145.閑話 老人たちの楽しみ 中編
どうしてこんなことに。
紫灯亜は、平然とした顔のまま、だらだら汗を掻いていた。
もう汗が止まらない。
喉の渇きも止まらない。
「落ち着いてください。そんなに緊張していては汗が止まらないでしょう。化粧が流れてしますよ?」
と、そっとハンカチで顔を拭いてくれるのは、眼帯の少女――桜好子蒼の連れてきた使い魔である。
「いえ、お構いなく」
――正直な話、この使い魔も心労の種の一つであるからして。
桜好子蒼の使い魔は、有名だ。人間らしいモラルより常識より、己の希望と野望を最優先する……それこそ桜好子蒼と似たような言動原理を持つ。
使い魔は飼い主に似るというが、ここまで似なくてもいいだろうに。
厄介なのは、相手が誰であれ構わない点だ。そして主なら我慢するところでも、彼女は我慢しない。気に入らなかったら九王院カリナ相手でも容赦なく食ってかかる。実際そういう事件を何度か起こしているので油断はできない。要注意人物だ。
今、紫灯亜の前には、特設したソファにふんぞり返る老人たちの背がある。
余計なことをした空御門真宵が、本当に上から……恐らくどこぞの国会議員辺りまで辿り、VIP同士の同席を認める許可を取ってきてしまった。
条件は二つ。
一つはこの光景の撮影許可と、もう一つは現場責任者を立ち会わせること。
撮影は、限られた者のみ老人たちの立会の下に視聴することと、視聴後は破棄することで承諾され。
現場責任者――つまりこのフロアを任された紫灯亜が一緒にいることが、この同席の条件になってしまった。
老人たちの後ろに桜好子蒼の使い魔と並んで立ち、彼女らが満足するまでこのまま待機となる。
「フン。儂の孫はおまえのところのボンクラより優秀じゃからのう」
「はっはっはっ。冗談が下手になったな、蒼。ボケが始まっとるのではないか? ああ、幼児退行と言うべきかの? ん?」
「今日は口数が多いのう。何を動揺しておる? 四神護封が一角の跡取りが、ただの魔女の孫に負けるのがそんなに怖いのか?」
「負けんわ! なんじゃ貴様!」
「あーうるさい爺じゃ。なあ?」
「蒼もうるさい」
「同感ね。孫自慢はもういいから黙って待ってなさいよ。ほら、チョコレートあげるから」
「儂は子供か! ……待て、あのブランドの新作か?」
「そう。なかなかいいわよ」
「ほう……ぜひ神久夜さんのために妾もお取り寄せしておきましょう。北もいかがです? 嫁や孫が喜びますよ」
「む……頼んでおいてくれ」
チクチクと、あるいはグサグサと言葉のナイフを刺し合って遊んでいる老人たちを目の前に、やはり紫灯亜は心をすり減らしながら、ただただ祈っていた。
――問題だけは起こってくれるな、と。
――口喧嘩までで済ませてくれ、と。
「確かに悪くないのう。しかし空見、気をつけろよ」
「何か?」
「こういうものばかり食べておると、九王のように太るぞ」
「あ?」
「然り。気をつけましょう」
「はあ?」
――本当に、口喧嘩だけで済ませてくれ、と。
ストレスが胃をキリキリ締め上げる中、ようやく試験が始まった。
証明を一つ落とし、薄暗くなった目の前にホログラムのような巨大モニターが幾つも浮かび上がる。
これらは見物人たちの意思と視線を受けて移動・拡大をし、多くの意志が見たいと思った場面は大きく、あるいはモニター自体がズームしてきたりと、変幻自在の性能を誇る。
さすがは専門の魔女が開発した魔法、かなり優秀だ。
思考や視線を読み取るのもすごいが、特にすごいのはリアルタイムのものを即時に表示できる点だ。下らないことから多くの人命に関わることまで、使用用途を考えればキリがない。
――そして、始まってすぐである。
試験が始まっても何やらブツブツ言い合っている年寄りたちを黙らせるような、大きな動きがあった。
「お?」
「ほう」
「ふむ」
「これはなかなか……」
モニターに写っている廃墟の町の、それなりに目立つ巨大ビルが一つ、大きく傾き始めた。
重なり合っていたモニターが素早く反応し、その場面にあるカメラの映像を大きく映し出す。
階下からゆっくりと崩壊していくビルの傍に、三つの人影があった。
二人組と、一人。
互いに向き合い、友好関係にないことを証明している。
「おい。あれが私の孫だ。隣は今の封魔の壱よ」
紫灯亜も当然見覚えがある。
二人組の方は、北乃宮匠と風間一。どちらも総合騎士道部の部員だ。
(封魔……か)
聞いたことがある。
北乃宮を始めとした古い陰陽師の家系には、その家を守護する専門の忍の一族がいた。
封魔は、北乃宮家に仕える忍の総称。
壱は名前ではなく、次期当主の同年代の中で、一族で一番の腕を誇る者を意味する俗称だ。
同じ学校、同じクラス、同じクラブに所属するともなれば、彼女は北乃宮匠の護衛でもあるのだろう。
――道理で、風間一は他の追随を許さないほどに良い動きをしているはずだ、と納得できた。
「相手は久城家の末娘ね」
九王院カリナが言った。
やたら派手なジャンパーを着ている、見るからに不良っぽい蒼桜花の生徒のことだ。
「ほう、久城の末の……確かレベル7が誕生したらしいですね」
「しかしあれは、まだ魔力を使いこなせておらんな。未熟もいいところじゃ」
確かに、と紫灯亜も頷く。
モニター越しに見ても、己の身を超える強大な魔力が、しかし惑うように虚ろうように、瞬くように逗まるように、まるで力で魔力を身体に押し込んでいるような不安定さが伺える。
あれではいずれ暴走するだろう。
あれほどの魔力が暴走すれば、周囲にどれだけの被害が出るのか……
「そう言えば爺、おまえのところの元長女と一緒じゃのう」
「廻か。会ったのか、蒼?」
「応。儂の孫と友誼があるみたいでな。意図せず会うてしもうたわ」
「妾も見かけたことがあります。あれは空恐ろしいものがありますね。力だけなら四魔王級でしょう」
「手に負えないからって九王院に押し付けられても、正直困るのよね……」
「知っているならば話は早い。蒼、なんとかしろ」
「その無礼な物言いは誰に言うとるんじゃ?」
「おまえが欲しがっとった、例の櫻杯と霞焼きの茶碗をくれてやる」
「ほう。ケチなおまえには珍しいな」
「孫娘のためなら惜しむものでもないな。もう北の頭首ではない、余生は勝手にやらせてもらうわ」
「よかろう。面倒を見てやる」
「ついでに久城の末娘もなんとかしてやれ。そもそもおまえのところの生徒じゃろう」
「儂はもう学園からは手を引いておる。援助しかしとらんよ。……しかしまあ、ついでじゃな。久城には縁も生まれたし、少しばかり恩もある。ついでにやっておこう」
「おうはい、って何?」
「少し前に、北乃宮の敷地内にあった桜の木がいよいよ寿命で死んでしまってな。その木を私が削り出して盃を作ったのだが、蒼がえらく気に入ってのう」
「あれは好い。桜樹に神が宿っておるわ」
――などと老人たちはおしゃべりしているが、その視線はモニターに釘付けである。
その油断も気の緩みもない横顔は、誰しもが未だ現役であり、その道のプロであることを物語っていた。
モニターの向こうの三人が、動き出す。




