45.魔女の穏やかな日々 四
「――委員長」
そろそろ聞き慣れては来たものの、それでも今だに、急に聞こえるとドキッとする。
違和感だ。
それも心臓に悪い類の、ときめきとはまったく違う……先日邪眼を見た時のような、嫌な胸の高鳴りだ。
昼休みの終わり頃、トイレに行こうと、私と委員長・花雅里さんが教室を出たところで、背後から追いかけるようにやってきたその声は。
遅れてきた男子・貴椿くんのものだ。
本年度、九王院学園高等部に入学した男子は10名。
その内の三人が新学期一週間足らずで、男子に飢えた魔女が周囲にいるという環境に耐えられず転校。毎年繰り返される負の連鎖は、今年も年功行事のように起こってしまった。
過剰なる接触と牽制。
過剰なる誘惑とポロリ。
過剰なるセクハラときわどいおさわり。
そして過剰なる毎日のパンツの柄チェック……純白のブリーフを見て魔女数名が感動のあまり発狂したことは記憶に新しい。
男子という稀少性高き生き物を前に、知的好奇心が抑えられず溢れてしまった魔女たちの容赦ない欲望が、男子の精神を蝕んだ結果である。
嘆き、悲しみ、その果てに……
生き残った男子への気遣いと保護欲は、クラスごとに尋常ではない。
他クラスの魔女を牽制し、同じクラスの魔女も牽制し、あわよくばなんかこうすごいイベントが自分だけに起こってヒロインになれば――という想いでいる者も少なくはないだろう。
――まさかこれから目の前でそんなラブラブイベントが起こるとは。
今現在おしっこをしたい私も、本日のヒロインとなる花雅里さんも、まったく予想していなかった。
「なんですか?」
振り返った先に、やはり貴椿くんがいた。
貴椿千歳。
田舎暮らしと言われれば納得できてしまう、素朴な顔立ち。邪気を感じさせない眼差しに誠実さが見える。
中肉中背で身体は大きくないが、これで運動神経はかなりいいし、抗魔法も強力だ。なんでも魔女の祖母が、聞いた話をそのまま信じるなら、命に関わるレベルで鍛えた結果らしい。
魔女の敵の乱刃さん関係で色々あって、今彼は九王院学園高等部で人気急上昇中だったりする。
決闘に割り込んででもクラスメイトを助けたり、料理ができたり、カレーが作れたり、軽いお触りやセクハラならちょっと嫌な顔で流す隙が……いや心の広さがあったりと、隠れていた男子力が露呈してきたことが原因である。
新学期が始まって、毎年恒例の数名の男子が学校を去るという悲しい現実の直後にやってきた、遅れてきた男子。
そんな噂が広まってきている1年4組は、他クラスの魔女の牽制と威嚇に大変だったりする。
我がクラスもう一人の男子・北乃宮くんは新学期が始まって自己紹介の段階で「魔女は血族に入れない」と宣言した時点から、男子として見ている者は少ない。
好きになっても想いは叶わないし、何より北乃宮くんに迷惑をかけるからだ。
勘違いしないでほしいのは、魔女たちは迷惑をかけたくてかけているわけではないのだ。
ただ今まで抑制されていた欲望が、好意という呼び水を得て表に出ちゃうだけなのだ。粘着質なやつが。どろりと。でろりと。
トカゲ襲撃事件から二日後のことである。
今日は金曜日で、明日土曜日曜は学校が休みだ。
一連の事件が片付いてしまったので、新たなる貴椿くんと一緒にいる理由を探さねばならないなーとクラスで話しあってはいるのだが、なかなかその理由が見つからない。
一人で行動させて他クラスの魔女にちょっかい出されるのは非常によろしくない。
ただでさえ風紀委員の先輩とちょっと距離が詰まってきてるかなーという微妙な時期なのだ。用心に越したことはない。
男子が少ないこの時代、恋愛は戦争である。取られてからでは遅いのだ。
裏では忙しいそんな最中、それを知らない貴椿くんが、呑気に花雅里さんに言った。
「今日の放課後、空いてるか?」
なっ……なんだそれ?
