137.検定試験終了。そして微妙な明日が来る
「大変名残惜しいのですが、わたくしはここで」
残っていた連中とは戻ってきた九王院学園の校内で解散し。
弱い雨が降る校門前で、九浪もそんなことを言い出した。
「ああ、そうか」
正直、どこまで付いてくるのか不安だったのだが。でも九浪はここで別れるつもりらしい。
まあ別にこいつが寮に泊まりに来ても構やしない。身内だし。
が、こいつが来る以上、確実にうちに飯食いに来る隣人と一悶着あるんだろうなと思うと、非常に面倒だったわけだ。
身体の疲れは癒されたものの、俺の精神的はかなり疲れている。
長い長い一日がようやく終わるというのだ、夜くらいは静かに過ごしたい。
……今後の厄介事を考えると、頭が痛い。
だからもう今日くらいは何も考えずに寝てしまいたいのだ。
やっと大変な一日を乗り切ったのだ、今日くらいはゆっくり休んでもいいだろう。きっと誰も文句は言わないはずだ。
「婆ちゃんが呼んでるのか?」
「そういうわけではありませんが。でも約束はしましたから」
――島を出たら、できるだけ俺と干渉はしない。
確かに、出発間際に婆ちゃんから冗談のように「あまり連絡はしない」と言われたのだが。
でも、あまりにも普段通りの調子で言われたので、俺はあんまり本気にしてなかった。
約束と言えば、あれが約束だったんだろう。
実際これまでは守られてきているわけだし。
「すでに長く一緒に居過ぎました。千歳様に厄介者扱いされるのも嫌ですから」
「別に厄介者扱いなんかしない」
今更だろう。こっちは生まれてからの付き合いだぞ。
「では、今夜は久方ぶりに千歳様の添い寝をさせていただいても?」
「それはちょっと厄介だな」
今日はもう、何があろうと静かに夜を過ごすと決めているからな。もちろん一人でだ!
九浪はくすくす笑い、「冗談ですよ。それでは」と一礼した。
「千歳様のわたくしへの変わらぬ愛を確認できたので、そろそろ失礼しますよ」
「はいはい。夏休みには島に帰るから、その時ゆっくり話そうな」
「ではそのように――おっと忘れるところでした」
九浪はすっと胸元に手を入れ、赤い紐で結わえた高級感溢れる紙入れを出した。
「こういう時はお小遣いを渡すものなのでしょう? どれ、この九浪が千歳様にお小遣いをあげましょう……おや、ドルしかありませんね。ドルでいいですか? 1000ドルで足りますか?」
「いや、いらない。仕送りも足りてるし、ドル貰っても困る」
というか、今日一日で二回も「ドル」と聞くとは思わなかった。
これが国際化の波ってやつか。
……つか子供の小遣い1000ドルは多すぎないか? 10万円くらいだろ?
「では代わりに接吻を」
何をどう考えて1000ドルがキスに化けたのかよくわからないが、キスをねだるように俺の首に両腕を回してくる九浪の顔面を「やめなさい」と押し離す。
九浪は「もう」と拗ねたような顔をして、消えた。
……相変わらず疲れる奴だ。
まあいい。俺も帰るか。
時間は五時を過ぎていて。
もうひとりの疲れる奴が、俺の帰宅を待っていた。
小雨降る空の下、寮の庭先で、Tシャツに短パンで裸足の乱刃は、雨に濡れながら型を繰り返していた。
速くは、ない。
むしろ緩慢とも言えるほどに、一挙手一投足は遅い。
だが、恐ろしいまでに流麗。
拳、足運び、蹴り。
動作に止まる瞬間はあるのに、しかし継ぎ目のない動きを続けている。
なんだろう?
呼吸か?
