84.閑話 第一次ベントー大戦 中篇
無数に伸ばされた手より、乱刃戒の手の方が――いや、動作の方が早かった。
後の先――向こうが動いてからの反応となったが、その分のリードは刹那で追い抜いた。
数瞬の「間」を得て、この「間」を利用して距離を取る。追い打ちが掛かる前に席から立ち上がり、後ろの机の上に飛びしゃがんで着地した。
そのままの体制で、「なんのつもりだ」と睨めつける。
今クラスメイト四人は、明らかに乱刃戒の弁当を狙って動いた。
それもほぼ同時に動いた。
まるで計ったかのようなタイミングだった。
やはり、狙いは明白だ。
「その弁当よこせよ。……いや、よこせとは言わない。私の昼食と交換しろ」
本来恥じ入るべき下心を隠そうともせず言い放った兎巴の主張はともかく、その本気具合は敵意と化し、彼女の魔力に伝達する。
圧倒的な不快感も顕に、教室の空気が一気に変わる。
――本気で欲しがっているのか。この弁当を。
乱刃戒は……都会の女子の話題はとかく不可解なことも多く、話の半分も理解できないことも多いが。
事この件に関しては、よくわかっていた。
日頃から恩人――貴椿千歳の手料理に興味津々の彼女たちである。
いざそれが手に届く距離にやってきたことで、理性のタガが外れたのだろう。
乱刃戒だって隣人の手料理か否かは別としては、「すぐそこに食料がある」と思うだけで理性のタガが外れそうになるのだから間違いない。特に食糧事情が解決する前は、クラスメイトの昼食を力ずくで奪ってしまいそうな、自制の利かない自分が怖かったくらいだ。
兎巴が敵意をむき出しに戦闘態勢に入り、そして乱刃戒の双眸も真剣味を帯びてくる。
「他はまだいい。だが私は食料に関しては遠慮しない。本気で相手するが構わないな?」と、警告はしておく。
まだこの学校にやってきてから、人に対して「点拳」を振るったことはない。
いつだったか風紀委員長が言っていた通り、いたずらに振るうほど安い拳ではない。言われるまでもなく当人だってそう思っていた。
もう一つの理由は、単純に威力があるからだ。いつもの突きはただの基礎にすぎない。
そして最近になって、更にもう一つ、魔女に対して手が抜けない理由ができた。
魔女と戦う。
その事実を確認すると、嫌でも先日会った兄弟子を思い出す。
魔女との戦いで変わり果てていた、兄弟子のあの姿を。
かつて出会った北霧麒麟とはまるで別人となっていた、あの姿を。
――嫌なことを思い出した。
乱刃戒は思考を闘気に乗せ、意識を切り替えた。
教室内には、五人いる。
眼前にいる橘理乃、恋ヶ崎咲夜、兎巴、和流是音の四人。少し離れた自席で昼食を取っていた縫染小夜。
幸運だった。
今、教室に猪狩切映子と風間一と三動王夢幻がいない。
あの三人の内の一人でもいたら困難な状況になっていたが、このメンツならばなんとかなる。
「フッ」――鋭く息を吐いて、猿のごとく机の上を飛び跳ねて移動する。
「あっ」と誰かが声を上げた時には、乱刃戒はもう教室から飛び出していた。
戦う状況にあろうと、戦う理由はない。
なぜなら、この戦いの勝者とは、乱刃戒が持っている弁当を勝ち取ることだから。
――この後、乱刃戒は絶対安全圏として風紀委員室を選び、そこに飛び込んだ。
「何の用だ? ……弁当を食わせろ? 部外者は立ち入り禁止だ。……隅の方で大人しく食ってさっさと出て行け」
口うるさい風紀副委員長の許可も降り、そこでようやく、楽しみに楽しみにしていた弁当を広げた。
もちろん期待通りの……いや、期待以上においしい弁当だった。
これまでだいたい夜だけ、時々朝も馳走になっていた豪華な食事が、これからは昼も楽しめるのだ。
生の喜びを噛み締める。
具体的にはチキンナゲットを。
冷凍物とか言っていたが充分うまい。
これからが大変だろうな、と思いながら、それでも箸は止まらなかった。
火曜日。
「ルールを決めました」
その言葉に対して「委員長として騒ぎを止める気はないのか?」と問うが、逆に、
「なぜ? 学校に関係していることなら立場上口出ししますが、お弁当のやり取りは違うでしょう?」
と返された。
