64.魔女の穏やかな日々 六 前半
「――で、そっちの生活には慣れた?」
「――微妙かなー」
時刻は7時半を過ぎ、すっかり夜の帳に包まれている。
かすかに残る夕闇の彼方には、底意地の悪そうな魔女の笑みを思わせる三日月が浮かび、空をこじ開けようとしている無粋な『虚吼の巨人』がほのかに青白く輝いていた。夜だと一層不吉な存在に見える。
親元から離れて九王院学園へやってきた私は、学校が用意した寮に入ることになった。
九王荘2号の、103号室。
それが今の私の居場所である。
野暮ったい名前ではあるが、四階建てのマンションのようなシャレた建物である。フローリングの一間で、キッチンに風呂トイレ付きだ。一階はコインランドリーのような共同洗濯スペースが入っているので、住居は二階から。そしてここ103豪室は二階にある。
シャツにスパッツという楽な部屋着に着替えて、地元から掛かってきた電話に出る。
電話の相手は、私が魔女になってしまったことで、高校進学に伴い進む進路が大幅に変わってしまった親友だ。本来なら同じ高校に通っていたはずだが。
すぐ会える場所ではなくなってしまったが、こうして今でも交流がある。
初めての一人暮らし。
四月が過ぎて、五月に入って、ようやく少しは慣れてきたかな、といったところだ。
寮のみんなもよくしてくれるし、ホームシックらしい気持ちもあまりなかったし。……これから出るのかもしれないが。
「微妙なんだ。でも理乃ならどこでもやっていけるよ」
「無責任な」
正直なところ、今でこそ周りは魔女ばかりだ。
屋台のクレープ屋さんをやっているお姉さんも魔女だったり、ゴミ出しに出ている近所のおばちゃんも普通に魔女だったりと、魔女だらけの環境ではあるが、一般人には意外と「魔女」というものに馴染みが薄い。
テレビを付ければ、最近よく見る魔法少女アイドルたちがプライベートをいじられて「勘弁してくださいよ~」と若手芸人のような物腰で笑いを取り、「しゃらららららるるるるーん! ハゲよ偽りの毛で喜べ!」とか言って大御所俳優さんの頭を一時的にふさふさにしたりと、バラエティで生き残るのに必死になっている姿を見ることもできるが。
でもそれはテレビの向こうの話で。
少なくとも私は、中学生まではあまり馴染みがなかった。
基本的に、普通の学校に魔女はいない。
多くが、覚醒したら魔女育成に力を入れている学校へと移るからだ。
国が魔女育成に力を入れていることもあり、この寮生活も学園長の支援、そして裏にいるのだろう国の支援が大きい。家が貧乏だから行けない、というケースはまずない。
それと暴走だ。
覚醒してすぐは、魔力の使い方がわからず魔法が勝手に発動する、というとんでもなく危険な状態になることがある。だからこそちゃんと魔法を学ばないといけないという危機感が、普通の学校に通うという選択肢を選ばせないのだ。私も暴走したことがあるしね。
もし普通の学校に魔女が通っているのなら、よっぽど魔力測定で割り出されたレベルが低いか、覚醒したこと自体を隠したいのか、のどちらかだろう。
九王院の魔女は、全国から集まってきている。
軽く言葉が訛っている子も多いし、数は少ないが外国から来ている子もいる。
私と同じように急に覚醒して、暴走への危機感から普通の学校に通うのに抵抗を持ち始めて……という流れで九王院にやってくる魔女が多いだけに、新入りに優しい人たちが多い。
きっと彼女たちもそうやって先達に暖かく受け入れられてきたからだろう。
――男兄弟、もしくは彼氏が、あるいは親友以上恋人未満の男の幼馴染がいなければ。
もし私にそれらに該当する近しい男がいたら、親切な彼女たちの態度はまるっきり違っていたことだろう。……人によっては「おとうさんでもいいよ。パパを紹介して」と言い出す不届き者もいるから油断できない。
私の、というか誰かの父を「パパ」にするのは……いや「パパ」と呼ぶのはダメだろう。あらゆる意味で。家庭を壊しかねない。
「そのうち遊びにおいでよ。ほとんど魔女しかいないから、魔法が溢れてて面白いよ」
「えー? でも男が全然いないんでしょ?」
「いない。想像以上にいない」
世界的な男女比率は、約3対7である。男3、女7だ。
単純に言えば、女10人の内、3人は男という計算になる。
にも関わらず、九王院学園周辺は、十代二十代三十代の男が非常に少ない。
魔女育成で有名な学校だけに、学校に少ないのはわかる。
でもここは町全体で少ないのだ。
まるで呪われた地のごとく男率が少ないのだ。
少なすぎてどうしようかと思った。
泣くかと思った。
ちょっと枕を濡らした夜もあった。
やはり女子高生となったからには、恋の一つもしてみたいし、彼氏だって欲しいではないか。
「そっちはどう? 共学だし、男友達とかできた?」
「んー…………できた」
できたのかよ!