まさか鼓動や血流さえも、点拳の型の内なのか? こうして改めて見ると、乱刃の拳の熟練度が相当高いことを教えてくれる。
雨の中動く乱刃と同じく、雨の中それを見ていた俺は、一通りの型が終わるまでそのままだった。
「――お帰り」
当然のように俺のことには気づいていた乱刃が、俺に視線を向けた。
いつからやっていたのかはわからないが、乱刃はすでにずぶ濡れである。……まあこいつの場合、型の前に走り込みもしてたんだろうけどな。
「ただいま。おまえびしょびしょだぞ」
「うむ。だがすでに風呂の準備をしてあるからな。問題ない」
風呂か。いいな。
今日は俺も、シャワーじゃなくてゆっくり湯船に浸かるかな。
色々と考えなきゃいけないこともあるし、頭が痛くなるような案件もあるし、これから状況が目に見えて悪くなっていくことは簡単に想像できるのだが。
今日だけは、もう平和に、穏便に、何も考えずに休むと決めた。
「乱刃」
「なんだ」
「今晩、焼肉にするか」
「本当か!? 冗談ならいますぐ冗談と言わないと怒るぞ!? 殴るぞ!?」
「本当だよ。だから今すぐ殴るつもりで構えるな」
今日はもう、俺もガツッと食いたい気分だしな!
野菜なんて二の次で、カルビとかタン塩とかロースとか食いながらかっ込むように米食いたいからな!
……明日からの憂鬱を考えると、肉を食いたい気分にはなれないだろうしな。
「食後にアイスクリームもあるのだろうな!?」
「それは自分で買えよ」
「バニラじゃないとイヤだぞ!?」
「だから自分で買えよ」
こうして、検定試験が終了した。
優秀な騎士たちは明日こそが本番になるようだが、俺は本日のみで終了だ。
明日の本戦の見学も、関係者として一応認められてはいるらしいが、行くかどうかは迷っている。そもそもを言えば、俺は騎士志望ではないからな。今回は事情があったから出ただけだ。
そして、その事情のせいで、これからが大変なのだが。
今日だけは、それは忘れよう。
俺と乱刃と、ついでに今日は管理人さんも含め、更に途中でふらっと窓からやってきて自然と輪に入ったセレブ猫・アルルフェルも加えて、散々に肉を焼いて食った。
当然のように騎士検定の話になり、俺は今日起こった諸々を話した。
「そう言えば管理人さんの妹がいた」という話から、管理人さんは微妙な顔をした。
たぶん妹がグレてるからだろう――と思ったのだが、実際のところは「魔女として覚醒する前はグレていた」だそうだ。今でも生活態度は色々問題あるが、あれである程度の更生は果たしているらしい。
検定試験に負けて明日の試験には出ない、と言うと、白滝高校とのいざこざを知っている乱刃と猫が何か言いたげにしていたが、結局何も言わなかった。
管理人さんが事情を知らないからだろう。
でも、乱刃はまだしも、まさか猫まで空気を読んで何も言わないとは思わなかった。奴の自由っぷりは猫界隈でも郡を抜いてそうなもんなのにな。
まあ、とにかく。
これで長い長い一日が過ぎていくのだった。
心配事なんて明日に投げて、半ばやけになって焼肉を食う。
何、なるようになるのだ。人生なんて。
俺が婆ちゃんの試験を奇跡的にパスしたように、何が起こるかもわからないのだ。
明日のことは明日考えよう。
今は、それでいい。
そして――明日がやってくる。
誰も予想だにしない、微妙な明日がやってくる。
「――えぇぇーーーーーーーー!!??」
小雨降り止まぬ朝である。
雨音を引き裂くような俺の悲鳴が、寮内に、いや寮外にも響いたことだろう。
衝撃だった。
何が衝撃って、もう、全てが衝撃だった。
167センチあったはずの身長は、160センチ前後まで縮み。
筋肉質とは言えないながらも引き締まっていた身体は、うっすら脂肪をまとい丸みを帯びている。
短かった髪は肩に掛かるほど長く。
そして一番違和感があるのは、胸部である。
平らだった胸は、今やささやかながら二つの山ができている。
つまり……なんだ。
つまり――女だ。
つまり――どう見ても、女だ。
鏡に映る己の姿は、どう見ても男ではなく、女である。
貴椿千歳。十六歳間近。
初めての女体化経験であった。




