65.魔女の穏やかな日々 六 後半
騒ぎの核を知った瞬間、反射的に親友との電話を切り、上着を手に部屋を飛び出した。
「あ、橘さん」
隣室の2年生も同じように出てきた。
彼女は風呂上りなのか、髪はまだしっとりと濡れ、バスタオルを身体に巻いているだけというあられもない姿である。むき出しのふとももがセクシーだ。
「今の聞こえました!?」
「うん。下着ドロだね」
……? なんか冷静だな。
「時々出るんだよ」
あ、普通に出るんだ!? 下着泥棒!
さすがにこれは寮生活はおろか人生でも始めてのことだったので、私は思わず興奮して出てきてしまったが……なんだ。普通にあるのか。
「何? もしかして探しに行くつもりだった?」
持っていた上着を見咎められた。
「いや、なんかいても立ってもいられなくて……」
特に探しに行こうとも思っていなかった。
こうしちゃいられない、という気持ちだけで出てきてしまった。……止められなければ確かに探しに行っていたかもしれない。
もちろん、男子の味方としてだ。パンツなんて盗んでどうするんだよ。生身の方がいいだろ。
「じっとしてられなくなる気持ちはわかるけど、ダメだよ。もうすぐ門限だし、部外者が下手に関わると共犯扱いされるから」
「共犯!?」
「捕まらないんだよ、下着ドロ」
先輩は腕を組む。胸元が露骨な谷間を刻む。……私と同じくらいかな?
「九王院の男子寮だけ狙われるから、生徒会と風紀委員が捜査はしてるっぽい。でも箝口令を敷いてるから進展してるかどうかもわかんないんだよね。とにかく言えるのは、犯人は凄腕ってことだね。結構レベル高い魔女なんじゃないかな」
凄腕の下着ドロの魔女、か……
なんて無駄な魔法の使い方をしているのか――と考える私は、まだ魔女見習いもいいところなんだろうか?
だいたい男の下着なんて盗んでどうするんだよ。
ヘンタイと罵られても否定できないよ。
私でさえちょっとしか欲しくないよ。
「それじゃ、先輩はなぜ出てきたんですか?」
「点呼があるから。犯人じゃない、共犯じゃないって確認作業があるからだよ。ほら」
背後を指差される。
振り返ると、逆隣の部屋に入っているこれまた先輩が、「おいーす」とトレーナー上下に丼を手に持ったまま出てきた。夕飯時だったらしい。……納豆入り卵かけご飯かな?
「橘さん、下着ドロは始めてなんだって」
「あ、そうなの? 私も始めての時はビックリしたよー」
私は地味に、丼持ってきた先輩にも驚いているが。
……まあとにかく、下着泥棒は普通に出現するものらしい。
そのうち体育館にずらっと、トランクスやボクサーパンツや純白のブリーフが大漁に並べられる日が来るかもしれない。夢のような光景ではある。モノ自体はあんまり欲しくはないけど。
「男子も大変だよね」
「でも盗むパンツ一枚につき二千円ずつ置いていくんでしょ? ある意味親切よね」
「なんか安物は盗まないらしいね。百均パンツは盗まれずにそのまま置いていくんだって」
「そうなの? 綾辺くんのは値段関係なく、いつもごっそりやられるとか聞いたけど」
先輩同士の話を聞く限りでは、それくらいの情報が漏れて共有される程度には、頻繁に出没しているみたいだ。
そうこうしていると、先輩の言っていた通り、管理人さんがやってきて直接顔を見て点呼を取る。
この期に及んでも丼を手放さない人がいる以外は異常なしと判断され、バスタオル先輩に「湯冷めしないようにね」と言い残して上階へ消えた。
「私も今晩は卵かけご飯にしようかな」
見てたら食べたくなったらしいバスタオル先輩と、「ネギあるよ。あげようか?」とネギを進める丼先輩におやすみを言い、私は部屋に戻った。
――魔女学校はすごいな。下着泥棒まで現れるのか。
翌日の早朝である。
ホームルームが終わった直後、クラス委員長・花雅里さんと、委員長の仕事が完璧すぎて出番がまったくない副委員長の縫染さん、そして恋ヶ崎さんと私という四名が、担任・白鳥先生に呼び出された。
妙なメンツである。
クラスのまとめ役が呼ばれているんだろうな、とは思うが、ならばなぜ私まで呼ばれたのだろう。恋ヶ崎さんは発言力あるけど私は違うぞ。
少し早めに終わったので、廊下には人気はない。
大して長く掛かる用事でもなかったのか、私たちが廊下に出たところで、白鳥先生は私たちに向き直った。
「昨日、下着泥棒が出たのは知っているわね?」
当然である。
私は騒ぎの声まで聞いているし、朝から微妙にその話で持ちきりだ。
やれ綾辺先輩のパンツを盗むとは羨ま……けしからんだの、下着より小学生の頃に使ってた縦笛が欲しいだの、新しい下着に呪い……いやお呪いを掛けてプレゼントしようかしらだの。
クラスに男子がいる手前、あまり大っぴらには話せないものの、噂はすでに拡散しているはずだ。
――そして当然のように、昨日も無駄に高レベルな下着泥棒魔女は、逃げ切ったらしい。
本当に捜査はどの辺まで進んでいるんだろうか。
「北乃宮くんは大丈夫だと思うけれど、貴椿くんには内緒にしておいてほしいの。口止めを頼める?」
私たちは顔を見合わせる。
「口止めは構いませんが、私たちが言わなくてもいずれ伝わると思いますよ。ならば最初から伝えておくのもいいと思うのですが」
花雅里さんが言うことはもっともだと思う。
すでに、校内中に噂は広まっている。私たちだけ黙っていたって、誰かが言う可能性がある。小賢しくも風紀委員とか仲良いらしいし……まったく本当にどれだけ警戒しても悪い虫は寄ってくるんだから……
「時期尚早だと思うから。まだ九王院……というか、周囲に魔女ばかりという環境に慣れていないように見えるのよ。これ以上心労になることを耳に入れたくないの。せめて一学期の間くらいは穏やかに過ごしてほしいかな、って」
まあ、別に断る理由もないから、それはそれでいいと私は思うが……
「私は反対なんですけど」
髪を弄びながら、恋ヶ崎さんが言った。何気ない所作が絵になるなぁ。
「いくら、今のところ男子寮にしか出ないからって、注意を呼びかけないのは問題がありませんか? 貴椿くん、きっと無警戒ですよ。黙っていたせいで盗まれた、ではかわいそうです。しかも予備知識さえないまま被害にあったら、そのショックも大きいでしょうし」
もっともな意見である。
「――本音は?」
頷きかけた私の耳に、縫染さんが細い隙間を縫うように確信に迫った。
「パンツ警護を理由に貴椿くんの部屋に上がり込むことも不可能ではない。防犯の心得を説くとともに、しかし部屋に上げた時点で、もう全てが手遅れであることを証明する自信が私にはある……」
あ、悪魔的発想だ……!
