王太子と毒殺王妃 1
『今の王宮神殿はバーバラ・ハルトしかいないぜ?』
『バーバラ・ハルトは美容に特化していて、治癒はほどほどの腕だ。毒抜きもできない』
覚悟を決めたつもりだったが、リーゼ様が手ずから入れたお茶を前に、思わず固まってしまう。先日、フォックスに言われた言葉が頭に過る。
『死』そんな言葉が頭に浮かぶ。一向にカップへ手を伸ばさない僕にリーゼ様は口に出しては何も言わないが、催促するかのように僕をじっと見つめてくる。その圧に負けて、仕方なく手に取ってはみたが、どうしても口をつけられない。どうにかして誤魔化せないかとは思うが、袖口に流し込むには、お茶は熱すぎる。我慢できないこともないだろうが、リーゼ様に隠し通せる自信はない。この場を切り抜けるべく、手立てを考えていたら、フォックスの他の言葉を思い出した。
『毒抜きができるのはセオドア・ハルトの方だ』
思い出した瞬間、目の前が真っ赤になった。セオドア・ハルト!僕のイヴを連れ去った男。イヴに頼られていた、憎い男。イヴに信頼の目を向けられていたというのに、調べれば調べるほど、悪い噂しか出てこない男。純粋なイヴは絶対に騙されているに違いない。あんな気胡散臭い男にイヴを奪われるわけにはいかない。絶対に取り戻す。
裁判の時に見た、勝ち誇った男の顔が頭に浮かんで思わず奥歯を噛みしめる。
あんな気障な男に借りを作るのはごめんだ。例え、あいつが隣りにいて、その上で僕が死にかけていたとしても、セオドア・ハルトにだけは助けられたくない。そんなことになるなら、死んだほうがましだ。
そう考えたら、躊躇している自分が馬鹿らしくなった。今、ここで死んだのならば、僕はそれまでの人間だったということだ。もし、そうならば、僕はこの世界から排除されるべき人間で、イヴを取り戻すのは間違いだということだろう。
けれど、逆にこの窮地を乗り切り、生き残ったとしたら……。それならば、きっと、運命だ。そう、イヴを取り戻すという僕の行動は正しいということに違いない。
試されているのだと思うと、なんだか楽しくなってきたから不思議なものだ。持ち上げていたカップに口をつける。特に変な味も、痺れたような感じもしない。
僕が紅茶に口をつけたのが嬉しいのか、ふふふっとリーゼ様はまるで少女のように笑った。
そして、テーブルに並べられている、焦げ茶色の菓子をひょいと摘まんで口に入れた。匂いからしてチョコレートのようだが、よく見る、四角い武骨なものではなく、楕円形や球体、三角なものなど様々な形をしていて、美しい装飾がされている物もある。なかなか見ない菓子で興味をそそる。イヴに贈ったら、きっと喜ぶだろう。どこで購入できるのか、気になったが、さすがにリーゼ様には聞けない。
後でフォックスにでも調べさせるか。でもあいつ、少しポンコツ気味なんだよなぁ……。ここにいない――本当に役に立たない――男を思い浮かべて、思わずため息をつきたくなったのをグッと我慢する。先ほどまで死を覚悟していた自分がこんなどうでも良いことを思い出して、ガッカリするのはどうにもおかしくて、笑い出したくなる。
そんな僕の顔を覗き込んで、リーゼ様は再度笑った。こんなに笑うリーゼ様を見るのは初めてだ。こうして笑っているリーゼ様は『柔和なお婆さん』という感じで、漬け込みやすそうだ。つられたように見せかけて、僕も微笑んでみせる。長年培った、王族の笑顔だから――残念ながら、それ以外の笑顔を僕は知らない。まあ、イヴにならもっと違う顔を向けられるだろうが、それ以外の人間には取り繕ったものしか、今は向けられない――どこまで役に立つものかと思っていたが、不思議なことにリーゼ様は先ほどよりも大きな声で笑った。
「優しい祖母じゃあなかったからかしらと思ったけれど……。どうやら、あなたの耳に余計なことを吹き込んだ人間がいるみたいね」
思わず咽そうになるのをグッと我慢する。まさか、この人自分の所業がどれだけ人の口に上っているのかを知らないのか?そんなことってあるのか?