さすがは花雅里明日、理屈で勝てる気がしない。
「お弁当のやりとりなんて、仲の良い生徒同士の仲睦まじい微笑ましい行為ではないですか。私はむしろ肯定してしかるべきかと思いますが」
さすがは花雅里明日、己が参加するための建前も忘れない。
「あくまでも教室内だけの話にしましょう。騒ぎを外に持ち出すのは立場上止めざるを得ません。時間は昼休みのみ、教室から出た者は参加権を剥奪、そしてお弁当を持って教室を出たらその人が勝者。シンプルでわかりやすいかと思いますが」
今日も雨が続いている。
朝来るなりこんなことを言われるのもなんだか納得はいかないが、たとえ乱刃戒が嫌がったところで、クラスメイトたちは遠慮などしないだろう。
今日も、鞄の中には、大切な弁当が入っている。
――大切な弁当を引き渡すなんて、そんな要求に応じるつもりはない。
――そして、「点拳」の後継者を目指す身としては、挑まれた勝負を逃げるわけにもいかない。
ただ、ほぼ半数が参加しなかった月曜日とは違い、今日は……
朝っぱらからギラギラしている猪狩切映子からは、逃げられそうもない。
瞬く間に時間が過ぎ。
空腹分もプラスされて、クラスメイトたちの目が飢えた獣のように尖ったものになっていく。
昼休みとなり、いつも通り貴椿千歳と北乃宮匠が教室を出たところで。
周囲の強すぎる期待の目を向けられていた乱刃戒は、ついに弁当を取り出し――戦争は始まった。
「くっ」――思わず声が漏れる。
昨日は無言にして挙動のない戦いだったが、今日は違う。
誰しもが、明確に、奪いに来ている。
昨日はまだ、突然のことに決断を鈍っていた魔女たち。
だが二度目となる今日は、一日掛けて気持ちの整理を着けてきたのだ。
殺傷力の低い、だが当たれば動きを拘束される蛍光緑色の粘液弾――俗に言う「スライムボール」を執拗に飛ばし追い立てるのは、兎巴だ。教壇の上に立ち、広く見通しながら撃っている。
この魔法はやはり「拘束する」という一点にのみ特化したもので、更に応用の幅も呆れるほどに広い。動物との意思疎通が得意な兎巴ならではの特性も付随するのだが、さすがにクラスメイトが多数入り乱れているこの状況では必要以上の高度な使い方はしないようだ。ただ「当てて捕まえる」のみを求めている。
他にも色々と飛んでくるが、だいたい全部回避している。
隙を見ては教室からクラスメイトを放り出したり殴り飛ばしたりして退場させているが……やはり厄介なのは、兎巴と猪狩切映子だ。
「よこせーーーーー!」
乱刃戒の動きは速い。
たとえ複数名に襲われようと、教室のように障害物が多い場所ならいくらでも回避できる自信がある。
ただし、それは、あくまでも「飛んでくる物」に対してだけ。あるいは「接近してくる者だけ」でもいい。
それら「どちらも」、遠距離から仕掛ける者と近距離から仕掛ける者が混在する戦局の打破は、困難だった。
昨日のように、魔法が得意な魔女だけなら、どうとでもできる。
だが、今日は猪狩切映子がいる。
猪狩切映子は、魔法は得意ではない。
だが彼女の魔女としての特性は、「魔力を運動神経に変換する事」である。要するに身体能力を一時的に飛躍・強化させることができる。
乱刃戒のように洗練されたものではないが、単純に全ての能力が乱刃戒を超えている。厄介なのは反射神経まで強化していることだ。どんなに激しく振りほどこうとしても、ぴったりマークして離れない。そして、掴まれたら終わりだ。彼女は一度掴んだら絶対に離さないだろう。このむき出しの執着心がそれを物語っている。
それにしても、この鬼気迫る表情はどうだ。
食料とは……否、男の手作り弁当とは、こうも女を豹変させる罪深きものなのか。
どうあっても渡すつもりはないが。
目の前の猪狩切映子が邪魔すぎて、兎巴まで行けない。出入り口は三動王夢幻と花雅里明日という厄介な存在に抑えられている。
逃げ場はない。
否、逃げ場はなくなりつつある。
ばらまくように撃ち続けている兎巴の「スライムボール」が、そろそろ「違う形」で効果を表し始めている。
この密室において「粘着質の球」を投げ続ければどうなるか?
