第二十三集 真相
使用人たちもすっかり寝静まった深夜。成書杏はできるだけ暗い色の外套を着て雪柳閣を抜け出した。
游廊が思ったよりも明るいことに気づき、一瞬だけ足を止める。中秋節を明日に控え、邸内の灯籠の数が増やされている。
今の家の状況では例年のように華やかに祝うことはとてもできないが、国を挙げての祭日ではあるので最低限の飾りつけをして体裁は整えているのだ。
軒に並べて吊された色とりどりの灯籠を見て、今年は霜葉茶坊の月餅を当日に食べられそうにないことに思い至り気持ちが塞ぐ。
暗色の外套がこの身を隠してくれるか不安はあるが、今さら引き返す選択肢はなく、成書杏は足音を忍ばせて深夜の游廊を進んだ。
人の気配に意識を尖らせながら内院を通り抜ける。音をたてぬよう注意深く二門を開き、外院を表門とは逆方向へと歩みを進めた。
石畳を歩いている途中でふと、夜空を横切る灯りに気づいて、成書杏は足を止め頭上を仰いだ。天灯だ。
奔放な筆運びの絵が描かれた紙の灯籠が、熱の力で一つ二つと夜空にのぼって行くのが見える。
天灯は節句の夜に願いを書いて飛ばすものだが、気の早い誰かが明日を待ちきれなかったのだろう。月や星とは違う、夜空の温かな彩りにしばらく見入ってから、成書杏は顔を正面に戻して歩行を再開した。
外院の一番奥には奴婢が寝起きする建物がある。それより少し手前にある納屋の前で、成書杏は足を止めた。
窓の隙間から見える納屋の中は闇に包まれ、少しも物音がしない。それでも、ここであっているはずだという確信のもとで、扉の閂をはずす。
「離離、いる？」
扉を開いて、そっと中へ呼びかけた。声は返ってこない。
納屋の中へ身を滑り込ませて、扉を閉める。成書杏は少し声を大きくしてもう一度、奥に向かって呼んだ。
「離離、いるのでしょう？」
「……三娘子？」
やっと返事があり、成書杏は胸を撫で下ろす。
竹筒に仕込まれた火折子を懐からとり出し、蓋をはずして息を吹きかけた。ぽっと音をたてて、竹筒の上に小さな火が点る。それで声のした方を照らせば、古い羅漢床にうつ伏せている人影を見出すことができた。
暗闇で物を蹴らぬよう慎重に成書杏が歩み寄ると、離離は起き上がろうとする仕草を見せた。
「そのままでいいわ」
成書杏が静止すれば、離離は身動きをやめて、またゆっくりと身を伏せる。
「……申しわけありません」
力ない謝罪に対し、成書杏は首を緩く横に振った。
板で打たれると皮膚が裂けて、傷が塞がるまでの数日は座ったり歩いたりが困難になるものだ。その上こうして、成章桑の指示によって閉じ込められている。さらに痛めつけるつもりはない。
羅漢床の近くに置かれた燭台に火折子の火を移してから、成書杏は離離の顔の傍で身を屈めた。
「あなたと、もう一度ちゃんと話すべきだと思ってきたの。これを見て」
成書杏は折り畳んだ紙をとり出し、離離から見えるよう燭台の光の中で開いた。
「これが、なにか分かる？」
言われるままに、離離の目がゆっくりと紙面の文字を追って動く。その表情の変化を、成書杏がつぶさに見詰める。
最後まで読み終わったところで、離離はややかすれた声で答えた。
「霜葉茶坊の……証文ですか」
「孫さんに借りた、茶坊と茶商との取引証文よ。見て欲しいのはここ」
証文の左端、成紅杏の署名の上に捺された朱の印を、成書杏は指差した。
「霜葉茶坊の証文には必ずこの印が使われるの。でも、大兄上のところにあった証文は拇印だった。ということは、おそらく印のことを知らない人が偽造したものよ」
成書杏が説明し終わっても、離離は証文を見詰めたまま目線を上げない。刹那の沈黙があってから、歳下の侍女は固い声を発した。
「……そうかもしれません。でも、なぜそれをわたしに言うのですか」
成書杏は眼差しを冷たく細めた。
「あなたなのでしょう？」
勢いよく、離離が顔を上げる。
「違――」
「あなたしか、いないの。証文を偽造して大兄上の荷に紛れ込ませることができるのは、あなたしかいない」
侍女の咄嗟の否定を、成書杏は許さなかった。それでも離離は必死の形相でかぶりを振る。
「そんなはずありません。大公子のところに出入りしていたのは、わたしだけではありませんし、なにより拇印はどうやって――」
「巧果を使ったのよ。茶坊で七夕の巧果を作ったときに、紅杏の指の跡のついた生地を手に入れて、版にした。だから、大兄上の荷から出てきた証文の拇印は左右が反転しているわ」
直接、確認してはいないが。と、成書杏は心の中でつけ足す。
途端に離離の表情が強張った。引き結んだ唇から、みるみる血の気が失せていく。
離離がすっかり沈黙したのを、成書杏は肯定と受けとった。証文を畳み直して袖に仕舞いながら、ようやく、もっとも聞きたかった問いを口にする。
「なぜ、紅杏を巻き込んだの」
離離が気まずげに目線を下げた。迷う心情を示すように、しばらく瞳が彷徨う。
「……大公子が、茶坊を欲しがっていたからです」
「大兄上が？ どういうこと」
間髪をいれず成書杏は問い質す。離離は覚悟を決めたように目を上げて、成書杏を見詰め返した。
「証文を証拠に、卸した茶の代金が未払いだと、高額な延滞金つきで請求をして、茶坊をとり上げるつもりだったようです。それで、わたしは証文の偽造を手伝いました」
「そうだとしても、茶葉くらいで茶坊がとり上げられるほどの金額になるもの？」
「そのために、蘭鳳団を用意していたんです。取引証文に書かれているものはすべて、大公子が茶坊に持っていっているはずです」
成書杏は唖然とすると同時に、一連のできごとが腑に落ちた。
不思議には思っていたのだ。茶坊に置かれている茶の在庫は、帳簿に出入りが記録されている。にもかかわらず、成章蒿の荷から見つかった証文の内容と矛盾しなかったという。雲州産の茶は霜葉茶坊でも扱いがあるため、多少の重なりが生じることは十分にありうるが、違和感は拭えない。
しかし、成章蒿が帰ってきた当初に茶坊に置いていった茶を、成紅杏が処分せずにそのまま保管していたとしたら辻褄が合う。しかも極めて流通の少ない蘭鳳団が含まれていたのなら決定的だ。
優しい成紅杏のことだ。高価な茶を成書杏に言われるまま処分はせず、損ねずに大兄に返そうとでも思っていたのやもしれない。
本来の『霜葉紅』では、成書杏が証文と辻褄を合わせるために茶坊の在庫に直接細工をする。だが令嬢が個人的に使える私財などしれている。その額の少なさでかえって違和感を生み、悪事が露呈するに至る筋道の一つとなる。
現在の状況を第三者から見れば、元の物語と大枠では一致しているかもしれない。さりとて動いている銭の量は桁違いだ。明らかに、罪状もより重い。
「どうして二兄上の前でその話をしなかったの」
いたたまれずに、成書杏はつい声を大きくした。すると離離は、いかにもびっくりしたようすで目を丸くした。
「だって……三娘子は、四娘子がお嫌いですよね？」
