139.魔女の穏やかな日々 十八
「う~~~、トイレトイレ」
今トイレを求めて全力疾走している私は九王院学園に通うごく一般的な魔女。
強いて違うところをあげるとすれば男子の裸体に並々ならない興味があるってとこかナ――――名前は橘理乃。
そんなわけで、騎士試験会場にあるトイレにやってきたのだ。
「…?」
ふと見ると休憩用の椅子に一人の女子が座っていた。
――ウホッ! いい女…
そう思っていると、
「ハッ!」
突然その女は私の見ている目の前でブレザーの上着を脱ぎ始めたのだ…!
そして一言。
「やらないか」
……みたいな状況を、今リアルに体験しているわけだが。
もちろんというかあたりまえというか、彼女は脱いでいないが。
しかし状況的には、かなり酷似している。
試験が始まって、まだ1時間くらいだろうか。
私たちが宛てがわれた仕事は、怪我をした魔女や騎士志望者の、医務室への搬送である。歩けないくらいひどい怪我なら『浮遊』や『瞬間移動』で運ぶことになる。
今まさに特殊な試験会場にて魔女と騎士が戦っていて、まあ、まだそんなに忙しくはない。
少なくとも周囲の男子を見る時間くらいは、余裕で存在する。
そんな私は、今トイレに向かう途中であった。
普段から考えれば、異常なくらい周りに男子が多いこの状態。
そう、まさにこの状況こそが罪なのだ! 緊張と興奮のあまり、水分を取りすぎてしまうのも無理はないだろう。飲みながらさりげなくチラ見するテクを考案するのも自然の摂理と言って差し支えないはずだ。
屋内の廊下なだけに全力疾走とは言わないまでも、小走りでトイレに向かっている途中だった。
休憩用に設置されているのだろう、自動販売機とベンチが並ぶ休憩スペースに、本当にいる。
本当に、いるのだ。
一目見たその瞬間「ウホッ!」と言ってしまいそうな女子が。
しかも目が合っているのだ。
生まれて一度も陽を浴びたことがないんじゃないかと思わせるようなとんでもなく白い肌。
濃紺色から毛先に向かって青くなっていく長い髪。
精緻を極める顔の造詣に浮かぶ感情が見えない無表情は、本当に生きているのか疑いたくなるほど現実味がなかった。
まるで優しく輝く月を、またたく星々を、そしてそれらを時に隠し時に煙らせ時に映えさせる雲を、そんなもの全てを体現した夜空を思わせる。
和流さんや仁士雅千夜ちゃんとかもめちゃくちゃ綺麗だけど、この子はちょっと次元が違う。
あの二人が「おっ?」と二度見してしまうくらいの美人なら、こっちはさっきの通り「ウホッ!」って感じである。……たとえとしてどうかとも思うが、これが一番わかりやすい表現だと思う。
いや、どっちが美人とかじゃなくて、まとう雰囲気が違いすぎるのかもしれない。綺麗度やら美人度で言うなら、もうなんか個々人の好みで割れそうだし。
まあその美人合戦に私の入る余地は一切ないんだけどね! 神様の不公平さには脱帽だね! 同じ人類として並べていいんですかねって感じだよね! 進化の過程的な構図で私と和流さんと千夜ちゃんとウホッの人を教科書に乗せてみても面白いかもね! ……並べたら絶対泣くけどな! 号泣するけどなっ!
九王院の制服を着ているけど、見たことはない。
かなり小柄でやや童顔だ。あれだけ目立つなら同じ一年であればさすがに知っていると思う。だから上級生だろう。
……おっと、今はそれどころじゃなかったか。
早く仕事に戻る必要もあるし、それより何より早くトイレに行かないと膀胱が爆発してしまう。
だいたいこれだって、トイレに急ぐ途中でいい女を見かけて目が合った、というだけの話ではないか。論点を明確にすればさして珍しい光景でもない。
ここで誘われて、初めてドラマが起こるのだ。
それがなければただの日常よくあるワンシーンに過ぎない――
「……ハッ!?」
私は息を飲んだ。
驚いた拍子に漏らしそうになったくらい驚いた。
な、な、ななな、なん、だと……!?
私は我が目を疑う。
だが、間違いなく、夜空を思わせる彼女は、私に向かって手招きしていた。
う、嘘……だろ……!?
まさか、まさか、本当に誘うつもりなのか……!?
やばいぞ。
別に女体に興味なんてないし女子に恋愛感情を持ち合わせたこともないが、あの子に誘われたら、ちょっと断れる自信がない。
「やらないか」と言われて、断れる自信がない……!
