83.閑話 第一次ベントー大戦 前篇
「――すまん」
水曜日の夜。
隣室での夕飯の後、なかなか降り止まない雨音の中。
乱刃戒は己が小さな身体を折り曲げて、深々と頭を下げた。
頭を下げられた相手である貴椿千歳は、突然の行動に焦り「頭を上げろ」と言ったが。
乱刃戒にとっては、ここまでするほどの不敬であり、またここまでしないと自分を許せないほど屈辱的なことでもあった。――否、ここまでやっても全く微塵も髪の毛一本分さえ許されないほどだ。
食料を奪われるという、決してあってはならない不覚。
食料とは、命の糧である。
乱刃戒にとっては、明日生きるために絶対に必要な物。
これまでほとんど自給自足に近い食糧事情を抱えていただけに――
食料を奪われるという愚挙は、即ち乱刃戒には「死の宣告」と同等の意味を持つ。
不覚を取った時点で、死んでいるに等しい。
土下座くらいでは間に合わない。
そしてそれに加え、己が命を繋いでくれている恩人の作った食糧を奪われるという、単純ながらしかし決して無視できない理由も付加している。
頭を下げずにいられる問題ではない。
ここまでやってなお足りないとさえ思えるほどだ。
――それほどまでに、乱刃戒にとっての「貴椿千歳の作った弁当」という食糧は、大切で、重い。
事の発端は、月曜日に遡る。
月曜日。
また一週間が始まるというこの日は、生憎の雨だった。
先週末から広がっていた曇り空は、ようやく昨夜の晩からしとしとと降り出した。
強くはないが、長引きそうだ。
土曜、日曜と短期のアルバイトをして、乱刃戒の懐にはかつてない大金が転がり込んだ。
やる前はやる気もなく渋ったものの、いざこなしてみれば「やってよかった」と素直に思えた。板チョコをかじりながら思えた。
全財産56円では、やはり、さすがの乱刃戒でも不安だったのだ――この時は逆に自分が持つには多すぎて若干不安になっていたが。
「シャンプーとリンスとコンディショナーを使いなさい」
隣の席の橘理乃が、よくわからない何かを勧めているのはわかる。
バイトを経た月曜日、教室での話題は「乱刃戒に何を買わせるか」で持ち切りだった。
「何事か」と問えば、橘理乃や委員長・花雅里明日は「貴椿千歳に頼まれたから」と、生活必需品の購入を強く勧められた。
乱刃戒自身としてはあまり必要ない気はする。
が、ここまで強く勧められるのだから、あった方がいいのだろうと判断した。本人としても、自分が都会の生活に程遠い生活を地で行っている自覚はあるのだ。
都会のことはよくわからないので、もう任せることにした。
かつて着ていたという恋ヶ崎咲夜の服をまとめて購入する手はずが整い、家ではどんな生活をしているのかを逐一聞かれ、放課後には下着やリップクリーム、ボディソープや洗顔料などなどを買いに行くことになった。
洗う関係の物をやたら勧められるので「石鹸さえあればいいだろう」と言った時。
「……」
「……」
その時の自分を見る橘理乃と花雅里明日の目は、まるで道端の小石を見るかのようになんの感情もなく、度を過ぎた無関心さが非常に怖かった。あれは人に向けて良い類の目じゃない。
なので、乱刃戒は本当にもう、全部任せることにした。
石鹸は、洗濯にも身体を洗うのにも髪を洗うのにも使える上に長持ちする、頼もしい味方なのに。
――事件は昼休みに起こる。
花雅里明日が所用に外し。
シャンプーとリンスはまだ聞いたことがあるが、コンディショナーというわけのわからないハイカラなものの説明を始めた橘理乃の話を聞き流しながら、乱刃戒は鞄の底に眠らせていた「それ」をついに取り出す。
「ん? 何それ?」
青い包みに覆われた小さな箱。
このタイミングで出す以上、誰がどう見ても弁当箱である。
もちろん、それは疑問を挟んだ橘理乃もわかっている。
問題は、「乱刃戒が弁当を持っていること」に関してだ。
それそのものが、疑問の塊だったのだ。
「弁当だが?」と当然のように答えた瞬間、教室の時を刻む時計が止まった。
決して大きくはなかった声なのに、それは波紋のように広がり、にぎやかだったクラスメイトたちのおしゃべりを止ませた。
雨音と、ちょうど教室を出て行くところだった星雲ささめと風間一が、ドアを閉める音だけが印象に残る。
乱刃戒は、特に気にすることなく、受け取った朝からずっと楽しみにしていた弁当を開け――ようとした時には、もう席を囲まれていた。
橘理乃。
恋ヶ崎咲夜。
兎巴。
和流是音。
明らかに普通ではない様子のクラスメイトたちの期待と失望が入り混じった複雑な表情と、自分と弁当に注がれる不穏な熱い視線。
この時、すでに男子二人が教室にいなかったのは、不幸中の幸いだろうか。
「どうした?」と問うと、四人は目配せする。
正直もう弁当のことしか頭になかった乱刃戒は、この四人だけだはなく、教室にいるクラスメイト全員が自分を見ていることに、この時ようやく気づいた。
「……まさか、それ……貴椿くんが作った……?」
橘理乃の絞り出すような声に頷いた瞬間――
教室は戦場と化した。




