、隣人・貴椿千歳が、食糧事情に難のある自分のために気を遣ってくれていることを、念を押して話す。
雰囲気が少しだけ良くなった。
そう、その辺の事情がわからず、「もしかしたら二人の関係に進展が……?」という確かめるべきだが知るのが怖い問題も、この弁当争奪戦に拍車を掛けていたのだ。
「以上を踏まえた上で、それでもこの弁当が欲しいなら――」と、クラスメイトを見回す乱刃戒の視線が闘気を帯びる。
直後。
「奪ってみろ」の言葉は、魔女たちの狂宴に塗り潰された。
甘かった。
そう、甘かったのだ。
身体能力だけなら確実に誰よりも勝る自信がある。
だが、身体能力だけで勝てるほど、乱刃戒は甘くない。
もう随分昔のことのように思えるが、本当はついこの前の話である。
乱刃戒は、かつては「魔女の敵」と呼ばれ、一年生でもっとも危険な生徒と呼ばれていたのだ。常人より魔法がある分だけ優れ、有利であるはずの魔女が、束になっても勝てなかった存在だ。今でこそ本質を知り、危険人物じゃないことを知っているが、だからこそ忘れていた。
丸くなったわけじゃない。
元々普通に丸い乱刃戒にちょっかいを出すから痛い目に合うのだ。
――宙を舞いながら、少し後悔した。
きっと自分は、己が資質にあぐらを掻いていたのだろう。
魔力を身体強化に注げば、いくら乱刃戒でも、魔法を使えない常人に負ける理由がない、と。
優れた身体能力により、誰よりも先んじて乱刃戒に襲いかかり。
見事にカウンターを食らったのだ。
壁に叩きつけられ、床に崩れ落ちる。
「……ああ……男の、弁当……」
夢にまで見た、夢の食べ物が、意識とともにどんどん遠ざかっていく。
「……食べ、た……か……った……」
猪狩切映子、死亡。
その表情はただただ後悔に歪んでいた。
……まあ死んではいないが。
教室から「『瞬間移動』させられて、気がついたら廊下に立っていた」和流是音は、今己が置かれた状況と、争奪戦から強制的に締め出されたことを考え、頭を掻いた。
やられた。
油断していた。
隣にいる彼女に、知らず気を許していた……いや、自然と「全員と共闘関係にある」と思い込んでいた。
敵は乱刃戒のみだ、と。
全員でなんとか弁当を奪ってやろう、と。
そういう構図だったけに自然にそう信じ込んでいた。
この弁当争奪戦において、「味方がいるわけがない」のに。
弁当は一つ。
つまり勝者は一人だ。
――それを考え、誰よりも先に「全員を出し抜くこと」を考えていたくせに、真っ先に隣の彼女に追い出されたのだ。我ながら間抜けなことをしたものだ。
もう仕込みは済んでいる。
だが、まず先を見越した仕込みより、己の身を守ることを考えるべきだった。
隣の彼女を、警戒するべきだった。
「……」
仕込みは済んでいる。
時間がくれば発動する、そんな「言葉」を残してきた。
だが、その仕込みはあくまでも「自分が勝つための布石」に過ぎない。
すでに今日の参加権を失っている和流是音には、もう手の届かない、預かり知らない話である。
誰が勝っても、自分の物にならないのなら、興味はない。
願わくば、自分を締め出した彼女――縫染小夜だけは個人的に勝って欲しくない、と願うばかりだ。
次のスネーク相手は決定だな、とささやかな復讐を近いつつ、和流是音は立ち去った。
橘理乃は、自分に何ができるのかを考えた。
己が資質は物質変化だが、まだまだ覚醒して数ヶ月の新米魔女だ。未熟すぎてとてもじゃないが実戦に投入できるものではない。何せ実戦じゃなくても難しいくらいだ。
新米だけにスタンダードマジックもまだまだロクなものが使えない。
手元にカードがない。
切り札と呼べるものもない。
考えれば考えるほど勝機は見えない。
この弁当争奪戦に参戦する資格がないとさえ思えた。
だが、青春時代に青春を諦めるつもりはさらさらない。
男の手料理弁当を諦めるくらいなら、女子高生を辞めた方がマシである。本気でそう思う。
自分に何ができるのかを考え、一つだけ思いついたことがある。
それは、幻を作り出すことである。
資質的に、橘理乃は物質を違う物質に「変化」させる、という魔法が得意……というほどまだ使えないのだが、とにかくそういう資質に恵まれている。
しかし、覚醒直後の暴走状態にて「触れた物の色を変える」という現象を起こした。
それだけならただの「変化」の一端だが、彼女のそれは時間経過で解除された。
これは、一種の「幻覚作用」である。
「変化したように見えた」というのが真相である。
つまり――
「デカいの行くよ!!」
大きな声で注目を集め、人間大ほどという巨大にして見るからに危険すぎる火炎弾を教室のど真ん中に生み出す。
見た者がぎょっとした。
レベルキャップ――明らかに使用規定レベルを逸脱したレベルの魔法で、しかもこんな密室でぶっぱなせば、確実に1-Bは火の海だ。
――本物ならば。
いつものクラスメイトたちなら気づいただろう。熱がなく、そんなに魔力も感じられない炎が幻だということに。見た目のリアリティだけはなんとか体裁を整えたが、本当にそれだけの幻覚である。