外れた珠は壁や床にぶつかり、そのまま残っている。
どう考えても罠である。
粘着質なのか、あるいは粘度を操作してヌルヌル滑るようになっているのか。危険すぎて踏む気にはなれない。
――やはりやるしかない。
半端な打ち込みは、今の猪狩切映子には通用しない。何せ身体能力の強化は、そのまま打たれ強さにも繋がっている、実際何度か食らわせているがまったく効果がない。
「まったく」と呟く。溜息が混じった。
本当はクラスメイトを殴るなんてことはしたくないが、それ以上に大切な弁当を渡すことはできない。
机の上を経由し、高速で床に着地する。
愚直――と呼ぶには速すぎる追従の手が、すぐそこに迫る。
まばたきさえ許されない僅かな「間」に、乱刃戒は開眼する。
力の流れを見る目が、猪狩切映子を捉える。
「点拳」の基礎にして、奥義とも言える「点の真理」に近付くその目は、猪狩切映子の「弱点」を浮き彫りにした。筋肉の伸縮、躍動、内蔵の動きに至るまで、乱刃戒には「視えている」。
左足を踏み込む。
浅く。
鋭く。
重く。
そして淀みのない流れの中にそれらを収束させる。
力の限り踏み締める足から、一時的に増した体重を拳に込める。
――ドン!
床を鳴らす音が空気を振動させ、一撃必倒の拳をまともに受けた猪狩切映子は吹き飛んだ。
「おっと」
そして三動王夢幻に受け止められた。「うおーいてー」と悶絶している。……あれを食らって意識があることに心底呆れた。だがしばらくは戦線に復帰はできそうもない。
「え……!?」
盾役は排除された。
肉体的要素で乱刃戒を上回る猪狩切映子に安心感を得ていただけに、この時の兎巴の驚きはすごかった。
「あとはおまえだな」と、厄介な飛び道具を無遠慮に飛ばしていた兎巴を睨めつける。
彼女は「ひっ」と小さな悲鳴を上げた。
――あれはもう戦闘不能だな。
心が折れている。
まあ戦い慣れている魔女の方が珍しいのだ、別に彼女が特別なわけではない。
ふと見れば、もう教室にはほとんど残っていない。夢中になって立ち回っていたので周囲を冷静に見る余裕もなかったのだ。
あとここで戦える者がいるとすれば、出入り口を固めている三動王夢幻と、花雅里明日だけだ。
「強いな」
受け止めた猪狩切映子を下ろしつつ、三動王夢幻が言った。
「おまえもやるか?」と問う。
彼女は強い。本当に強い。
素手でも強いが、棒切れ一本あれば確実に乱刃戒より強い。――だからこそ一度はやりあいたい相手だと思っている。彼女もきっとそうだろう。
だが、彼女のポニーテールが揺れた。
「多対一はあまり好きではない。今日のところは乱刃の勝ちでいいだろう」
花雅里明日に視線を向けると、彼女も頷いた。
「そうですね。大体わかったので、今日のところは構いません。……正直、兎さんと猪狩切さんだけで充分だと思っていたのですが。想定外でした」
「二人に連携の入れ知恵をしたのか?」と問えば「ええ、しましたね」と軽く頷く。……さすがは花雅里明日としか言い様がない。
勝つには勝ったが、問題点が多い。
やはり魔女は厄介だ。
苦労して苦労して苦労を重ねて積み重ねてきたことを、魔法という奇跡一つで簡単に乗り越えてしまう。
理不尽にも程がある。
だが、ここはそういう世界なのだから仕方ない。
――水曜日がやってくる。




