35.貴椿千歳、そして
そして
そして――闇に意識を呑まれた世界は、再び色を取り戻す。
ふいに途切れた五感が、塞き止められていた情報を脳に流し込む。
埃っぽい臭い、灰色の世界、触れる空気は先程より冷たく、わずかに虫の羽音が聞こえ、そして――
「お疲れー」
「「うーい」」
俺の背中に触れていたそいつは、堂々と俺の横を過ぎていった。
目を凝らすと、灰色……いや、薄暗い室内に、黒い影が二人いて……俺の横を過ぎた奴で、三人いた。
――だんだん意識がはっきりしてきた。
俺は……誘拐されたんだ。
直前に見た、降ってくるトカゲの、妙に赤い口の中を憶えている。あれはきっと『瞬間移動』の魔法陣の発光だ。口の中に仕込んでいたのだろう。
その魔法陣を、虫取り網のように上から被せられ、強引に魔法陣に通されて飛ばされた……と言ったところか。食われたにしては怪我らしい怪我もないし、別の場所にいるのは事実だし。あのトカゲは歯がないし。
ここはどこかの倉庫だろうか? それとも廃工場ってやつか?
がらんとした空間を、薄暗い照明が薄ぼんやり照らし、コンクリートの灰色が目立ち、壁際に二階通路があったり窓もあったりするようだが……夜空を見上げるだけでは九王町かどうかさえわからない。
足元を見ると、案の定、赤く発光する六芒星の魔法陣の上である。
魔法陣を使った『瞬間移動』は、中距離から長距離と相場が決まっている。術者たる魔女の腕にも寄るが、魔法陣と魔法陣を繋いで簡易的に空間を結ぶことで、『瞬間移動』の行き来が簡単になるのだ。
つまり計画的ってことだ。全て。
やはり乱刃が狙いではなく、俺が狙いだったのか。だから俺を確保した瞬間、他の魔女も引き上げてきたのだろう。
俺狙いか。
まあ、そうかもしれないな。
俺は彼女らを知っているし、声を聞いて思い出したし。
「「かんぱーい」」
飲み始めたし。なんか飲み始めたし。
最初から打ち上げの用意もしてたのかよ。そこまで計画的かよ。
――ちなみに彼女らが飲んでいるのは「魔女水」と呼ばれるものの一種で、アルコールは入っていない。代わりに特殊な魔法薬で吹き込まれた魔力で酔っぱらうという、合法的に認められている全年齢対象の酒のようなものである。
酒じゃないので身体に残らず、抗魔法で完璧に酔いが覚めるほか、専用の薬を飲むことでも解除できるという、今世紀の錬金術師最高の発明とまで言われている。もちろん二日酔いもしない。
俺も飲んだことはあるが……いや、今はいいだろう。それは。
「……やっぱ無理か」
伸ばした手は見えない壁にぶつかり、これ以上前に出すことはできない。
さらってきた俺を放り出して飲み始める辺り、やはりこの直径1メートルほどの赤い魔法陣は、結界になっているようだ。
さしずめ、見えない檻の中、といったところか。
抗魔法が使えれば、一発で出られそうなもんだが。学校で壊した魔法壁より脆そうだし。
……ま、それは最終手段だな。
大人しく誘拐されてやったんだ。予定通り目的くらいは聞き出そう。
「おい、おまえら」
声を掛けると、魔女は三人ともこちらへやってきた。
「久しぶり――おっと。これじゃわからないか」
わかっているものの、ここは大人しくしておこう。……実際わかってるだけで、個人的なことは何も知らないしな。
彼女らは、羽織っていた黒いマントのようなものの留め具をはずす。するとそれは折り紙程度の黒い紙に変わった。
これは『レインコート』の魔道具だ。名前の通り、本来は雨をしのぐための合羽である。折りたたんでポケットに収納できるので、夜に紛れるように黒い色を選んで着ていたのだろう。
そして現れた顔を――俺は知っていた。
「会いたかった……すごくいじめたかった……」
……俺は会いたくなかったよ。
この三人は、俺が九王町にやってきた初日に絡んできた、あの魔女三人だ。
立ち位置まで決まっているのか、覚えのある並びである。
左から、女子1、女子2、女子3で、俺は特に右――女子3のヘンタ……変な女子の変人っぷりをよく憶えている。