慌てて避難し始める魔女たちの中、しかしそれに一目で気付いた乱刃戒は、まっすぐに――巨大な火炎弾を突っ切って橘理乃に迫った。
「ぎゃっ」
脳天に強烈なゲンコツを落とされ、橘理乃はうずくまった。
橘理乃、愛夫弁当(希望)に死す。
実にあっけない幕切れであった。
まあ死んでないが。
――なお、余談だが、彼女は放課後にも同じ場所に手刀を喰らうことになる。
「あ、しまった……!」
気づいたのは、それからだった。
橘理乃の幻の火炎弾にびっくりした恋ヶ崎咲夜は、反射的に「瞬間移動」にて廊下に避難してしまった。
あれは本物じゃなかった。
未だ教室が火の海になっていないので、そういうことなのだろう。
戦うための訓練なんて積んでいないのだ。とっさに逃げ出すような反応ができただけでも、恋ヶ崎咲夜は優秀な方である。
「……食堂行くか」
恋ヶ崎咲夜は潔く敗北を受け入れた。
クラスメイトたちがわちゃわちゃやっている今なら、食堂の彼らの隣が空いているかもしれない。
戦場を去る足取りは、敗者には似つかわしくないほど軽やかだった。
あっと言う間に数名が戦線を離脱し、教室内は小康状態に陥っていた。
話をつけた乱刃戒は、もはや遠慮していない。
倒せる者から順々に始末をつけている。
倒せない者とは、睨み合っている。
明らかに何かを狙っている縫染小夜と兎巴。三動王夢幻は出入口付近にいて状況を見ているだけだが、隙あらば確実に襲いかかってくるだろう。
誰も動かない。
まるで三すくみのようになってしまった。
誰もが多少の長期戦を覚悟し始めた頃――この状況が壊されるその現象が起こった。
「な、何!?」
兎巴が驚愕の声を上げた。
乱刃戒も声を上げたかったが、その前に悟ってしまった。
己の敗北を。
そう、乱刃戒を仕留めたいなら、もっとも簡単な手段がある。
それは、無差別攻撃だ。
――突如教室内に発生した淡い紫色の霧は、あっという間にこの空間に満ちた。
警戒したが、もう遅い。
いや、遅いのではなく、無駄な抵抗なのだ。
いくら口元を抑えようと、魔法で発生した霧は、理屈を無視して少女たちの身体を蝕む。
段々と身体が重くなっていく。
全身から力が抜けていく。
脱力し、誰かが膝を着き、気がつけば誰もが身体の自由を奪われ、床に倒れていた。
――和流是音の置き土産である。
彼女は、最終的に自分と乱刃戒の一騎打ちを想定し、一番最初にこれを仕掛けていた。
もっとも苦戦する相手として、乱刃戒を見出していたのだ。
誤算だったのは、自分が立ち回って「最終的に一人勝ち」という状況を作り上げるつもりだったのに、立ち回る前に強制退場させられたことだ。
「……なんだか悪いな」
無差別に魔法の霧に蝕まれた乱刃戒、兎巴、縫染小夜。
三人は、少しだけ意識は残っている程度の、浅い眠りについている。
唯一の例外は、『魔除け』にて霧から身を守った、何もしていない三動王夢幻である。
――正直、随分迷っていたのだ。
自分が参加していいのか、と。
男の弁当は確かに欲しい、喉から手が出るほど欲しい。
だが、仮にも剣術道場の娘として、武道家の端くれとして、人の物を物欲だけで奪い取るような行為には非常に抵抗があったのだ。確かに乱刃戒とは一度戦ってみたいとは思っていたが、それと弁当争奪戦とは関係ない。お互い武道家だ、そんな理由がなくても戦える。
しかしこの状況で、無視して行くのも失礼だ。
皆、戦ったのだ。
弁当のために。
いくら漁夫の利すぎるとしても、この状況で弁当に手をつけないのは、散っていった者たちに申し訳が立たない。
皆倒れているし。
三動王夢幻は、そろそろ薄れゆく魔法の霧の中、乱刃戒の懐から弁当を出した。
「ま、待て……」
無遠慮に持っていく腕を掴まれた。その力は弱々しい。
大した気力である。
立ち上がることさえできないくせに、それでもまだ弁当を守ろうというのか。
「安心しろ。代わりに私の握り飯をやる――そうだ。おまえは認めた相手の手料理しか食べられないんだったな」
――乱刃戒と同じように、山篭りや食糧難の経験がある三動王夢幻には、乱刃戒の気持ちはよくわかる。
彼女は自分の鞄から、アルミホイルで包んだかなり大きな握り飯を取り出す。
簡単な料理はできるが、無頼の米好きなので、昼は握り飯を好んでいる。「おにぎり」よりは「握り飯」の方が相応しい代物だ。
大きいだけに具もたくさん入っている。
見た目はアレだが、内容物はそう悪いものではない。
三動王夢幻は包みを開き、安全を伝えるために一口食べて見せた。
「これでいいな?」
了承は聞かない。
再び包むと、乱刃戒の懐に入れた。
こうして、乱刃戒以外が勝者となった弁当争奪戦は、あらゆる意味で一つの終戦を迎えた。
「弁当? まあ、うまかったが」
感想を聞かれて「普通だったけど?」と言いたげにクールに答えた三動王夢幻だが。
正直、食べている間は、男の手作り弁当を食べていると思うだけでドキドキし、ドキドキしすぎて味なんてよくわからなかった、というのが正確な感想であることは、本人だけの秘密である。