耳を疑ったものの、疑うまでもないだろう。
貴椿くんが教室から出るかもしれないからと、ボディガード(むしよけ)のために随行しようと近くにいた恋ヶ崎さんも驚いたような顔をしていたから。たぶん今私も同じ顔をしているだろう。
なんだそのセリフは、と。
まるで「放課後は俺のために空けておいてくれ。らびゅっ」と、放課後デートに誘わんとするかのような、これぞ青春のときめきと言うべき発言ではないか。
こんなの小説か漫画でしか見たことない憧れのシチュエーションじゃないか!
「空いてますが、何か?」
花雅里さんは何とも思っていないのか、いつも通り淀みなく対応する。花雅里さんはポーカーフェイスだから、どういうつもりで対応しているのかわからない。
「今日、乱刃が挨拶に行くってさ。これで事件は終わりだ。だから約束を果たしたい」
「約束……あ」
花雅里さんが、珍しくポーカーフェイスを崩した。
わずかに目を見開き、胸の前できゅっと拳を握る。
まるで乙女のように! まるで乙女のように!
「――クレープ食いに行こう」
ドン!
穏やかな声なのに、それはまるで大砲のような威力を持つ言葉だった。
ちびりそうになった。
マジでちびりそうになった。
ちょっとちびったかもしれない……いや大丈夫。パンツは濡れてない。
いやパンツなんかどうでもいいだろう! パンツなんか今どうでもいいだろう! 漏らしていようが漏らしていまいがパンツなんてどうでもいい! 漏れたきゃ漏れろ!
なんだこの恋愛小説か少女漫画みたいな展開!? 実際にあるんだ!? 都市伝説とかじゃなかったんだ!? 作者の妄想じゃなかったんだ!? 今日もどこか遠いところでリアルに起こっているアレなんだ!?
「……あ、あの……」
なんだこの委員長は! なに乙女みたいな顔してんだ! いつもそのままストレートに眉一つ動かさず人を罵倒しそうな冷徹な顔してるくせに!
「都合悪いか?」
「……まだ、心の準備が……」
俯く花雅里さん。――どうした花雅里さん!? そんなはっきりしない花雅里さん見たことないぞ!
いろんな意味で錯乱しているのだろう私の視界の端で――悪魔が笑った。
「しょうがないなぁ委員長は!」
割り込んできたのは、恋愛戦士・恋ヶ崎咲夜である!
恋愛雑誌を読みあさり、読者 (男子)アンケートを端から端までチェックしてその心理状態まで細かく推測し、流行のものからマイナーなものまで幅広く恋愛小説を読みあさり、小学生向けの少女漫画も対象内に読みあさった末に実戦経験は皆無なのに知識だけは歴戦の恋愛戦士に勝るとも劣らない奴が来た!
恋愛戦士は何を思ったのか、俯く花雅里さんと肩を組んだ。
「二人だと心細いんでしょ? 一緒に行ってあげるね!」
な、なんだと……!?
これには私は当然として、当事者たる花雅里さんも本当に驚いていた。「何この生物? 本当に生物なの? まるでアレみたいなのに」と生物かどうか疑わしい存在を発見したかのように。
こ、これが、恋愛戦士のみが使えるという、悪魔的発想というやつか……!
己の株は下げず、むしろ友達の心配をするふりで心象をプラスに働くようにし、友達が泥棒猫よろしく知らないどこかでおっ立てた下品なフラグをへし折り、かつ男子と一緒にクレープを食べに行けるという禁断の一手!
――乗るしかない! このビッグウェーブに!!
「大丈夫だよ委員長! 私も一緒に行ってあげるからね!」
――この直後、私と恋ヶ崎さんは、わりと本気で花雅里さんに肘を入れられたが。
それくらいは、フラグをへし折ることに成功した上に、男子と一緒にクレープ食べに行ける代償だと思えば、安すぎてあくびが出る程度のものだった。
まあ、物理的な圧力のせいで、本気で漏らしそうになったが。ヤバかった……