親切や厚意の裏に隠されていた狡猾なる悪魔的発想が出た……!
「それ、言っていいんですか?」
恐ろしいまでに感情を見せない花雅里さんの視線を受け、恋ヶ崎さんは肩をすくめた。
「同じように考えて行動する人がいた場合、それこそ手遅れでしょう? 警戒すべきはうちのクラスメイトだけじゃないんだから」
むしろクラスメイトならフラグをへし折るのは簡単だし、と。
恋ヶ崎さんは攻めの一手を、むしろ守りに使うべきと判断したようだ。あえて考えを伝えることで、その攻めの一手を誰も使えないよう潰したのだ。
これが恋愛戦士の駆け引き……勉強になるなぁ……
「――だからこそ」
ポンと、先生は私の肩を叩いた。
「橘さんを呼んだのよ」
……え?
花雅里さん、縫染さん、恋ヶ崎さんは「ああ、なるほどな」と頷いているものの……私は意味がわからない。何? 私が何か?
「あなたは乱刃さんに一言、注意を呼びかけるだけでいいのよ。――『貴椿くんの下着が狙われるかもしれないから、本人にはバレないようにそれとなく警戒してくれ』ってね」
……! そ、その手があったか!
乱刃さんは、非常に鋭い。勘もいい。恐らく魔法なしでは背後を取ることはできない。
そんな乱刃さんが、貴椿くんの隣の部屋に住んでいるのだ。彼女の警戒なら、下手な魔女よりよっぽど有能だろう。
もちろん、警戒させるのはパンツだけではなく、貴椿くんに近づく悪い虫に対してもだ。
「もしクラスメイト以外が貴椿くんの部屋に上がり込もうとしたら、そいつは高確率で下着泥棒だから全力で追い出してくれ」と吹き込んでおけば、これほど手ごわいボディガードはいない!
何せ乱刃さんは、先日まで「魔女の敵」と呼ばれていたのだ。そんじょそこらの魔女なんて目じゃない。
「じゃあ知らせない方向で? 私は本人にも警戒してもらった方がいいと思うんだけどなぁ」
恋ヶ崎さんの反対意見も、説得力はあったのだ。
恐らくそっちでも不正解ではないと思うが。
「わかってないわね」
白鳥先生が、かの恋愛戦士に向かって「わかってない」という暴言を吐いた。なんということを……!
だがしかし、先生から続けられたその言葉に、私たちは目から鱗が落ちることになる。
「――魔女の世界から隔離されて育てられた警戒心薄い純情な少年という、男子の中でも稀少性の高い存在である貴椿くんを穢すような報を、自ら積極的に耳に入れる、と……?」
ハッと息を飲む恋ヶ崎さん。
いや、私たちもだ。
そう……あれほどすれていない男は、九王院じゃなくても珍しいのだ。
そうじゃなければ、己が身の安全を警戒して魔女主催の歓迎会になんて絶対に来ないし、強引にこじつけたクレープデート等々の約束なんて絶対にしない。
そんなどこか危なっかしい警戒心が薄い貴椿くんだからこそ、私たちは強く、彼をあらゆる悪い虫から守ろうと思うのだ。
北乃宮くんほどピシッとしていれば誰も心配なんてしないし、守ろうなんて思わない。
失念していた。
彼の人柄と、決して穢したくない純朴さを。
それに気づかされた恋ヶ崎さんは、悔しそうに唇を噛む。
まさか、恋愛戦士の敗れた姿を拝むことになるとは……いや!
彼女以上の恋愛戦士がここにいることを、我々は喜ぶべきなのかもしれない!
「守ると決めたらしっかり守りなさい。体だけではなく、心も守りなさい。立場が違う私には、あなたたちほどたくさんのことはできないんだから」
しっかりしなさい、と。
そう言い残し、真の恋愛戦士は去ってゆく。
その堂々たる背中を、傷を、哀愁を、語りかけてくる無言の言葉を、私たちはいつまでも見守っていた。
――白鳥未波。
未だその人生に、恋人という重みを背負ったことがない者。
彼女も間違いなく、誇り高き戦士である。