俺に都会の洗礼を、変な人が多いってことを教えてくれたこの女子3を、よーく憶えている。
あの時は派手な感じの私服だったが、今日の彼女らは揃って青い服……清潔さを感じさせる制服を着ていた。
この制服、確か――
「蒼桜花学園……?」
「うん」
女子2……真ん中のリーダーっぽい、あの時は親切に道を教えてくれたりした女子が、平然と頷いた。ちなみにさっき俺の背後を取ったのも、この魔女だ。
「青い桜が咲く学校。九王院学園からだとちょっと遠いかな」
それでも、まだ近隣の事情に疎い俺でさえ、この制服は何度か見たことがある。放課後、九王駅付近に行けば必ず見かけるくらいだから。
中等部と高等部が一緒になっている、九王院と同じ魔女育成学校だ。確か共学だったかな? 青い学ランを見たことがあるような気がするし。
「バラしちゃっていいのか?」
俺としては、最後まで身元を隠したまま進行するんだと思ったが。ここまで堂々と制服姿で現れるとは思わなかった。
「別に? さすがに警察沙汰はごめんだからね。あんたは一時間くらいしたら無傷で開放する」
……うん、まあ、さすがに殺すほどどうこうってのは考えてなかったが。しかし一時間で開放するってのも呆気ないというか……
「ええっ!? 帰すの!? 夜を徹していじめるとかそういうアレじゃなかったの!?」
おい。女子3がすげー驚いてるぞ。俺の望まない方向で。
「しかも無傷って何!? ムチの痕くらいいいでしょ!? むしろムチってご褒美でしょ!? 傷じゃないでしょ!?」
傷だろそれは! ムチの痕は傷ですよ!
「最初から言ってたじゃん。ヘンタイ」
「そうだよヘンタイ。子供の頃の夢は健全にして堅実な衛生歯科医だったのに、どうしてこうなった」
「子供の頃のことを言うなよ!」
「だから怒るのそこじゃないだろ! ヘンタイ呼ばわりに怒れよ!」
……チームワークがいいんだか悪いんだか。
「話ができない。そっち連れてって」と、リーダーは女子1と女子3を遠ざけた。
統率は取れてるのか……? いまいちよくわからんな。
「で……俺をいじめるために誘拐を?」
「誘拐とは人聞きが悪い。ちょっと顔を貸してもらっただけ」
……なるほど。本当に警察沙汰は嫌なんだな。
女子3は違うと思うが、この女子2は衝動的にやらかすようなタイプではなさそうだ。理詰めで動くというか、冷静沈着というか。女子3はやらかすタイプだと思うが。
「何のために? 俺に何かするとか、させるとかじゃなくて?」
「その辺がちょっとややこしいんだ」
と、魔女はその場に腰を下ろし――魔法で作ったのだろう見えない空気椅子に座って足を組んだ。
無詠唱魔法。それも魔法の流動を感じさせない。
……この人、魔女としては相当レベルが高いようだ。
「私たちの目的は、あんたじゃない」
……え、じゃあ、
「乱刃? 一緒にいた女の子?」
「そう」
じゃあこの有様はなんだよ。
「さらう相手間違ってるぞ」
「それはあのヘンタイの強い意向で」
……どういうこと?
「ダメだろそれ」
乱刃が狙いなのに、乱刃の代わりに俺をさらってどうするよ。
本末転倒というか、目的が果たせてないというか。目的のための手段が間違っているというか。とにかくダメだろ。
「いや、そうでもない。あんたに来てもらうことも、乱刃戒に来てもらうことも、結果だけ考えたらそう間違ってないんだ」
…………? よくわからないが……
「わかんない? ――彼氏に教えてあげたら?」
と、魔女は上を見た。
「――男一人守れない。それで私の顔に泥を塗りたかった、か? 生憎だが」
それこそ聞き覚えのある声に、俺は上を見上げた。
中二階の手すりに掴まり、ぶら下がっている小さな人影は。
手すりから手を放し、空中に身を躍らせ、静かに音もなく床に着地した。
「その男は、私が守らなければならないほど弱くないぞ。大方わざと捕まったというところだ」
ようやく言葉の意味を理解した。
魔女は、乱刃が追いかけてくることを想定していたのだろう。
だからさらう相手はどっちでもよかったのだ。