……もしかしたら、この人の話は全て噂にすぎず、本当はかわいい人なのかもしれない。拗ねたような雰囲気を醸し出すリーゼ様に笑顔を向ける。先ほどより、自然に笑えているかもしれない。……いや、僕の微笑みは、恐らく何も変わっていないだろう。イヴが僕の下を去ってから、このかた、僕の心は凍ったままだ。全く残念だ。ここでもっと上手に微笑めたら、目の前の相手を味方に引き入れることができたかもしれないのに……。
微笑みかける僕を楽しそうに見ながら祖母は紅茶を口に含み、また茶菓子に手を伸ばす。先ほどからせわしなく繰り返す行動は貴婦人のものというよりも、幼い子供のようだ。もしかしたらリーゼ様は、実は僕以上に緊張しているのかもしれない。
「なんのことだか、わかりかねますね」
「ふふふっ。その答えは肯定しているのと同じよ。ごまかすには、まだもう少し修業が足りないわね」
僕の言葉にリーゼ様は笑うと、スッと目を細める。たったそれだけのことなのに、目の前の相手が醸し出すオーラが変わった。こちらを射抜くような目に、凍てつくような雰囲気に、背筋が冷える。先ほどまでふわふわ笑っていたからと言って、油断しすぎた。目の前の人物は王宮に潜む毒蛇、『毒殺王妃リーゼ』だ。今の僕が敵う相手ではない。先ほどまで、身に沁みついた笑顔しか浮かべられないことを残念に思っていたが、今は助かったとしか思えない。僕の顔には先ほどと変わらぬ笑顔が浮かんでいるだろうから。
「大丈夫よ。あなたは私の姉の孫だもの。本当の孫のようなものよ」
内心冷や汗をかいている僕に向かってそう言うとリーゼ様は目元を和らげた。それだけで先ほどの雰囲気は霧散したが、安心できるはずがない。今は優しげに振舞ってはいるが、いつ、こちらに牙を剥くか分からないのだから。
「あらあら、驚かないってことはこれも知っていたのね。まあ、公然の秘密ですものね。それに、神殿の風使いが接触してきたのだから当然かしら?」
その言葉にゾッとする。王都に来たばかりではないのだろうか?いったいどこまで何を知っているのか。それとも、ジーンはリーゼ様の手駒なのか……いや、それはないだろう。ジーンの憎む相手はリーゼ様の妹だ。しかし、それを言ったら僕も憎い相手の親類【姉の孫】だ。けれど、彼の必死さは嘘ではなかった、と思う……いや、しかし……どうなのだろうか。悔しいことに情報が足りない。
内心混乱している僕を見てうっすら微笑むとリーゼ様は手ずから紅茶を自分のカップに注いだ。そうしてまたひと口、口に含む。それから少し思案した後に、楕円形のチョコレートを摘まみ、口元へ運ぶ。無邪気な仕草だが、それが返って恐ろしいことに今になって気づく。
「美味しいわよ。あなたもいかが?」
そう笑いかけられるが、目の前の菓子を摘まむ気にはなれない。僕は何も言わず、紅茶を口に含んだ。僕が不要と言ったことが分かったリーゼ様は「美味しいのに」と呟いたけれど、それ以上は勧めてこなかった。
にこにこしながらこちらを見ているリーゼ様に僕も微笑み返す。まるで狐と狸の化かし合いだ。そうは思うものの、下手なことは口にできない。リーゼ様がどうして王都へ来て、僕に会おうと思ったのか……それが分からない内に話し出すのは手の内を明かすことになる。どれだけ息苦しくても、黙っていなければなるまい。
そのまま、数分睨み合っただろうか。先に口を開いたのは圧倒的に優位に立っているリーゼ様だった。リーゼ様は悪戯っぽく、クスリと笑う。
「なぜ会いに来たのか、分からないって顔をしているわね。別に隠す気はないわよ?……そうね、率直に言おうかしら。私はあなたを助けに来たのよ」
微笑みを浮かべているというのに……『僕を助けに来た』、確かにそう言ったのに、リーゼ様の雰囲気は今まで一番、固い。その瞳も先ほどまでの温かさは全くない。『僕を殺しに来た』そう言われた方が納得できるほどだ。まあ、だからと言って「はい、そうですか」と殺されてやる気は全くないが。
顔色を読まれたことは仕方が無い。顔色を読まれた上で『失言が多い』と長に指摘されたのはつい先日のことだ。一朝一夕で欠点が克服されるはずがない。読まれて当然だ、そう考えて行動した方が良いだろう。
リーゼ様の言葉にひと言も返さず、けれど微笑みを浮かべたままでリーゼ様を見つめ返す。リーゼ様はそんな僕を楽しそうに見ると、うっすらと笑ったまま、続けた。
「それで、あなたはこれからどうしたいの、ジェイド?」