「どんな男友達ができたの!? どんないかがわしい手段で作ったの!?」
「いかがわしい手段なんて使ってないよ!」
「教えろよ! 友達だろ!」
「使ってないから教えようがないよ! …………まあ強いて言うなら、私の魅力?」
チィッッッッ!!
「……理乃、あんた今マジで舌打ちしたね」
そりゃ舌打ちもしたくなるだろう。ぬるい冗談かましやがって。本気で言ってたら殴られても文句言えないところだ。
親友から、いかがわしい手段で作ったかもしれない男友達のことを、根掘り葉掘りさぐりまくっていると。
「――ん?」
ふと、外から、言葉としては認識できないような小さな声が聞こえた。
声、というよりは、悲鳴のような感じだったが……
「どうしたの?」
受話器の向こうには聞こえなかったようだ。
「今叫び声が聞こえた気がして」
「さ、さけび? 何それ?」
「さあ?」
「ただごとじゃないじゃん。なんでそんな冷静なの?」
「この辺、魔女しかいないから」
普通なら、男から女を襲って――みたいな嬉し恥ずかし……いやいや蛮行に対する心配を多少はしてもいいのかもしれないが、ここは九王町である。
女が男を襲う可能性はあろうと、男が女を襲う可能性などない。
魔女が悲鳴を上げたと言うのなら、きっと魔女同士のケンカとか、何かしらの実験に失敗して老婆とかカエルに変貌してしまったとか、大好きな男性アイドルの写真集に飲み物こぼしたとか、壁に貼っているポスターにキスしすぎていよいよやぶけたとか、アイドルの恋愛報道でガチの悔し涙を流してうおーん泣きとか、その辺だろう。
ちなみにこれらは、入寮一ヶ月で、本当にこの九王荘2号で起こったことである。
最初の内は気にもしたし、様子を見にも行ったが、もう慣れてしまった。
必要なら私を呼ぶだろうし、本当に事件なら管理人さんが通達してくれるはずだし。
だから今更気にするほどのものではない。
「それより今は男の話をしようよ」
「……理乃はぶれないね」
この時代、魔女じゃなくても、必死にならないと恋人はできないことを知っているからね。
和流さんみたいに綺麗だったら、男から選んでくれるかもしれないけど。
でも残念ながら、私は顔もルックスも並よりちょっといい、くらいのものだ。
グラビアアイドルにも匹敵するほどの美人で、ルックスもいいし、胸とか尻とかムチムチで女の目から見てもエロく、話題も豊富で面白くて女子力もかなり高いあの恋愛戦士・恋ヶ崎さんでも、恋人ができた試しがないと言っていたくらいだから。
私はきっと、魔女になってから、更に恋人ができる確率が下がっているだろう。
環境も厳しくなったし。
必死にもなるとも。
なすがままに流されっぱなしじゃ、一生恋人できないって知っているから。
「そっちはどうなの? クラスに新しい男子が来たって言ってたけど」
「競争率が高すぎるんだよ」
そして競争率が高いばかりか、誰もが抜け駆けを許さないという、堅牢なるボディガード付きである。
下手に近づこうものなら、先日の裏切り者・猪狩切のように、狙っている男に「便秘だいじょうぶ? 水分と食物繊維を取るといいぞ」などと、魔女の罠にはめられて屈辱的なことを言われてしまう末路をたどることになる。あれは泣きながら教室飛び出したくもなるだろう。
「だいたい――あ?」
「あ?」
またしても声が聞こえた。
闇夜を切り裂くような悲痛な、それでいて胸に吹き込む柑橘系の香り漂う甘酸っぱい一陣の風のような叫び声だった。
そんなに大きくない胸に触れる。
このときめきは、まさか、まさか――
「お、男の叫び……?」
いや早まるな私。
外から聞こえた以上、クリアな音ではない。
ちょっと低い声の女が夜の寂しさに負けてケダモノのように泣いているだけかもしれないし、ちょっと男の喘ぎ声が派手な裸が多めのアクション系DVDを音声過多で観ているだけかもしれない。
落ち着け、落ち着け橘理乃……落ち着いて状況を探れ……
「理乃? 男の叫びって」
「シッ。静かに」
神経を尖らせ、探る。
聴覚を研ぎ澄まし、探る。
そして私の耳は、その声を拾った。
「――待て! おい、そっち行った!」
「――くそっ! 今度こそ逃がさねえぞ!」
「――このヘンタイ女! 俺のトランクス頭にかぶるな!!」
…………
し、下着泥棒!?




