子爵夫人は怒りっぱなしである 10
薄暗い王宮の廊下を歩きながら、私はヨアキムとお父様に告げる。夜会の喧騒が遠くに聞こえる。周りに騎士の一人もいないことを不思議に思いながらも、今から告げる内容が内容なので特に気にせず話を続けた。
「今回のことではっきりしましたわ、私はこの婚約を白紙に戻せないか動き始めるつもりです。とてもではないですが、殿下にエヴァを任せるに気にはなれませんわ」
私は頭に来すぎて何かを突き抜けてしまった様で、返って冷静になった。殿下もエヴァを大事に想ってくれている?殿下の初恋の相手はエヴァではないか?なぜそう思ったのだろう。そんな人間がエヴァを放って延々他の令嬢と踊り続けるはずがない。しかも小休止の間にわざわざエヴァを馬鹿にしに来るなど人を虚仮にするのも大概にしていただきたいものである。
「うむ、わしもそれが良いと思う。ご婦人方には申し訳ないが、あの殿下に孫娘はやれん。しかし、それをやると今後王家から風当たりが強くなる可能性がある。ヨアキム殿、リエーヌ、お前達さえよければエヴァンジェリンはわしが養子にしてスライナト領へ連れて行くが、良いか?」
「お義父さん、あの子は私たちの大切な娘です。とはいえ私では力が及ばずあの子を充分に守ってあげられないでしょう。ですが、あの子を手放すことはもう考えられません。お義父さんさえよければ私共夫婦も一緒に辺境伯へ伺っても宜しいでしょうか?」
「うむ、我が領地には仕事がたくさんあるが、その殆どは危険なものが多いが構わんか?」
「えぇ、勿論です。リエーヌとエヴァの幸せを守れるのであればそんなことは容易いことです。微々たる力ですが私は魔法を使うことができますので、お役に立てることはあるでしょう」
「ヨアキム、それは…」
「あぁ、私は爵位をお返ししてエヴァと君と三人でお義父さんの元へと身を寄せようと思っている。
今の私では、とてもではないが王家へ異論を唱えることはできない。申し訳ありませんが、お義父さんを頼らせていただきたい」
「妻子のために身分を顧みず、義父に頭を下げることができるとは、さすがリエーヌの選んだ男だ。
本来なら爵位を返上などすれば余計に事態が悪化することになるだろうが、わしの庇護下に入るためというのであれば良い判断であろう。そもそもクラン家には最早先が見えん。今の状態でいるよりも我が家に身を寄せた方が良い。
実は今回はその話もしようと思っておった。手間が省けたわい」
「待って、お父様。ヨアキム、貴方本当にそれで良いの?本当に辺境は危険なところだし、何よりも貴方はリザム子爵領を本当に大切に思っていたじゃないの」
「勿論領民達は大事だし、子爵家の名前も守っていきたいと思っていた。
けれど君が思っている様に私はエヴァを殿下に任せる気にはなれない。同じ男として殿下をとても許せない。
それにエヴァの身ばかり君は案じているが、君だって危険なんだ。あの好色なデリア伯爵に目をつけられた。絶対にあの男は君を狙ってくるだろう。本当に悔しいことだが、今の僕ではデリア伯爵から君を守ることが難しい。
領民だって、リザム家の名だって僕にとって大事だ。けれど僕の腕はそんなに長くない。格好悪いことだが、君とエヴァと子爵家の名、そして領民の全てを守り切ることはとてもできない」
そう言ってヨアキムはぎゅっと自分の手を握りしめながら、ひたと私とお父様を見つめながら続ける。彼の言葉に私は認識が甘かったと悟る。デリア伯爵には不快な目に遭わされたけれども、今日限りと思っていた。
「何を守り、何を捨てるのか選択しないと全てを失うことになる。領民には申し訳ないし、貴族失格とは思うが君とエヴァを一番に守りたい」
「私の娘は良い選択をした様だ。君の考え方は我が領土に適していると思う。わしの治める地はここでは考えられないほど過酷な土地だ、君の様に何を守り何を捨てるかを決断できる男には向いているだろう。
ヨアキム殿、そなたさえ良ければわしが持っておるトラン子爵家の爵位を継いで欲しい」
「有難い御言葉ですが、何の殊勲も立てていない私がその爵位をいただけば辺境伯が周りの人間から責められることとなりましょう。そのお言葉は私が貴方の領土で何某かの勲を立ててから伺えますでしょうか」
「ますます気に入った!結婚式当日はどうしたものかと思っておったが、なかなかどうして良い男ではないか。でかした、リエーヌ!
気にすることはない、ヨアキム殿。いや、もうヨアキムと呼ばせてもらおう。わしがわしの息子に複数持っている爵位のひとつを譲るだけの話だ。誰にも何も言わせんよ、それにわしの後継、リエーヌの兄のグランツも同じ様に思うだろう」
そう言ってお父様はばしばしとヨアキムの背中を叩く。「いや、ですが」とヨアキムは固辞しているが、お父様は引きそうにない。けれど、ヨアキムの言葉に胸が痛んだ。
「ごめんなさい、ヨアキム。私のせいで貴方に何もかもを捨てさせることになってしまったわ…」
「何を言っているんだい、リエーヌ。今回のことは僕の力不足でしかない、君が謝る必要などどこにもない。僕がもう少し頼れる男で有ればよかったんだ。こちらこそすまない。僕は僕のわがままで爵位を捨てることになる。もし君さえ良ければ僕が勲を立てて君を迎えに行くまでエヴァを連れて実家に帰っていてくれ。その方が安全だと思う」
「嫌よ、私は貴方と離れる気はないわ。例え貴方がどこに行こうと、どんな身分になろうと私は貴方の妻よ。私とエヴァのために全てを捨ててくれる貴方を置いて私にどこへ行けと言うの?」
「その通りだ、ヨアキム。リエーヌとエヴァンジェリンを守るためと思って、君の矜持を少し曲げて欲しい。なぁに、勲が先か、叙爵が先かの違いにしかならんだろう。これは義父の頼みと思って受けてくれたまえ」
「分かりました、お義父さん。それではひと時でも早くあなた方の領土に貢献して胸を張ってトラン子爵と名乗れる様にしたいと思います」
「うむうむ、さて君たちの馬車はエヴァンジェリンが乗って帰っただろうから、わしの馬車で送ろう。エヴァンジェリンとも話をしてみたい。あのうるさ方のご婦人方があそこまで手放しで褒めるのだ、きっと素晴らしい淑女なのだろう」
「えぇ、とても可愛くて良い子なのよ、お父様。今まで色々と規制があったからスラナイト領まで連れて行けなかったけど是非会って欲しいわ。
…あら?どうしてかしら、我が家の馬車がまだここにあるわ」
そう、目の前には我が家の馬車があった。殿下の婚約者の身内だからと言って私達の馬車は子爵家という身分に拘らず、近い場所に停めさせて貰えていたのだ。エヴァが乗って帰ったのではないのだろうか?




