41.貴椿千歳、今後の予定を考える
報告を終え、風紀委員室から出る。
気分的にはすっきりしているが、頭の上は生憎、一面の曇り空だ。
この湿度の高さは、夕方から夜辺りには降り出しそうだ。
雲に覆われているので、今日は空を割る『虚吼の巨人』が見えない。見えたところで不吉な予感しかしないのに、見えないなら見えないでまた気になるのはなぜだろう。
ま、見えようが見えまいが、意味がわからないのは同じことだが。
「この世は皮肉でできている、か。なかなか言い得て妙だ」
俺と同じように空を見上げていた乱刃が、一番先に落ちてくる雨粒のように、ポツリと呟いた。
「この『魔女の世界』は、私にとっては皮肉だらけだ。長年積み上げ研鑽し苦労の末に体得してきた体術を、簡単な魔法一つで覆されるのだから。不公平にも程がある。――おまえはどうだ?」
俺も乱刃には、世間話として己の境遇を話している。
高校まで田舎に引っ込んでいたこと、同年代の男女がたくさんいる生活を送ってこなかったことなど、意外と共通点が多いのだ。
「皮肉……というよりは、普通に女子が怖くなった」
俺にとっては、それが何より一番強く印象に残っている。
「軟弱者め」
「そうだな。軟弱な俺は、今日は軟弱に女子供が喜ぶケーキでも食べるかな」
「……そういうのはずるいぞ。おまえはずるい男だ」
何がずるい。自分の金で普通に自分の食い物買うってだけの話のどこにずるいことがある。
「俺の名前は? 言えたらおまえにも買ってやる」
「――フン」
お、乱刃が生意気にも余裕の表情を……ま、まさか……ついに憶えたのか!?
「卑劣なおまえのことだ。いずれまた私を辱めて屈辱を与えようとするだろうと考えて、こういうものを用意しておいたのだ」
誰が卑劣だ。隣人の名前憶えるって結構普通のことだろ。
いや、今はそんな些細なことはいい。
問題は、乱刃が俺の名前を憶えたかどうか。今はそれだけだ。
わざわざカンニングペーパーまで用意するとは、恐れ入るではないか。……そこまで憶えづらい名前とも思えないんだが。
でもその努力の姿勢は立派だ!
「えー、た、たか……ば、ばき?」
「カンペも読めないのかよ!」
もうびっくりするわ! そんなに耳に馴染まないもんかね! 俺こいつにはたぶん100回くらいは自己紹介してると思うんだけどな! この一ヶ月だけで!
「――ああ、もう面倒だ」
乱刃は自ら用意し無駄になったカンペを握り潰すと、違う方法で弱点を克服してみせた。
「千歳。こっちならいくらでも言えるぞ」
……そっちを選ぶのかよ。
確かに皮肉なもんだ。こんなにも簡単な解決法があるとはな。今まで繰り返してきた俺の努力はなんだったんだ。
「……もうそれでいいや」
心が折れちまった。
さすがにカンペ使って言えないんじゃ、もう無理だろ。
「で、これからどうする? ケーキを買いに行くのか? 私はいちごのショートケーキかチーズケーキのどちらかで悩んでいるが二つともという皆が幸せになれる選択もあるのではないかと思うのだが千歳はどう思う?」
言い方がめんどくせーって思ってますけど。
「約束通りケーキは買ってやるけど、その前に片付けないといけないことがあるだろ」
「そんなものはない。この世にケーキより優先されることなど存在しない」
いや存在するだろ。ケーキ優先で考えるのやめなさい。
「――北霧麒麟」
この名前を出すと、乱刃の目が真剣味を帯びる。
「挨拶に行ってこいよ。兄弟子が待ってるんだろ」
今回の一件、発端はそこだ。
乱刃はまずそれを、何よりも最優先でやっておかないといけないだろう。じゃないとまたなんか来るぞ。
「つーかなんで今まで行かなかったんだ?」
昨日の夜、雨傘先輩も同じ質問をしていた。
その時、乱刃は「事情があるから」みたいな返答をしていたはずだ。
「……そのつもりではあったのだが、止まれぬ事情というものがあってな」
止まれぬ事情?
乱刃は眉間にしわを寄せ、固く目を閉じた。
激痛に耐えているかのような苦々しい表情だ。
「――兄弟子たちの所在を書いたメモを無くしてしまったのだ」
完全におまえのミスじゃねえか!
「え、何? じゃあ兄弟子がどこにいるのかわからなかったから? わからなかったから挨拶行かなかったの?」
「行かなかったのではない。行けなかったのだ」
完全におまえのミスのせいでな!
「他にも方法あっただろ。北霧ってのは悪い意味で蒼桜花学園では有名らしいぞ」
「おい待て。私がなんの努力もしないままいたと思うのか?」
…………努力はするけど、間違った方向の努力をしていた気がする。こいつはそういう感じの奴だ。
「それは一番最初だったのだ」
は? 一番最初?
「その辺の女に麒麟のことを訪ねた。知ってどうすると言われた。倒すと答えた。笑われた。何がおかしいと訊いたらおまえにできるわけがないと言われた。
だから私は、試してみるかと言った。――それが一番最初だ」
あ……
「もしかして、それでおまえはケンカばっかしてたのか!?」
六回にも及ぶ風紀委員の注意、七回目で厳重注意の下に契約を交わされ、なんだかんだあって今俺と一緒にいる。
すべての元凶は、そこにあったのか。
「それ以降、誰に何を聞いても要領を得なくなった。その代わりに喧嘩を売ってくる者が増えた。どうしたものかと考えていたら、拳を禁止された。そして今ここにいるわけだ。
なかなか皮肉だろう? 私は挨拶に行くつもりだったのに、結局挨拶に行けなかったのだ」
メモをなくした乱刃が一番アレな気はするが……しかしまあ、ミスは誰にでもあるからな。
それに今なら、乱刃が一方的に誰かに絡んで殴るようなやつじゃないことを知っている。乱刃の質問に答えた魔女の対応も悪かったのだろう。
一つ一つは小さなボタンの掛け違いで、気がつけばその場で簡単に直すことができたはずだ。
なのに、色々な皮肉が重なった結果、こんな大事になってしまった。
たくさんの人を巻き込んでな。
「拳の禁止は今日までだ。だから明日、麒麟に会いに行ってくる」
そうか……まあ聞くまでもなかったか。乱刃はそのために九王院に来たのだから。
俺も一応確認しておきたかっただけだし、これで乱刃が挨拶してくれば、本当にこの件は決着がついたと思っていいだろう。
――この世は皮肉でできている。
七重先輩がどんな軽い気持ちで口走ったのかはわからないが。
その言葉が持つ想定外の言葉の重みを、乱刃はこれから、予想外の形で実感することになる。
「千歳、おまえはこれからどうする?」
「どうするかな。まず北乃宮のクラブ見学に行って、クラスメイトの歓迎会に顔出して、……あ、まず委員長とクレープデートをしとかないと」
「クレープだと!?」
「おまえは今日はケーキだろ」
「じゃあ明日はバナナクレープだな!?」
「明日は兄弟子に挨拶に行くんだろ」
「おまえは何を言っている? 挨拶よりクレープの方が大事だろう!」
「大事じゃねえよ! おまえが行かないとまた大事件起こるぞ!」
五月上旬。曇り。
転入して約一ヶ月。
女子がすっかりトラウマになり、戸惑うこともまだまだ多い。
それでも、この魔女の世界で、今日も俺はなんとか生きている。