ど、どうする!? この女ちょろいとか思われたらどうするんだ!? もしや私が今流行りのチョロインだなんて、自分で思ってもみなかったんだけど!?
激しい葛藤と迫る尿意に戸惑い、しかし足はふらふらと夜空の少女へと向かってしまう。まるで誘蛾灯に誘われるちっぽけな虫のように……
「――隣、どうぞ」
ですよね。
「やらないか」とか、言いませんよね。
勧められるまま、隣に座る。
近くで見ると更に美しさが際立っている。思わず見とれてしまうものの、それどころじゃないと理性が訴えている。
何やってんだ私。こんなところでのんびりしてる場合じゃないのに。
「少々お耳を拝借します」
「は、はい?」
「補聴器のようなものです。そのままで」
少女が意味不明なことを言うと、私の顔に彼女の発した魔力が触れた。
突然触れられたことに抵抗感はあるが、先に言った「補聴器のようなもの」という発言の意味がわかったのでそのまま受け入れた。
「ちなみにあの人たちです」
彼女の視線の先には、廊下の中程で話し込む赤い制服の女子が三人。
何かしら話しているようだが……あれ? 聞こえる?
耳を澄ませれば、彼女たちの口の動きに併せて、自然な成り行きと言わんばかりに違和感なく声が耳朶を打った。
「――今日何人くらい脱がせるかな?」
「――10人抜きは狙えるでしょ」
ん!? なんの話だ!?
聞こえたことも若干驚いたが、話の内容にも驚いた。
「あの人たちは『脱がし』と言われる騎士狩りです」
「ぬがし? ……あ、さっき聞いたか」
詳しくは知らないが、試験にかこつけて男子の制服を剥ぎ取っていくという肉欲旺盛な魔女のことらしい。
「それも赤蘭学院の西方さんがいます。彼女は特に有名な騎士狩りの魔女です」
はあ……
「あの、それが?」
それを私に話す意図はなんだろう。
私は参加者でもなんでもない、ただの裏方スタッフである。知らされたって注意も警告もできる立場にないのだが。
「西方さんは、貴女のクラスの貴椿君を脱がせる算段を立てていましたが」
「は?」
――ちょっと事情が変わってきた。
「西方ってどいつ? 誰がうちの貴椿くんのパンツ奪おうって言ってたの?」
そんなうやらやま……いやけしからんことをやろうとする奴は誰だ。絶対許さない。超いやがらせしてやる。超至近距離で黒い悪魔Gや毛の生えた巨大蜘蛛とかを映像再現してやる。
色めきだった私をじっと見ていた彼女は、「わかりました」と頷いた。
「たとえ誰がどんな相談をしていようと、犯罪じゃないのであれば、口出しする権利はありません。当然止める権利もありません」
……まあ、確かに。
脱がせちゃいけない、というルールはない……と思うし。
ルールがないのは常識の範囲内だからだと思うけど。
「でも、」
彼女は左手を上げ、軽く宙に振ってみせた。
「私個人としても、彼をどうこうという算段を見逃すのは躊躇われました」
「……え?」
何もなかったはずの左手に、見慣れたカード……そう、試験に望む騎士と魔女が持つ参加証が三枚、そこにあった。
――どうやった?
状況から見て、これはあの三人の参加証だろう。
しかし、どうやって回収した?
当然のように赤蘭学院の彼女らは気づいていないし、傍で見ていた私にも、何がどうしてそうなったのかさっぱりわからなかった。
「脱がせるのを禁止するルールがないと主張するのであれば、試験外で参加者以外が参加証を奪ってはいけないというルールもありませんからね」
魔法……だよな?
それにしては、魔力の動きが全然わからなかったが……
「意見をありがとうございました。おかげで決心がつきました。――これは先生に渡しておいてください」
そして彼女は、呆然としている私の手に参加証を掴ませると、行ってしまった。
なぜ私と貴椿くんが同じクラスだと知っていたのか。面識は一切ないはずだ。
口調からして、彼女も貴椿くんの知り合いのようだったが……
それに何より、参加証を擦りとった魔法も気になる。
あんなにも簡単に奪うなんて……あれはいったい誰なんだ?
僅かな時間に起こった一連の事件。
首を傾げながら考えていた私だが、尿意が限界近くなったのでさっさとトイレに行くことにした。
――彼女が、うちの生徒会長である空御門神久夜だと知るのは、もう少し先の話である。




