63.魔女の穏やかな日々 五 後編
「――どうしました?」
乱刃さんの、リア充クズのゲス女の「名前で呼びたいの? 呼べばいいじゃん?」というハラワタ煮えくり返るような優越感という翼で軽くなった主張に、翼など持たない非リアな私を含めたクラスメイトたちが尻込みしていると。
何やら用事があって一緒に出ていた委員長・花雅里さんと、問題の人である貴椿くんが、教室に戻ってきた。
二人は不思議そうに、クラスを見回していた。
高すぎるハードルを指定され、翼を持たないので飛ぶこともできず立ち尽くしている私たち。
事情を知らない花雅里さんや貴椿くんは、どこか異常な雰囲気を感じたのだろう。
誰も動けなかった。
高いハードルを前に、誰も動けなかった。
――いや、一人だけ、動いた。
「ちとせー」
「「なっ……!?」」
見上げるばかりだった高すぎるハードルを、超えやがった!
全員が振り返る先に居たのは――猪狩切さんだった! さっきまで泣いていた猪狩切さんだった!
猪狩切さんは、クラスで一番小さいという誰にも真似できない女子力を発揮して、まるで年下の小学生のようにとてとて貴椿くんへと駆けてゆく。――なんだその媚びた小走りは! おまえさっき獣じみた可愛げない走り方で教室飛び出しただろうが!
「お? ……なんで名前で呼ぶんだ?」
「えーこだよ」
「え?」
「あたし、えーこ」
「……あ、うん」
「よんで。ちとせ。えーこって」
「あ、……え?」
貴椿くんは戸惑っていた。
さすがにいきなり過ぎたからだろう。
……いや、戸惑っているのは私たちも、だろうか。
もし戸惑ってなければ、全力で、その打ち立てようとしているフラグをへし折っていただろうから。
「あ、星雲さん」
花雅里さんが、ふと後ろを見た。
貴椿くんも、釣られるように背後を見た。
――そして状況は動いた。
「おぐふっっ!?」
裏切り者・猪狩切を抹殺したのは、一緒に泣いた兎さんだった。
一緒に泣いただけに、どうしても奴を、優しさと仲間意識を余裕で踏みにじったあいつを、許すことができなかったのだろう。
女子同士、同い年同士である。
そして媚びた小走りを冷めた目で見ていた女子でもある。
何を遠慮することもない駆けつけざまの一撃を脇腹に食らわせると、兎さんは裏切り者とともに『瞬間移動』で教室から消え失せた。
「すみません、人違いだったようです」
「ああ、そう。……あれ? 猪狩切は?」
事は、貴椿くんが目を離した数秒で始まり、終わっていた。
「猪狩切さんはトイレです。きっと大きい方でしょう。最近ひどい便秘気味だと言っていましたから」
「お、おう……大変だな」
か、花雅里さんすげえ……あれが彼女の女子力か……!
正直……かなりえぐい!
「おい。今兎はとても良い動きをしたな」
…………
乱刃さんも、すごいな。
もう男女の機微を話すことさえ、無駄な努力に思えてきたよ……
こうして、乱刃さんの貴椿くんの名前呼び事件は、裏切り者がおっ立てようとした下品なフラグをへし折ったところで、うやむやのまま終わることになる。
後に話し合った結果、「乱刃さんならいいんじゃない?」という結論に至った。
いつまでも貴椿くんに自己紹介させるのも面倒だろうから。
それと、圧倒的に低い女子力であることを全員が知っているから他意はないのだろう、ということで。
「千歳くん、か」
口に出してみると、妙にこっ恥ずかしい。
これが男の名前を呼ぶ感覚か……
そして、私の小さなときめきが聞こえてしまったのだろう花雅里さんの視線が、めちゃくちゃ痛い。
「は? 今の何? 死にたいって意思表明なの?」と問いたげな、感情の見えない無表情でじっと私を見詰めている。
彼女の殺しのリストに載る前に「ちょっと呼んでみただけ」とフォローを入れておく。
でも、いつか、私も貴椿くんをそう呼んでみたいものである。




